マタイの福音書9章9節~13節 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」_北澤牧師

Pastor Kitazawa

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イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と 言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人です。
 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。 
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

① この時代のユダヤの街は、ローマ帝国という、大国に支配されていました。
・当時、ユダヤの人たちは収入の30%~40%を税金として徴収されていたようです。
・この、厳しい税の取立は、食べることで精一杯であった貧しい人たちに対しても、同様でありました。 
税金は、容赦なく取りたてられていたのです。
・当時の税金には、現代の日本では考えられない「通行税」なるものもあって、人が移動するだけで、税金は取り立てられたのでした。
・そして、これらの税金は、ローマ本国に送られるのでした。
・この税金取り立ての、手先となっていたのが、「取税人」と言われる人たちでした。
 マタイは、その取税人の一人だったのです。
・当然ながら、彼らは、ユダヤの人々から嫌われていました。
ですから、人々は、取税人の姿を見る度に、「裏切者!」、そんなまなざしを送っていたのです。
・しかし、彼らが嫌われていたのは、大国の手先であったという理由だけではありませんでした。
 実は、取税人たちは、その集めたお金を、そっくりそのまま、ローマに送っていたのではなかったのです。
・彼らの中のある者は、かなりの額をピンハネしていました。 また、彼らは、集めたお金で、高利貸しをして私腹を肥やしていたのです。 ですから、人々に嫌われまた軽蔑されていたのは、当然といえば当然のことでした。

② その取税人の一人であったマタイは・・、ここで、自分が、どのようにして、主イエスの弟子にさせていただいたのかについて、短く記しています。 
・それは9節です。
・「イエスは、そこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』」と言われた。 すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」
・何でもない記事の様ですが・・よく見ると、ここに大事なことが語られています。
・マタイが主イエスに「私について来なさい」と言われたのは、彼がこの収税所から、出て来たところではありませんでした。 それは、マタイが、収税所に、座っていたときであった、というのです。
・つまり、マタイは、自分が、その世界にどっぷりと浸かっていた、正にその時に・・主イエスが、この私に声を掛けて下さったのだった。そう証言しているわけです。 
・そうです。・・主イエス・キリストは、このように、私たちが、この世にどっぷりと浸かっていて、しかも、そういう自分であることに、自分自身ではまったく気が付いていない・・そして、そのまま、自分勝手に生き続けている・・、そのような、私たちをも、見捨てずに、声を掛けて下さる方。 そして、「私たちに、着いて来なさい」と招いて下さる方であるとマタイは言いたいのです。
・私たち人間は、よく・・「神さまの招きに与かるためには、良い人であるか、或いは、善い人のような生活をしなければ・・そう思ったり・・またある人は、何か良い事を積み重ねて、神さまに認められなければ・・
そのように、自分の状態についてあれこれと考えてしまうのかもしれません。
・しかし、救い主イエス・キリストの、その哀れみ深さは、私たちの想像を遥かに超えておられます。
主イエス・キリストのまなざしは、別次元です。まったくの無条件・・只々、一方的なあわれみなのです。 
・私たちは、今朝も、このように、主の教会に招かれて、礼拝する民となっているのですが・・、
それは只々、この神さまの哀れみ深いご愛によるものなのだ、ということをもう一度覚え、神様をほめたたえたいと思います。

③ では、その先の10節、11節を見てゆきたいと思います。
・→ イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、 見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、
「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
・一般に、「罪人」と言いますと・・人や社会に対して、悪いことをした人のことを指します。
・しかし聖書が「罪人」と言いますとき、その元々の意味は・・人が、神さまに対して、敵対している状態の事を指しています。
・では、約二千年前のユダヤの人々は、どうだったのでしょうか・・。この「罪人」という言葉を、聖書に照らして、正しくとらえていたのでしょうか・・。 どうやら、そうでもなかったようです。 
・当時の人たちもまた、この「罪人」と言う言葉の理解が、聖書からは、大きくずれていたのです。
・この時代の、ユダヤ人社会で「罪人」という言葉は、主に二つの意味で使われていました。 
・第一の意味、それは、「律法を守らない人」という意味でした。もう少し正確にいいますと・・当時の宗教指導者の独特の律法解釈を・・守っていない人・・そういう意味でした。
・第二の意味は、道徳的に、乱れた生活をしていて、社会から見下されていた人・・そういう意味でした。
・ここに居たパリサイ人たちが、ここで「罪人」という言葉を使っているその意味は、この二番目の意味、つまり、具体的にいいますと・・ここに出てくるマタイのように、取税人たち、そして、貧しさのあまり、体を売って生活していた遊女たちのことを指していたのです。
・「汚らわしい。あの人たちは罪人だ。」こんな言い方です。
・ところが、主イエスは、このような当時の宗教指導者が、「罪人」と呼んでいた、そういう人たちと、何と、食事を共にしていたのでした。まるで家族のように一人一人と向き合い、温かい交わりをしていたのでした。
・パリサイ派、(これは、「律法主義的真面目派の信仰者たち」と言ったらいいと思いますが・・)
彼らは、主イエスの、その様子を見て、大いに憤慨したのです。 ですから、きょうの聖書個所に出てくる、彼らの「なぜ。」という言葉に、この時の、その彼らの思いが込められています。
・パリサイ派の人たちは、「イエスよ。なぜ、こんな不潔な連中と付き合いをするのだ。 神を語る者は、そのような汚れた者たちを排除し、己を常にきよめておかなければならないのではないか・・
あなたは、なぜ、このような汚れた者たちと親しく付き合うのか・・・」

④ 有名なイエス・キリストの御言葉が語られたのは、この時でした。
12節 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人です。」
・鋭い方は、これは、アイロニーである・・とすぐに気づかれると思います。
アイロニーと言いますのは、普通、日本語では「皮肉」と訳されるようですが・・主イエスのアイロニーは、皮肉というような、悪意のある、いわば、あてつけのような言葉ではありませんでした。  
・主イエス・キリストのアイロニー・・それは、人々を、真理に導こうとする、人々がいのちに向かうことができるための、逆説的御言葉だったのです。 
・私たちが、それを聞きますときに・・思わず、己の胸に手を当てて、・・自分はどういう者なのだろうか・・と、深く、自己省察することができる・・そういう言葉だったのです。
・つまり、主イエス・キリストは、ここで、パリサイ派の人たちに、こうおっしゃっておられる訳です。 
「あなたがたは、・・ここにいる・・、人々から軽蔑されながら、社会の底辺に居る・・そういう人たちとは、確かに違います。 小奇麗にしていて、十分な教育も受けており、汚れた仕事に着いていたりしていません。」
・「しかし、それは、あなたがたが、余裕のある家庭で育ったからです・・」
・「一方、この食卓に着いている人たちは、貧しい家庭に生まれ、必死に生きて来て、気が付くと、ひどく汚れた生活をしていた・・しかし彼らはそういう自分に気が付いた人たちです。 
『ああ・・、自分は何と汚らわしい人間なのだ。ああ、自分は、正に、汚れた病人なのだ・・。』
そのように、自分の本当の姿に気づいた人たちです。」 
・「そして、この人たちは、神さまの御前で、その己の罪の大きさに心を痛め・・悔い改めの決心に導かれ
人たちなのです・・。」
・「しかし、どうやら、あなた方は残念ながら、『私は病人だ』とは、気付いていないようですね。」

➄話が聖書の記事から離れますが・・
私が以前、愛知県にいましたとき、教会の牧師をする傍ら・・近所のキリスト教主義の幼稚園で、毎週、聖書のお話をしておりましたが・・
・その幼稚園では、お母さんの集いもありまして、・・そこでは、どんなことでも牧師に質問をしていい、そういう自由な会になっていました。
・若くて元気で、まるで女子高生のようなお母さんたちから、楽しい質問が次々と出てきました。
・その楽しい会で、ある時、こんなことがありました。 それは、もう終わりの時間になっていた時です。
そこで私は「では最後の質問にしましょう、どなたかご質問はありますか?」申しました。
・すると、一人のお母さんがすっと手をあげて、こう言われたのでした。
「なぜ、クリスチャンの人たちは、毎週毎週、教会に行くのですか?」
・私はこの質問に答えようとしたのですが・・しかし、時計を見たら、もう、終わりの時間が過ぎていました。 そこで、私はこの質問に、思いっきり短く答えたのです。
・クリスチャンたちが、毎週毎週教会に行くのは、ですね・・
「つまり、それは・・実は、クリスチャンたちは、みな、毎週、通院しに来なければならない重い病人なのです。クリスチャンたちは、みんな自分は病人なのだ、と自覚している人たちなのです。 
ですから、毎週なるべく休まないように、教会の礼拝に行かなければ、そう思っているのです。」
・そうしましたら、そこにいたお母さんたちは・・一斉に声を合わせて・・「えー」と言うのでした。 
 中には、「えー、クリスチャンって、病人なんだ・・」そんなことを言う人もいたのです。

⑥聖書記事に戻りますが・・。この時、主イエスは、パリサイ派の人たちに、自分たちも、病人である、ということに気が付いて欲しかったのです・・。ですから、このようなアイロニーを語ったのですが・・
では、私たち人間は、どういう病気にかかっている、と、主イエスはおっしゃりたいのでしょうか・・。
・皆さんは、キルケゴールという、デンマーク人の哲学者の名前を知っておられると思います。
 彼の本を読んだことのある方もおられると思います。
・しかし、ある方は、「そんな哲学者の本なんか、難しくて、きっと私はわからないので読みたくありません」とおっしゃるかもしれません。
・私の、最初そうでした。しかし、このキルケゴールの書いた「死に至る病」という本を読みました時に、私は、「これ面白いなあ・・わかりやすいなあ・・」そう思ったのです。
・この「死に至る病」と言う本。ちょっと難しそうな本ですが・・教会の礼拝にいつも来ておられる方なら、どなたが読んでも、とてもわかりやすく、面白い内容なのです。 
・もっとも、この本は、途中から、19世紀の哲学者っぽくなって、ごてごてとして、ものすごく分かりにくくなってゆくのですが・・少なくとも、最初の「緒論のところ」は、いつも教会に来ている皆さんなら、どなたが読んでも、きっとよくわかる! そして、「本当にそうだ!」と、うなづける、そういう本です。
・ところで、このキルケゴールという名前、この本に書いてあったので知ったのですが・・このキルケは、ドイツ語のkircheと同じだそうでして、「教会」と言う意味。 ゴールは、garten、「庭」の事なのだそうです。 つまり、「教会の庭」という、ちょっと変わった名前です。 
・このことでもわかるように、このデンマーク人の祖先は、代々教会の牧師館に住んでいたようです。
そうです。この哲学者キルケゴールも代々キリスト者のご家庭で育ってきた人物なのです。
・ですから、この人は、キリスト信仰を土台に語って来きます。そして、この本は、正に、教会の庭から、語ってくるような感じがするのです。
・この「死に至る病」の中で、この方は、きょうの箇所で主イエスが言っておられる、正に、この病について語っています。
・そして、この哲学者は、・・「人は、決定的な病気にかかっているのではないだろうか・・そして、私たちはそれを癒してくださる医者を必要としているのではないだろうか・・」と、私たちに問い掛けてくるのです・・。  
・しかし、きょうの聖書箇所に出てくる、パリサイ派の人たちは、残念ながら、ここで、・・自分が、この罪という病にある・・罪人という病人である、ということに、まったく気が付かなかったのでした・・。
・そこで、主イエスは、・・その自分の、実像を理解できない彼らのために、さらに、もう一つのアイロニーを語り・・それを、彼らの、これからの生き方の・・課題、宿題としたのでした・・。
・13節「『わたしが喜びとするのは真実の愛。 いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

⑦あれは、一月に、このIBFの礼拝に来たときです。 そのとき、一人の方がお祈りされました。
 そのお祈りに私は大変感動したのです。 その方はこうお祈りしたのです。
 「神さま。私たちは、あなたの助けを必要としていますから・・」
・このお祈りの言葉は、いまだに私の心に残っています。 
・なぜ、この祈りの言葉に感動させられたのかと申しますと・・この祈りは、言葉を代えると、こう祈ったのと同じだからです。 「神さま。私は医者を必要としている病人です。 私は、罪深く、弱く、あなたの助け、あなたの救いを必要としているのです。」 
・私は、これからの一日、一日、皆さんと手を繋ぎながら、「主イエスさま。私たちは、あなたの助けを必要としています。あなたの救いを必要としています。あなたの導き必要としています。」このように祈りながら・・
・与えられる、これからの一日一日を、大事に大事に生きてゆこう。 そう思うのです。

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