「成熟を目ざして進もうではありませんか」 (へブル6:1)

Pastor Ino

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今回は、「成熟を目ざして進もうではありませんか。」へブル6:1)からのメッセージです。へブル書の作者は、5章から、大祭司としてのイエスの働きを詳しく述べ始めます。それも、イエスは、アロンの子孫以上の者、メルキゼデクの位に等しい祭司であることを語って行きます。しかし、その内容がどんなに素晴らしいものであったとしても、それを聞く者の姿勢がとても大切で、正しい姿勢で、聞く必要があります。神のことばを正しい姿勢で聞く時に、みことばはその人を変える力があるからです。逆もしかりです。正しい姿勢で聞かないと、岩地にまかれた種のように、芽が出ても枯れてしまいます(マタイ13:5,6)。もう一度、信仰者として成長する人生がある、そのことに気付いて行きたいと願っています。成熟を目ざす人生をご一緒に求めて行きましょう。それでは、へブル書5章11-6章8節を読んでいただきたい。
 
5章11節には、このイエスについて、「私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」と書かれています。12節には、「あなた方は、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」と続いています。耳が鈍くなっている、神のことばの初歩をだれかに教えてもらう必要がある、との厳しい指摘がなされています。これから語ろうとしているイエスの祭司としての働きをあなた方は、聞こうとしているのか、そして、このイエスが与えてくださる救いをどれだけ味わい、信じているのか、へブル書の作者は、そのように、読者に問いかけています。それでは、この手紙の読者はどのような人たちであったのでしょうか。その背景を簡単に説明します。旧約聖書からの引用が、ギリシャ語に訳された七十人訳聖書からであることから、イスラエル以外に住んでいたユダヤ人に充ててこの手紙が書かれたように理解できます。おそらくイタリヤにいたユダヤ人に充てて書かれたように思われます(13:24)。ご存知のように、イタリヤでは、ローマ帝国内の迫害がますます強くなってきました。キリスト教への迫害は紀元313年まで続いて行くのですが、ユダヤ教はローマ帝国内では、認められた宗教でありました。キリストへの迫害が強くなればなるほど、そのルーツであるユダヤ教に戻ろうとする信仰者が多く出てきたことは容易に想像することができます。そのような理解をもってこの箇所を読んでいくと作者の思いが理解できると私は思っています。勿論、キリスト教のルーツはユダヤ教であっても、その内容は大きく違います。その違いを十分に理解できない信仰者がいたようで、自らの保身のためにユダヤ教に戻ろうとする者も多く現れてきたようです。キリストを信じている者で、いつまでも迷っていた者、その信仰をしっかり持てない者たちを念頭に入れてこの箇所が書かれたように思います。12節の堅い食物、との表現ですが、堅い食物を食べれない、つまり福音を良く嚙みしめ味わうことのできない信仰者は、幼子のようであると指摘しています。13節には、義の教えに通じてはいませんとありますが、旧約の時代から新約の時代に代わったこと、イエスを信じていく者が義とされていくことに気づかない者がいることが指摘されています。成長するクリスチャンは、堅い食物も味わうことができるのです。それも福音の喜びを持って。そして、彼らは経験によって良い物と悪い物とを見分けることができるのですとも続いています(14)。聖霊の助けによって私たちは、物事の判断ができると私は信じています。今、この原稿を書いている間、アメリカの大統領の選挙の開票のプロセスやその結果がテレビから放映されています。誰が選ばれるにせよ、神のみこころが、この選挙で表わされて行くようにと祈らされています。神様はアメリカをこれからも大きく用いてくださると私は信じています。
 
6章1節には、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」と書かれています。具体的には、「死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど、基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」と続いています。実はこれらの内容はユダヤ教でも教えている内容で、特にキリスト者だけが学ぶ内容ではありません。申命記11章26-32節では、祝福とのろいのレッスンが書かれていて、死んだ行ないからの回心を美しく勧めています。興味ある方は、申命記を開けて、ぜひ読んでみてください。これらの初歩の教えの内容は旧約聖書からも多く学ぶことができる事がらでもあります。私は、キリスト教の視点からその内容に簡単に触れてみたいと思っています。私たちは、キリストを信じることで、罪の赦しを得ます。もう動物を犠牲にする必要はなくなりました。罪から解放されて回心した人生が始まってまいります。信じた者は洗礼を受けます。きよめの洗いとは、広く洗礼式に言及する言葉です。ユダヤ教に異邦人が改宗する時にも洗礼を受けますが、私たちは父なる神と子なるキリスト、そして聖霊の御名によって洗礼を受けます。改宗のしるしと言うよりも、キリストに従う信仰の証として、洗礼を受け、教会に加えられて行きます。使徒の働き6章1-6節に、ステパノ、ピリピなどの7人の信仰者が按手を受けたことが書かれていますが、教会での最初の按手式が持たれました。彼らは、群れのリーダーとして、使徒たちから按手を受けました。これは、特別な職務に任命を受けるとの意味を持つものです。また、病気の癒しのためにも、聖霊の油注ぎのためにも按手して祈ることもあります。今でも私たちの教団では按手式を持ち、任命の式を定期的にしています。しかし、按手の前には、面談の時を持ち、いくつかのテーマで論文を書いていただき、その方の信仰を吟味し、その働きにふさわしいかの判断をして按手式を持っています。さらに、キリストは私たちに永遠の命を与えることのできる方です。キリストのよみがえりがそのことを確かにし、私たち信仰者は、いつか神の前に立ち、さばきを受けると信じています。クリスチャンは、キリストの十字架の犠牲の故に罪の赦しをいただき、永遠の命が与えられてまいります。ユダヤ教では、キリスト者が確信しているような、復活の希望やとこしえの裁きの教えはないと思います。復活や神のさばきの理解において、パリサイ人やサドカイ人の理解は違っているからです。これらの初歩の教えをベースにして、成熟を目ざす生き方があると教えられています。それは、神の助けによって可能となってまいります(3)。
 
さて、ユダヤ教に戻ろうとしていたクリスチャンたちに、厳しい警告の言葉が続いてまいります。4-6節には、「聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」と警告されています。私たちは、注意してこの言葉は理解しなければなりません。なぜならば、キリストの赦しは、無制限であり、どんなに堕落した者さえも立ち返らせることができるからです。ですから、この警告は、ある面、聖書の原則に反する内容でもあります。そのことに気付く時に、この警告は、限定的にユダヤ教に戻ろうとしているクリスチャンに向かって発せられていると理解すべきであると私は思っています。しかしながら、どんなクリスチャンも堕落する可能性があるとの恐れを持って生きるべきでもあります。律法主義には陥らない。福音に生きる。自分中心の人生を止めて、神を愛し、隣人を愛する生き方を心掛ける。そのように変えられた生き方を目指すことは大切です。物事の表面だけを見るのではなく、その言葉の根底にあるメッセージを理解する、そのような視点も持つことも大切です。そのような視点を持つ生き方も、成熟を目ざす生き方であることに再度気づかされます。

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