神の一人子(マルコ1章10節-11節)_シーファン宣教師

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数年前に一人の留学生が私たちのバイブルスタディに来てくれました。彼は私たちと食事をし、聖書について皆で話し合うのを楽しんでくれましたが、しっかりとした信仰を持ったイスラム教徒でした。彼はこんなことを言っていました。「偉大な神が人間と性的な交わりを持つとはどういうこと?神への冒とくじゃないか。」また彼は,キリスト教の神は父なる神、キリストの母マリヤ、子なるイエスの三つの神だと思っていました。もちろんそれは正しくないので、キリスト教について正しく彼に説明しました。

彼のように、皆さんも「イエスが神の一人子とはどういう意味なのか」、また「神は唯一であられるのに、三つの位格(いかく)があるとはどういうことか」と思いめぐらしたこともあったかもしれません。今日はこの二つの質問について考えながら、マルコの福音書を学んでいきましょう。

 

〈イエスが神の一人子とはどういう意味か〉

マルコはイエスの生涯と教えについて書いていますが、最初からイエスがどなたなのかをはっきり書いています。マルコの福音書の1章1節には「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」とあります。イエスは単に偉大な教師であるとか、ものすごい奇跡を行う人というのではなく、まさしく神の一人子であると書かれています。

マルコの福音書1章9~11節を読んで、イエスが登場した最初の場面をもう一度思い出してみましょう。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

イエスが神の一人子であるとはどういう意味でしょうか。三つお話しします。

まず、イエスの時代のユダヤ人にとって、神が父であるという考えは新しいものではありませんでした。伊野牧師がイザヤ書からメッセージしてくださっていましたが、イザヤ書はイエスが生まれる何百年も前に書かれたものです。イザヤ書63章16節でイザヤは「…主よ、あなたは、私たちの父です。…」と祈っています。

もっと古い例を挙げると、イザヤの何百年も前に、神はモーセにエジプトの王と対決するように命じて言われました。出エジプト4章22節に「…イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。…」と書かれています。どちらの例もイスラエルは神の子と表されています。

ですから、父なる神というマルコの表現は決して新しい考えではなかったのです。新しかったのは、一人子という立場をイスラエルという国だけではなく、イエスという一人の人間に当てはめたことです。マルコ1章11節にはこう書かれています。「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

洗礼のすぐ後で、イエスは御霊によって砂漠に送られ、40日間サタンによって試みを受けました。これは、ある意味、イスラエルの歴史を再現しています。神はイスラエルを我が子と呼び、エジプトから連れ出し、荒野で40年間さまよわせました。しかし、神に忠実ではなかったイスラエルとは違い、イエスは忠実で罪のない子であることが明らかにされます。ですから一つ目は、「イスラエルはそうではなかったが、イエスは忠実で完全な子であった」ということです。

二つ目は、一人子として、イエスは父なる神の足跡をたどったということです。近代以前では、息子が父の職業を継ぐのは当たり前でした。イエスは大工であったと多くの人が論じています。それは地上のイエスの父ヨセフが大工だったからです。でもイエスは自らを大工というよりも、父なる神のようにみわざを為す者だとみなしていました。

マルコの福音書には、病を癒したり、悪霊を追い出したり、死んでいた人を生き返らせたり、嵐を静めたり、食べ物を増やしたり、罪を許したり、神にしかできないようなみわざをイエスが為したことがたくさん記されています。

三つ目は、これが最も大切ですが、マルコがイエスを神の一人子と呼ぶ時、マルコは、イエスが父なる神の性質を持っていると言っていることです。1章でマルコはイエスを「主」と呼んでいます。マルコ1章3節には「…『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』…」とあります。

「主」という言葉は、普通はイスラエルの神を表す時に使われます。ですからマルコは、イエスは神の一人子であり、救い主であり、更に神ご自身なのだと言っているのです。

これはまさに、初期のクリスチャンが信じていたことです。イエスに神の性質があるという考えは、後ででっちあげられたものではありません。地上で生きていた時から、イエスは自らを神と宣言していたことを、イエスに敵対する者たちは目にしていました。

ヨハネ5章では、イエスが安息日に癒しを行ったことに対して、ユダヤ人の宗教指導者たちが憤ったわけですが、その時イエスは答えました。

ヨハネ5章17節、19節「…『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』…『子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。』」

また、ヨハネ5章18節には、「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」とあります。

ここまでのところを一言で言うなら、イエスは神の一人子であり神ご自身である、です。

〈神は唯一で、三つの位格があるとはどういうことか?〉
続いて第二の質問にいきたいと思います。唯一の神が三つの位格(いかく)を持つとはどういうことでしょうか。

この概念を三位一体とか三位一体の神と言います。実は聖書には三位一体という言葉は出てきません。しかし、新約聖書に三位一体の神の概念がはっきりと示されています。

マルコ1章の洗礼の場面に戻ってみましょう。この箇所では、三位一体を成す父なる神、子なるイエス、聖霊の三者が揃っています。マルコ1章10-11節には「そして、(イエスは)水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」と書かれています。

これまでのところ、父なる神と御子イエスは共に神の性質を持っています。聖霊はどうでしょうか。マルコの福音書では聖霊の性質についてあまり記されていません。唯一マルコ3章28節、29節のところで、イエスは「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」と言っています。ここでイエスは、聖霊をけがすことは、神に対して罪を犯すことと同じことだと言っているのです。聖霊とその役割についての理解を深めるには、使徒の働きを読むとよいと思います。

父なる神、御子イエス、聖霊が皆、神の性質を持っているなら、三つの神様ということなのでしょうか。それは違います。何故ならマルコ12章29節で、イエスは「…『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。』」と言っているからです。

神は唯一だけれども、三つの位格を持つという三位一体の神を理解するのに、私が一番わかりやすいと思う考え方をお話しします。

英語の言葉「being」と「person」を使って説明します。まず、「being」は 日本語だと 「存在」などと訳されますね。「person」 は日本語では「人」ですね。ここで、「being」は「何」で、「person」は「誰」と考えることにします。「何と誰」。例えば、私は何か。私は人間です。では私は誰か。私はシーファンです。

人間として、私は一人のbeing存在、一人のperson人、です。しかし、聖書の神は違います。彼は何か。彼は神です。彼は誰か。彼は父なる神、一人子、聖霊の三つです。

この三つは神の性質を共有しているかもしれませんが、それぞれ全く別のものです。もし、彼らが同じ人物で、ただ違う帽子をかぶっているだけだとしたら、イエスは何故父なる神に祈ったのでしょうか。自分自身に祈ったことになって、おかしいですよね。同じように、十字架で死んだのは、父なる神でも聖霊でもなく、イエスでした。三位一体の三つの位格を持った神はそれぞれ違う役割を果たしています。他の二つの例を挙げます。

一つは、人間との関わりにおいて、三位一体の神がそれぞれの役割を果たしている例です。父なる神は、私たちのために、一人子イエスを送り十字架で死なせました。父は一人子を送り、一人子は死に、父は一人子をよみがえらせました。一人子は最後の日々を弟子と過ごし、父の元に帰りました。そして父は、信じる者全ての心に聖霊を送りました。聖霊によって、神はいつも私たちと共におられます。私たちが父なる神の栄光のために生きることができるように、聖霊は私たちに力を与え、教え、生き方を変えてくれます。三位一体の神の三つが全て救いのみわざに関わっているのがおわかりになると思います。

もう一つ、三位一体の神の異なる役割が、ヨハネ14章28節に見られます。「…父はわたしよりも偉大な方だからです。」 この箇所から、イエスは弱いバージョンの神ということではありません。イエスは人でもあるから、神の性質が劣っているというわけでもありません。むしろ、これは父なる神と御子イエスとのある種の関係性を示しています。

「父はわたしよりも偉大な方だからです。」は、まるで、「岸田首相は私よりも優れている人間です。」と言っているのと同じように聞こえますね。でも岸田首相がより人間で、私がより人間でないということではありませんね。私たちは等しく同じ人間です。しかし任命された首相という役割において、岸田首相は私より優れています。

同じように、例えばその権威において、父なる神は御子イエスより優れています。ヨハネ14章10節で、イエスは、一人子は父なる神の権威によって話していると言っています。父なる神と御子イエスの関係については、ヨハネの福音書にとてもよく書かれています。特に14章から17章を読んでみてください。

三位一体の神についてはたくさん話すべきことがあるのですが、一つしっかりと皆さんと確認しておきたいのは、三位一体の中で、それぞれが完全な神だということです。例えば、パイの三分の一のように、イエスは神の三分の一ではありません。イエスは完全な神です。

三位一体の神を理解するのは難しいですね。でも、私たちは神のことを完璧に理解しなくても、クリスチャンでいられるし、神の素晴らしさを経験できます。

科学は進歩していますが、私たちは未だに自然界を完全には理解できていません。例えば、光です。今日でさえ、光が粒子(つまり直線)なのか、波動なのか科学者の意見は一致していません。粒子と波動の性質は相反するものですが、光は粒子でもあり、波動でもあると科学者は考えています。

自然界は物理的に観察できるのに、完全には理解することはできません。ましてや神を完全に理解することはできないでしょう。

私たちは光を完全には理解することはできないかもしれません。けれども、光の存在は認識していて、光なしには生きられないことも知っています。同じように、神の奥義を完全に理解していなくても、私たちは、神が確かにおられるということを経験できますし、暖かな神の光の下で力強く生きて、成長していくことができるのです。

〈結び〉

神学的な話をしましたが、最後に一人ひとりに意味のある話をしたいと思います。

御父と御子が愛のある交わりで結び付き合っているように、神は私たち一人ひとりを神との交わりに招いてくださっています。これがまさに神の愛の本質です。

繋がりのないところに愛はありません。私やあなた、人類が造られる遥か前から、父なる神と一人子イエスはお互いを愛し、深い交わりを持って一体となっていました。交わりを持つことは神の本質です。ですから神は私たちが神を愛し、隣人を愛することができるようにと待ちわびておられます。

人間同士の繋がりは、本当は三位一体の神の交わりの姿を映したものであるべきです。私たちには家族や友情、そして愛を強く求める気持ちがありますね。それはこれらのことが神のご性質の中にあって、私たちが神に似た者となるように造られたからです。人は一人だけで生きていくことはできません。繋がりの中でお互いに助け合いながら生きていくものです。仲間や他の人たちと。そして神と共に。

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