「あなたがたも、わたしの手の中にある。」(エレミヤ18章6節)

Pastor Ino

(音声メッセージは第一礼拝後にアップする予定です。)
今回は、エレミヤ書から12回目のメッセージです。前回は、「水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばす。」(エレミヤ17章8節)とのテーマで語りました。エレミヤ書17章は、私たちに、神に信頼するか、それともこの世の何かに信頼するかを問いかけている箇所です。神を信頼して生きる時に、私たちは、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばすことができます。それが神の約束です。9節には、「その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照の年にも心配なく、いつまでも実を実らせる。」と書かれています。主を信頼して生きる者は、水のほとりに植わった木のように、実を実らせ、神の祝福が伴うのです。しかし、17章5節に、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」と書かれています。肉を自分の腕としとは、自分の力で何でもやろうとする人間の高慢な姿です。人間に信頼し、神から離れる生き方もあるのです。しかし、その歩みは神の祝福から離れた歩みです。しっかりと神を信頼する生き方を目指して行きたいです。

今回は18章と19章に入ります。そこには、陶器師との言葉が出て参ります。陶器師の働き、そしてその作品を通して、神様は私たちにメッセージを伝えようとされています。18章2~4節には、「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で、制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」と書かれています。6節には、エレミヤに対する神の言葉が書かれています。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたにすることができないだろうか。 ―主の御告げ。― 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ。あなたがたも、わたしの手の中にある。」と。この所で、神様はエレミヤに、ちょうど陶器師がなすようにイスラエルを壊し、また作り替えようとする思いをしっかりと伝えています。神様の思いは確かです。南ユダは滅ぼされ、バビロンに人々が連れて行かれ、彼らはそこで練り上げられ、悔い改め、もう一度エルサレムに戻ってくるのです。そして新たな国づくりをするのです。神様は、その思いをエレミヤに、この陶器師との出会いを通してしっかりと伝えています。

もう一つ、神様がエレミヤに確かに伝えたい事は、8節の言葉です。「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。」イスラエルの民を滅ぼすことが、神様の目的ではありません。イスラエルの民を神は心から愛しておられます。彼らは神に選ばれた民です。彼らが悔い改めて、もう一度神に立ち返る。新たな民として造り変えられる。それこそ神が願われていることです。

しかしながら、エレミヤが直面している現実はとても厳しいものです。18節には、エレミヤを攻撃しようとする民の存在が明らかにされています。民は言うのです。「さあ、私たちは計画を立ててエレミヤを倒そう。」と。彼らには祭司がついていて、律法がある。また預言者がいると安心しています。もちろん、民が信頼していた者たちは偽預言者たちです。彼らは、エレミヤを捕まえて、エレミヤを滅ぼしてしまおうと計画を立てるのです。本当に真実を語る事は、時に難しいです。戦時下のような状況では特にそうでしょう。日本もかつて戦争をし、戦争に反対する者たちを多く迫害してきた歴史があります。今の世界も正しいことを主張して弾圧される、そのようなことが世界の多くの地域で起こっています。ロシア正教会の司祭の中でも同じようなことが起こっているようです。私たちは迫害の中にある者たちのために祈り、また彼らを決して忘れないとの思いを持つことが必要であると思います。

エレミヤはそのような中で大胆に祈っています。19節では、「主よ。私に耳を傾け、私と争う者の声を聞いてください。」と。20節では、「善に悪を報いてよいでしょうか。まことに彼らは、私のいのちを取ろうとして、穴を掘ったのです。」とあります。エレミヤは神の正しい裁きがあることを信じて、この祈りを捧げています。 23節では、「しかし、主よ。あなたは、私を殺そうとする彼らの計画をみな、ご存じです。彼らの咎をおおわず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを、御前で打ち倒し、あなたの御怒りの時に、彼らを罰してください。」と祈っています。大変な状況の中で、正しい裁きを信じてエレミヤは祈っています。

19章でも、同じように陶器師との言葉が出て参りますが、これは陶器師の器のように砕かれる民の姿として表現されています。19章1節に、「行って、土の焼き物のびんを買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人といっしょに」、ベン・ヒノムの谷に出かけて、言いなさいと書き始めています。3節には、「ユダの王たちとエルサレムの住民よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。・・」とあります。この災いの原因は、民の偶像礼拝です。それも、ベン・ヒノムの谷でなされた罪のない者の血を流すこと、特に、子供たちを殺して偶像に捧げたと言う悲しい出来事です。5節には、「このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。」と、神の思いが書かれています。この地が虐殺の谷と呼ばれる、その日が来るとエレミヤは預言します。この谷で、多くのイスラエルの民がバビロンの兵隊によって殺されることを預言しています。そして、その裁きの現実を、陶器を民のリーダーの前で壊すことを通して明らかにしています。10節、11節には、同行の人々の目の前で、そのびんを砕いて、彼らに言え。「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町を砕く。」とあります。同じ陶器師の器を使って、神の裁きの厳しさをエレミヤは民に伝えることとなります。

15節に、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ、わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」と書かれています。

エレミヤは陶器師の家に出かけ、彼が、どのように彼の気に入った器を造るのかをしっかりと見ることとなります。彼の基準に合わないものは壊され、また新たに造り変えられるのです。同様に南ユダも神の厳しい裁きに会い、神により、もう一度造り直されるのです。私たちクリスチャンも同様です。神は、私たちが古い人格にとどまって生きることを願ってはおられません。キリストにある者は、全てが新しくなるとの御言葉が与えられています。参照第二コリント5:17。古いものはイエスの十字架と共に死んだのです。キリストが復活され、新しい命に生きておられるように、私たちも新しい命に生かされて行くのです。神に、あなたの喜ばれる器に私を造り変えてくださいと祈る者となって行きましょう。

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