↓メッセージが聞けます。(第一礼拝録音)
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6章1節には、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」と書かれています。ウジヤ王が死んだ年とは、紀元前740年頃です。ウジヤ王は、神を信じ祝福された人生をスタートしましたが、後に高ぶりと不信の罪で、神に打たれ、ライの病で亡くなった王です。参照、Ⅱ歴代誌26章16-23節。ちょうど南ユダの王国に暗雲が覆っている時期です。そのような時期に、イザヤは高くあげられた王座に座しておられる神を見たのです。高くあげられた王座に座しておられる主との表現は、彼が見た主こそ、この世界を絶対的な権威と力で支配しておられる方であることを示しています。そのすそは神殿に満ちとは、神の栄光が神殿全体に満ちている様子を表現しています。その栄光はあまりにも輝いており、み使いでさえも直視できない様子が2節に表現されています。セラフィムと表現されているみ使いたちが、6つの翼のうち、2つで顔をおおい、2つで両足をおおい、2つで飛んでいたと書かれています。神の聖さ、また栄光の前に、み使いでさえ、自分の顔を、そして両足をおおわなければならない。全く聖く、栄光や尊厳に満ちておられる父なる神の前で、謙遜にならざるを得ないみ使いの姿が描かれています。まして私たち人間は決してありのままで神の前に出ることはできないはずです。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全知に満つ。」と呼び交わしているみ使いたちの姿を見て、イザヤは語ります。5節には、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目でみたのだから。」と書かれています。全く聖い方の前に立ったイザヤの心の叫びです。しかし、6、7節も見ますと、セラフィムの一人が祭壇の上から燃えさかる炭を取って、イザヤの口に触れて言います。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」と。祭壇の上の燃えさかる炭とは、罪のためのいけにえが焼かれて炭になったもののことで、贖いの業がイザヤのためになされたことを意味しています。新約の時代に生きる私たちにとっては、イエスの十字架での犠牲があったがゆえに罪の赦しが与えられています。旧約の時代においては、動物の犠牲があって罪の赦しが与えられています。罪の赦しをいただいたイザヤに神は語りかけます。8節で、「だれを遣わせよう。だれがわれわれのために行くだろう。」と書かれています。神様は複数形で表現され、三位一体の神の存在が明らかにされています。ところで、栄光という言葉も父なる神に関係して語られますが、同様に子なる救い主に関連して使われています。4章2節には、子なる救い主の姿が預言されており、この方も父なる神さまと同様に栄光に輝くと表現されています。
イザヤは神の問いかけに答えて言います。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と。神の呼びかけにシンプルに応答する、これがイザヤの召命の物語です。神の聖さ、栄光を見て、さらに罪の赦しを与えられて、感謝な心で、ここに私がおります。私を遣わしてくださいと信仰の応答をする。私はこの箇所を感動を持って読みます。前回、摂理という言葉を説明しましたが、愛なる神が私の人生を前もって見てくださっている。私の必要にも答えてくださっている。私も、その信仰に立って、神の呼びかけに応答する者でありたいと願っています。ところで、どうでしょう。神の言葉を預かって語ってもその言葉に耳を向けようとしない民の現実があるのです(9、10節)。南ユダの国民も、もし悔い改めて神に立ち返ることがなければ、捕囚とされることが言及されています。しかし、それでも切り株が残って行くことが語られ、どんな困難な中でも最後まで忠実な人たちが残されていくことが約束されています(11ー13節)。私たちも安易な信仰で満足してはいけないと思います。迫害を恐れてはいけません。また、神の愛を語り続けることを止めてはいけないと思っています。罪を悔い改める者には、神は回復の業を与えてくださり、新しい人生を備えてくださることを信じて行こうではありませんか。
神の召し、それは、私たちが救われて、キリストとの交わりの中に生きることでもあります(Ⅰコリント1:9)。一人一人が神の召しを自覚して、その召しにふさわしい歩みをしたいと願っています(エペソ4:1)。
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