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最初にもう一度、11章6節の言葉を読んでみます。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」と書かれています。神がおられることを信じる信仰、そして、神を求める者には報いてくださる、そのことを信じる信仰、その信仰を持って行きたいです。ところで、今日取り上げるモーセは、出エジプト記の中で最も重要な人物です。出エジプト記1-2章には、モーセが生まれたころのイスラエル人の苦しみや、モーセの誕生の様子が書かれています。ぜひ、読んでみてください。
ヘブルの作者は特別に5回に渡り、信仰によってと、モーセの信仰の歩みを取り上げています。へブル11章23節には、「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をもおそれませんでした。」と書かれています。ここでの信仰はモーセの両親の信仰です。王の命令をもおそれない、それは、神を恐れて、人を恐れない、そのような両親の信仰があったことを指摘しています。モーセの意味は「引き出す」との意です。モーセは水の中から引き出だされ、また、自分の民をエジプトから引き出す、その名前の意味する働きをなすことになります。この両親の信仰によって、モーセがナイル川から助けだされ、パロの娘に拾われ、その王女の息子になります。
24節から、モーセの信仰が書かれています。そこには、「信仰によって、モーセは成人した時、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、・・・神の民とともに苦しむことを選び取りました。」と書かれています。神の民とともに苦しむことを選び取る、それは、安易な道ではありません。26節には、「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」とあります。モーセが神の民とともに苦しむこと、またそのために受けるそしりは、キリストのゆえであったと理解されています。出エジプト記4章22、23節には、「主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。・・』」と書かれています。主ご自身が、イスラエルをわたしの子と呼んでおられます。メシヤもメシヤの民も深い一体感を持って語られています。信仰によって、永遠の都を目指して、神の民のために、そしてキリストのゆえに苦しむことをモーセは選んだのです。26節の後半には、「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」とあります。私たちも、永遠の都、神からの報いに目を注ぐ人生を歩んで行きたいと願っています。
27節から、モーセは信仰によって、エジプトから離れ、目に見えない神にお会いし、パロとの戦いに挑んで行ったことが語られています。神は、エジプトを10の災いで打たれます。その最後の災いが、初子が神に打たれて亡くなることです。これらの災いを通して、エジプトはイスラエルを奴隷から解放することになります。28節には、「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。」と書かれています。このことを記念して今でもユダヤ人たちは過越しの祭りを行なっています。門柱に羊の血を塗る、その血が塗られた家には初子を滅ぼす者が入らないで、過ぎ越されたのです。このことはキリストの十字架の出来事を指し示しています。キリストを信じる者は、神の裁きを受けることはないのです。それも信仰によってと書かれています。聖書の中で最も有名な箇所、ヨハネ3章16節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。信仰によって彼らは過越しを経験したように、私たちも信仰によってキリストの贖いの業を受け入れ、救われていくのです。
29節には、「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。」と書かれています。エジプトの軍隊に追われて紅海の岸辺に立つ群衆に向かって、神は奇跡の業を行います。出エジプト記14章を参照してください。信仰によって、彼らは困難に勝利します。モーセは民のリーダーとして、どんなにか試練や困難に直面したかと私は想像します。もう一度、試練の目的を、ローマ書5章3-5節を読んで確認してみましょう。試練や患難は、忍耐を生み出す、そのことを心に留めていきたいです。この試練を通ったモーセを、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民12:3)と聖書は記録しています。私たちも、信仰を持ち続けて、人の痛みや苦しみに共感できる者、そして謙遜を学ぶ者にさせていただきたいと願っています。