↓メッセージが聞けます。(礼拝録音)
12章15節には、「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、」と書かれています。新改訳聖書では、よく監督してと訳されているが、2017年訳聖書では、気をつけなさい、と訳されています。気をつける、よく監督して、とは14節、またそれ以前の内容にかかっている勧めの言葉です。14節では、「聖められることを追い求めなさい。」と書かれています。キリストを信じる者には、聖められる人生があるのです。キリストの十字架での贖いの業は、私たちクリスチャンを聖めるためのものであります。監督との言葉で、私は野球の監督の働きを思い起こします。監督は試合の流れに対応してよりふさわしい選手を選びます。良くない選手は引っ込めて、その状況に適応できる選手を選びます。私たち信仰者の人生においても、同じです。気をつける、よく監督してとの言葉は、その状況に応じた神の約束の言葉を私たちの心に与えて行く必要性があることを教えていると思います。私は、ピリピ4章4節からの言葉を、失望した時に読むようにしています。そこには、「いつも喜びなさい。・・・何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。・・」と書かれています。落ち込んだ心にこれらの言葉を私は送るようにしています。監督する時には、小さな点を見るのではなく、神様の大きな視点で見ることが大切であると思っています。イエス様は、大祭司です。贖いの業を十字架の上でなしてくださった方です。今は天において、私たちのためにとりなしの祈りをささげておられます。イエス様は新しい契約の仲介者です。旧約の時代は終わり、新約の時代が来たのです。恵みの時代が始まったのです。そのように神の恵みが私たちに与えられていることに目を注いで行きたいと願います。続いて、恵みの時代が始まったことを、ヘブルの作者は新旧の礼拝に視点を置いて指摘しています。
22節~24節には、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数のみ使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」と書かれています。近づいているとの表現で、新約時代の礼拝の姿を教えています。恵みの時代には、旧約聖書が教える礼拝と異なった礼拝が起こっているのです。18節からは旧約時代の礼拝の姿が書かれていますが、それは、律法にしばられた礼拝であり、忍耐であり、恐れであったようです。しかし、恵みの時代の礼拝は全く異なります。まず、この地上での礼拝から、生ける神の都での礼拝に視点を変えています。み使いたちが私たちに仕えてくださる礼拝です。へブル1:14節参照。私たちの教会を天に登録されている長子たちの教会と神は見ておられます。長子とは、神の財産を相続する者です。そこには、万民の審判者である神がおられます。父なる神は、キリストの十字架での贖いの故に、私たちを義なる者として受け入れておられます。全うされた義人たちとは、キリストの十字架での贖いを業を受け取った者たちです。参照10:14。そして、私たちの礼拝の中心に新しい契約の仲介者であるイエスがおられるのです。新しい礼拝が恵みに生きようとする信仰者に開かれているのです。福音が語られて行くところに信仰者が起こされ、新しい礼拝が起こってきます。
12章28、29節には、「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」と書かれています。私たちは揺り動かされない御国を受けています。イエスが十字架に着き、罪の贖いを完成し、天に昇り、神の右の座にお着きになられたのです。揺り動かされない御国が存在するのです。感謝をささげるに十分の理由があるのです。この方を慎みと恐れとをもって礼拝し、その方にお仕えする生き方があるのです。さらに、私たちの神は焼き尽くす火ですと結ばれています。焼き尽くす火、この言葉を私たちは福音を持ってあらたに捕えることができます。旧約聖書の時代には、イザヤ33章14節にあるように、罪人たちを焼き尽くす恐ろし火として理解されていました。しかし、福音を信じる私たちにとっては、神の焼き尽くす火を、私たちの罪を焼き尽くす火であり、私たちの罪過も古い性質も焼き尽くす火として理解することができるのです。神の聖い火によって私たちは変えられ、聖化の人生を始めるのです。この火を神の愛の火、福音の火として理解して行きたいと思います。
よく監督して、神の恵みから落ちることがないように、お互いに励ましあって行こうではありませんか。