↓メッセージが聞けます。(ZOOM礼拝録音)
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40章1節には、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる、とあります。慰めのメッセージが語られる新しい時代がきたのです。2節には、「エルサレムに優しく語りかけよ。・・その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」と書かれています。バビロン捕囚の体験がどんなに惨めで悲しいものであったとしても、解放の時が訪れるのです。その労苦は終わり、その咎は償われたとあります。このメッセージはユダヤの人たちだけに限りません。新しい都エルサレムに招かれている私たちクリスチャンへのメッセージでもあります。私たちの以前の人生がどんなに惨めなものであったとしても、労苦から解放され、咎は償われ、解放の時が訪れるのです。この慰めのメッセージはイエス・キリストによってもたらされて行きます。3節には、荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。・・大路を平らにせよ。」とあります。この言葉は、ちょうど新約聖書に出て来るバプテスマのヨハネを指し示す預言の言葉です。彼は荒野で叫んだのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)と。私たちも救い主を待ち望む姿勢を確立していきたいと思います。信仰によって、慰めのメッセージを受け取ることができるのです。
6-8節には、人間のはかなさを伝えるメッセージが書かれています。だからこそ、神の言葉を信じてより頼む必要があることを指摘しています。私たちの人生は草のようなもの。その栄光は、野の花のよう、しかし何時か、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(8)と。このメッセージはバビロン捕囚を前にした民にとっては心に響くものであったのではと私は思います。同時に、人生のはかなさを知らなければ、福音の価値にも気づかない、そのように私たちに語りかけるメッセージでもあると思います。
9-11節は、慰めのメッセージの締めくくりの言葉が書かれています。私たち信仰者はこの慰めのメッセージを伝える必要があるのです。私たちは、力の限り語るのです。イエス・キリストは私の救い主、私の羊飼い、私をふところに抱く方と。(11)
12-26節は、神様はどのような方であるのかを読者に明らかにしようとしています。「だれ」と「どんな」(18)との言葉をもちいて、創造主なる神の存在を明らかにしようとしています。26節には、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばわる。・・」とあります。参照詩篇147:4。創造された方は、私たち一人一人の名を読んでくださる方です。
27-31節は、信仰への招きの箇所です。27節にあるように、人は迷いやすい者です。私の正しい訴えなど聞いてはくれないと、心を閉ざすこともあります。しかし、私たちは28節からの招きに応答して生きるべきです。慰めをあたえようとされる神がおられるのです。罪の贖いを与えることができる方がおられるのです。この方は精力に満ち、その力は強いのです(26)。そして、全てを創造され、私たちを知っておられる方なのです。この方は疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつけることができる方なのです(29)。30-31節を読んでみます。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。ご一緒に、目を上げて、永遠の神、創造主を見上げようではありませんか。この方を待ち望んで力をいただき、鷲のように翼をかって上っていこうではありませんか。小さな世界に目をとらわれないで、大空から、神の視点をいただいて、世界を見てみようではありませんか。この信仰への招きに応答して行きたいと願っています。
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