「クリスチャンの人生の目的」_鳥海兄

bible missionary

(本日の音声メッセージはありません)
 本日のメッセ―ジのテーマは「クリスチャンの人生の目的」です。
 実は私は今年43歳になりました。まだ若い、と言われる方もおられるかもしれませんが、私自身はもう43歳か、という気持ちです。精神的にはたいして年を取った気がしないのに、肉体は衰えてきていることを実感しています。厚生労働省の発表によると、2020年の日本人の平均寿命は男性が81.64歳、女性が87.74歳で過去最高だそうです。この数字から考えれば私は人生の半分を終えたことになります。そういう事を考えた時に最近よく、私の人生の目的とは一体何なのだろうと思うのです。

 はじめに結論を申し上げます。私たちクリスチャンの人生の目的は、神を知り、神のご栄光をあらわすことです。エペソ人への手紙1章11節~14節をお読みします。「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」私たちは御国を受け継ぐ者であり、そのことを知って理解することで、私たちは神の栄光をほめたたえるようになります。聖霊によって証印の押された私たちの人生は神の栄光をあらわすために用いられるのですのが、私たち自身が聖霊に協力し、自らがそれを人生の目的とするのです。

 よく陥りがちな罠があります。私たちは聖霊に導きを祈りますが、受け身的になり、神様が全部指示してくれて私たちはただ受けるだけ、という思考になってしまうことがあります。私も若い頃はそうでした。この思考になってしまうと、非常に消極的な生き方になってしまいます。しかし、神様は私たちに臆病の霊を与えたのではなく、勇敢な力強い霊を授けてくださったのです。ですからイエス様はマタイの福音書18章18節でこう言われたのです。「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」イエス様はこうは言われなかったのです。「私がこうせよと命じたら、あなたがたは地上でつなぎなさい。そうすればそれは天においてもつながれます。私があなたがたに地上で解くように命じたら、そうしなさい。そうしたらそれは天においても解かれます。」そうではなく、イエス様はあなたに成し遂げる力と権威を与えたので、あなたが自分の意思でそれをせよ、と言われるのです。あなた自身の意思が大切なのです。

 ところで、神を知り、神のご栄光をあらわす、と言っても、具体的にどうしたらいいのかがわからないのではないでしょうか。クリスチャンであれば、皆神様の御心の道を歩みたいと思います。しかし、一体神様は私たちに何を求めておられ、どうしたらいいのでしょうか。

 それがわかるのが、有名なタラントの例え話です。マタイの福音書25章14節~30節です。お読みしましょう。「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出してこう言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰ってきたとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラントを持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』

 この例え話は色々な解釈があると思います。しかし私はクリスチャンのこの地上の人生の過ごし方を言っていると理解しています。私たち人間は一人一人与えられている才能が違います。ある人には多く与えられ、ある人には少なく与えられています。では神は不公平な方なのでしょうか?そうではありません。25章15節に「彼はそれぞれの能力に応じて」とあります。つまりもし一タラントを与えた者に五タラントを与えたらうまくいったという事ではなく、分を超えた才能によって彼はより悪い結果になってしまったはずです。神はいつでも正しいのです。

 このたとえ話の中で褒められたのは五タラントを与えらえた者と二タラントを与えられた者です。二人とも主人から預かったお金を二倍にしました。つまり、イエス様が再臨されるまでに私たちは人生をかけて頂いたタラントを二倍にしなければならないのです。五タラントを預かった者は商売でもうけて2倍にしました。二タラントをもうけた者はどうやってもうけたのか書かれていませんが、いずれにしてもタラントを用いて働き、もうけたのです。

 実は私は今年の1月に転職しました。東京基督教大学から別の違う一般大学に転職したのです。クリスチャンであれば、キリスト教の大学から一般の大学に転職するなど御心に反する、と思われるでしょうか。私も随分悩んだのですが、自分の意思で挑戦することを決断しました。今振り返ってみると、まだ転職してたった半年しか経っていませんが、神様から預かったタラントを少しずつ増やすことが出来ていると感じています。以前の職場にはなかったノンクリスチャンとの関わり、責任あるポジション、未知の仕事、新しい人間関係、それらを通じて謙遜になり、周囲の人たちに仕えることができました。

 タラントを用いて働くとは、何も社会に出て働くことだけではありません。例えば人の弱さを理解できるタラントがあるなら、学校でいじめられている人を助けることができるはずです。料理ができるタラントがあるなら、家族や他の人々を料理を通して幸せにすることができるはずです。そのように自分の意思と勇気をもって人に仕えることで人生が豊かになり、タラントが増し加わり、主が喜ばれるのです。勇気が出ない時は神様に祈ってください。このような御心にかなう祈りは必ず与えられます。

 まとめます。私たちクリスチャンの人生の目的は、神を知り、神のご栄光をあらわすことです。神を知ることは今回深く話せませんでしたが、人生かけても知り尽くせないのが神様です。その神様を礼拝し探求し続けるのは私たちのミッションです。そして、神様のご栄光をあらわすことです。これは、人生を通して、私たちが自分のタラントを自分の意思と勇気をもって増やす選択をしていくという事です。今持っているタラントが多いか少ないかは問題ではありません。たとえ少なくてもそれを用いて増やすかどうかです。

主が再臨された時、目と目をあわせてイエス様から『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』と言われたいじゃないですか。イエス様からのこの一言があったら、人生で受けたたくさんの苦労や辛いことも100%吹っ飛びます。私はたぶんこの一言をかけてもらったら泣くと思います。人生、いい事も悪い事も失敗もたくさんあるけれど、最後の最後にイエス様から報われるなら、全く悔いはありません。一緒にイエス様からのこの一言を目指して、この世の人生を一歩ずつ歩みましょう。お祈りします。

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