「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)

Pastor Ino

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今回は、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」(マルコ14:36)からのメッセージです。この言葉に続いて、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」とイエスが祈ったゲッセマネでの祈りを取り上げます。マルコ14章26-42節を読んでいただきたい。

イエスは、弟子たちに言われる。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。」と。この言葉は、ゼカリヤ書13:7節の引用であるが、十字架の出来事や弟子たちの裏切りの様子が旧約聖書に預言されていることは驚きである。弟子たちは、もちろんこの時点で自分たちが裏切り者になることを認めようとはしない。ペテロは、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と実に心強い告白をする。しかし、イエスは「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」と語りかける。イエスの弟子であることの難しさや、自分たちの信仰の弱さを、弟子たちは後で再認識することとなる。

さて、弟子たちが裏切ることが預言されていたように、十字架の苦しみも旧約聖書に預言されている。今日は、その中で代表的な箇所をイザヤ書と詩篇から2箇所取り上げてみる。その内容を少しでも深く理解する時に、十字架を前にしたイエスの苦しみや心の葛藤が少しでも理解できるようになると思うからだ。マルコ14章32-34節では、「ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは、悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」と、イエスの苦しみが表現されている。マルコ10章45節には、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」とあった。贖いの代価とは、奴隷を自由にするために支払う身代金のことを意味する。以前そのことを語ったが、十字架の死は、私たちの罪を赦すために、私たちに代わってイエスが神の裁きを体験することである。十字架の上で、罪のない方が罪人とされ、神からの刑罰や断絶を経験する。十字架の意味を知るイエスは、このゲッセマネの祈りで、その現実の大きさと対決することとなる。それは、決して単純で、やさしい現実ではない。

イザヤ書53章には、苦難のしもべの姿が預言されている。53章3-5節には、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやさせた。」と書かれている。病や痛みとは、罪をおかした人類が受けるのろいの象徴である。そののろいをメシヤが代わって受けてくださるとの預言である。また、刺し通され、砕かれたとは、メシヤの受難、つまりキリストの十字架を指し示している箇所である。イエスはキリストとして、人類へののろいを背負い、十字架で刺し通されるのである。

次に詩篇22篇を開けてほしい。この詩篇は古くからメシヤの受難の詩と呼ばれている。1節には、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と十字架上でのイエスの叫びを預言している。これは、神との断絶の苦しみの叫びの言葉である。三位一体の神である、父と子の間に断絶の苦しみが起こるのである。この断絶を通して、イエスは私たちの代わりに罪人としての裁きを神から受ける。イエスだけが理解できる苦しみであろうと私は思う。6節には、「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」とある。人間として取り扱われない苦しみを、イエスは十字架で受けようとしているのである。

旧約聖書の中には、十字架での苦しみを預言している箇所は他にも多くある。それらを完全に理解しておられたイエスは、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られる。この杯とは、十字架での苦しみである。弟子たちにはその苦しみは理解できない。キリストが祈っている間、ひどく眠けがさしていたようで、眠ってしまったようである。ルカ22章44節には、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とある。私たちも弟子たちと同様にイエスの苦しみは決して理解できないと思う。罪を贖う十字架での苦しみと喜びは、イエスだけが理解できるものである。弟子たちや私たちがどうであれ、十字架での苦しみを通して、人類の罪の贖いをする、それがイエスの強い意思であり、使命であるからだ。そして、イエスは、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と続いて祈られる。神のみこころを最もよくご存知のイエスは、それが最善の道であることも知っておられる。このゲッセマネの祈りの後、逮捕、裁判、十字架と続いていく。

第二コリント5章21節には、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と書かれている。私たちの代わりに罪とされたイエス、この方に信頼して、生きる人生が私たちの前に開かれている。それは、罪の赦しを与えられる人生だけではなく、神の義とされて生きる人生でもある。へブル2章18節には、「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」と約束されている。十字架での苦しみを知っておられるイエスに信頼と感謝を持って、イエスと共に生きる人生を始めて行きたいと心から願っている。

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