「キリストは新しい契約の仲介者です。」(へブル9:15)

Pastor Ino

 ↓メッセージが聞けます。

今回は、「キリストは新しい契約の仲介者です。」(へブル9:15)からのメッセージです。前回は、クリスマス礼拝で、神の絶妙な選びのタイミングでイエスの誕生が起こったことを語りました。マタイ1章17節には、「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」と書かれています。三区分にまとめられている、各区分の最初の人名または出来事は、神の契約と関係があります。それらの契約はキリストにおいて成就したのです。そのように前回は、指摘いたしました。そのことを簡単に見てみましょう。神とアブラハムとの契約が最初のものですが、創世記12章3節には、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と約束されています。地上のすべての民族が祝福される、それは、キリストによって成就することになります。次に神とダビデとの契約は、第二サムエル7章16節に書かれています。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」このとこしえまでも堅く立つとの約束も、教会がおこされて、イエスによって成就することになります。3番目は、バビロン移住の出来事ですが、バビロン移住は、旧約の律法を守ることのできなかったイスラエルの民への裁きの一面があります。その結果、行いによって救われていく旧約の律法から解放され、信仰によって義とされていく新しい時代、新約の時代が始まることになります。新しい新約の時代は、キリストによって実現していくのです。今回は、贖いをテーマにして、新しい契約の仲介者としてのキリストの働きを共に学んで行きたいと願っています。それでは、へブル書9章1-28節を読んでいただきたい。
 
9章は、全体的に古い契約による贖いと新しい契約による贖いが対比されて書かれています。1-10節までが、古い契約における贖いについて述べています。旧約では、礼拝の規定の中心が贖いの業であると言えると私は思っています。罪の赦しを求めて、彼らは動物をささげ、動物を殺し、血を流す、これは礼拝の一部であります。勿論、他の感謝の捧げものをささげることも大切な礼拝の行為でもあります。しかし、9節には、どんなに動物をささげても、礼拝する者の良心を完全にすることはできないと書かれています。また、汚れた動物を食べない決断をしたとしても、きよめられた確信を持つこともできません。10節には、それらは新しい秩序の立てられる時まで課せられたとありますから、旧約の礼拝の在り方は一時的で不完全なものであったと言うことができるのではと私は思っています。実際、新約の時代に生きる私たちは、旧約の礼拝の規定に縛られてはいません。
 
11―14節までは、キリストによる新しい契約の贖いが書かれています。12節には、「やぎと小牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあります。神の子であるイエスの十字架の犠牲は、ただ一度で、永遠の贖いであることが強調されています。14節には、キリストの犠牲は、私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすると、書かれています。旧約のきよめは一時的であっても、新約のきよめは永続的なものです。私は、キリストの十字架での死が私の罪の赦しのためでもあったと信じています。さらに、キリストは私をきよめてくださっているとも信じています。そう信じて、十字架での贖いの業を成してくださったイエスに心から感謝をしています。このイエスがまことの聖所で、永遠の贖いを成し遂げられておられる。本当に感謝です。私たちは、そう信じて、罪の赦しを求めて、いつでも、神に祈ることができるのです。
 
15-22節までは、キリストは新しい契約の仲介者であることが書かれています。分かりにくい箇所でもありますが、旧約も死をもって確立したように、キリストによる新しい契約も、遺言同様に、キリストの死によって有効になると説明されています。22節には、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」と書かれています。キリストは新しい契約の仲介者、それもご自身の死をもって、罪の赦しを可能としてくださったのです。
 
23-28節では、キリストによる贖いは完全なものであることが説明されています。キリストはただ一度、十字架での死を通して、私たちの罪を赦してくださった。その為に生まれてくださり、もう一度、私たちの救いの完成のために戻って来て下さる。その約束は28節に書かれています。私たちの救いの完成のためにもう一度戻って来てくださる。そう信じて生きるのが私たち信仰者の歩みです。
 
今私たちは、毎週礼拝をささげています。もう旧約の時代のように動物を犠牲にして、神に近づく必要がなくなりました。それは仲介者としてのイエスの十字架での尊い犠牲があったからです。私たちは心からの賛美を神にささげています。そして良い行いをもっても神をほめたたえています。礼拝の姿が変わったのです。そのことが、へブル13:15,16節に表現されています。
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
 
 

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