ヨハネの福音書11章17節~27節_北澤牧師

Pastor Kitazawa

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「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

① きょうの聖書個所には、「ラザロ復活事件」が記されています。

・この事件は、ヨハネの福音書11章から12章に渡って書かれているのですが・・
一人の人物について、これほど長く書かれているのは、新約聖書では異例なことです。

・このことからも、この出来事が、当時の人々にとって極めて大きな出来事であったことがわかります。

・私は、もし私たちが、ここに語られているメッセージをまっすぐに受け留めてゆきますときに、その人の人生は、いのちの希望に満ちて、喜びと感謝に溢れた歩みとなってゆくに違いない・・

② では早速、この事件がどのような事件であったのかについてまず見てゆきたいと思います。

・今、パレスチナの地図を思い浮かべていただきたいのですが・・主イエスの一行は、この時、ヨルダン川の東にある、地図でいますと、ヨルダン川の右側にある、ベタニヤという所におられました。 ここはかつて、バプテスマのヨハネが人々に洗礼を授けていた場所です。

・しかし、このラザロ復活の事件は、少しややこしいのですが・・この主イエスの滞在していた、そのベタニヤではありませんで・・名前は同じですが、別の村、ヨルダン川の西側(地図では左側)、あの大きな街エルサレムの、その近郊にある、同じ名前のベタニヤというところで起きたのでした。

・そのヨルダン川の西側にあるベタニアには、マルタとマリアという姉妹、それに、おそらく弟であった、ラザロが住んでいた家がありました。 この三人の兄弟は、既に両親を亡くしていました。彼らはその遺産を引き継ぎ、当時としては比較的余裕のある生活をしていたようです。

・主イエスは、この三人の兄弟たちと親しい関係にありました。
この家は、主イエスにとって一つの憩いの場、オアシスのような家であったのです。

・このラザロが、病気にかかってしまいます。 それは深刻な病気であったようです。
そこで、この二人の姉妹は、主イエスのところに使いを出して、こう伝えます。
→11章3節「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

・二人の姉妹は、このように伝えれば、「あえて、『直ぐ来てください』」とか、『大変です。ラザロは死んでしまうかもしれません!』」などと言わなくても、イエスさまはきっとすぐに駆け付けてくださる。そして、癒しの御手を差し伸べてくださるに違いない。」このように思っていたようです・・。

・この時、主イエスのいたベタニアから、ラザロのいたベタニアまでは、ロバなどに乗って駆け付ければ、その日のうちに到着できる距離だったからです。ところが・・なぜか主イエスは、尚二日間そこを動きませんでした。

・その間に、病気にかかったラザロは、残念なことに、結局息絶えて死んでしまったのです。
そして彼は墓に葬られてしまいます。

・主イエスが、弟子たちに「さあ、ユダヤ地方に行こう!」つまり、「ラザロたちがいる家に向かおう」と言い出されたのは、ラザロ危篤の知らせが入ってから2日後であったのです。

・誰もが、なぜ直ぐにラザロのところに行かれなかったのだろうか・・そう思います。

・そうです。 主イエスは、神のとき、神の栄光の、その「とき」を待っておられたのでした。
そして、「そのときが、今やって来た」そう感じ取った主はようやくこの地を後にしたのでした。

③ ところが、ここでひと悶着ありました。 マルタ、マリア、ラザロのいる、ユダヤ地方に戻ることに、弟子たちが反対したのです。

11章8節 弟子たちはイエスに言った。「先生、ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」イエスさま今行ったら、殺されてしまうでしょう。やめましょう。」弟子たちはこう言いたかったのです。

・その弟子たちに向かって、主イエスは、ここで少々謎めいたことを語られます。
9節10節「「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」

〇調べてみますと・・古代イスラエルの人たちは、文明の発達した現代に生きている私たちより、「光は人間のいのちに直結している」というこの感覚を強くもっていたようです。

・その古代イスラエルの人たちのこの感覚のことを覚えながら、この主イエスのこの御言葉を読み直してみますと、これは次のような内容であることがわかります。

・「そこを行くと、危険が待っている、その様に思っても・・もし、光いっぱいの昼間の道を行くならば、何も心配することはありません。 しかしその逆に、自分では大丈夫だと思っていても、その道に光がなければ、それは、丁度、夜道を行くのに似て、実に危うい歩みなのです。」

・どうでしょうか・・私たちは、何かの行動をはじめるときに、自分が思い立ったとき、あるいは、自分の中に湧き上がって来た衝動・・そういったもので行動し始める、ということが多いのではないでしょうか・・。

・しかし、主イエス・キリストがここで強く薦めているのは、イエス・キリストが共におられる、その「光あるとき」を祈りつつ、そのときを静かに見極め・・、そして、その神さまが備えた「とき」に、自分を従わせてゆく・・このような歩みこそ、確かな歩みであると教えられたのでした。

④この後、主イエスは、弟子たちに、自らの口から、「ラザロが死んでしまった」と伝えます。

・では、その、ラザロが死んでしまった、という、この厳しい現実を伝えられた弟子たちは、それをどう受け留めていったのでしょうか・・

・聖書は、ここで、弟子たちが三者三様の受け留め方をしていったということを記しています。

・先ず、多くの弟子たちは、始めこのように考えていたようです。 「ラザロは眠っているのでしょう。そうなら、そのうち起きるでしょう。」実にのんきな感じです。

・しかし、眠っているのではなく、「ラザロは死んだのです。」とはっきり伝えられると・・彼らは、一気に絶望的な気持ちになっていったのでした。

・この時、弟子のトマスは、こう言い出します。 「私たちも行って、死のうではないか。」

・彼はこう思ったのです。「ラザロは死んだ。イエスさまもこの後、ユダヤ地方に行けばきっと殺されるに違いない。 そうだ、イエスさまは、死を覚悟しておられるのだ。そうならば、我らも行って、一緒に死のうではないか・・」

・昔の日本の侍のようです。それは一見勇ましく、一見勇敢な人のように感じさせますが・・
こういう発言に、私たちが万が一共感してしまうと、それはとても危険な方向に進んしまいます。

・トマスは今絶望感に引きずり込まれそうになっていたのです。絶望感がより深い絶望感を生みそしてついには、「みんなで死のう!」と言い出すに至ったのでした。

・偉そうなことは言えません。この私も、若かりし日、初めて教会にやって来た頃、どこか、トマスのような思いになっていたことがあったように記憶しています。そういう暗い若者であったような気がします。 しかし今は、幸いなことにまったくそのような発想が出てきません。

・なぜ大きく変わったのかといいますと。・・そうです。聖書にしるされている神さまのメッセージが、そのようなすぐに絶望に向かってしまう、いそういう心を、私の中から一掃してしまったからです。

・真の希望を生み出す、その光を信じて生きていくのか・・あるいは、トマスのように、自分の中から湧き上がってくる、絶望感に引きずり込まれて・・生きる力を失ってゆくのか・・人は、そのどちらかにわかれてゆくのだと思います。
➄トマスと対照的だったのは、ラザロの姉のマルタでした。

・ここで、マルタの受け留め方について聖書は詳しく伝えていますが・・そこを読んでゆきますと、・・彼女は、トマスのように、「人は死んだら終わり・・そういう絶望的な人生観を、心の内にもちながら生きている人ではなかった」ことがわかります・・。

・彼女の受け止め方を見てゆきますと、何かうれしくなってきます。
「この人のように生きて行けばよいのだ!」そういう思いになります。

・主イエスを迎えに出たマルタは、先ず、自分の心の中にある、その無念さを、正直にまっすぐに伝えます。

・「もし、イエスさま、あなたがいてくださったのなら・・こんなことにならなかったでしょう・・。」
彼女は、絶望していたのではありませんが・・ だからといって、痛手を受けなかった訳ではありませんでした。このマルタの言葉に、彼女の無念さがとてもよく現れています。

・愛するラザロとは、もっともっと長く一緒に生きて、もっと一緒に年を取って・・もっと、もっと、この地上で、一緒に熟してゆきたかった・・。彼女は、そういう残念さ、無念さが、イエスさまの顔を見たときに、あふれて来たのです・・。

・このマルタの姿から、私たちは教えられます。御国への希望を持って生きて行くということは、けして、豊かな人間性を押し殺して、悲しみを、信仰的理屈で抑え込んでゆくという事では、けしてないということです・・。

・確かに、人は死に対して無力です・・しかし、マルタと主イエスとのやりとりは、それだけで終わっているのではないのです。この、先のやりとりこそ注目すべきなのです。

・マルタは、24節で主イエスにこう言います。
「終わりの日のよきがえりの時に 私の兄弟がよみがえることは知っています。」

・マルタは、「ラザロは、死んでしまったのですが・・ラザロも、自分も、終わりの日には、よみがえることができます。その知識を私はもっています。」こう言うのでした。

・しかしです。 主イエスはここで、マルタに、「死んだ後の、よみがえりの約束を知っている」そういう信仰から、もう一歩先の信仰へと導いておられるのです。
25、26節を見ていただきたいと思います。

・イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、みな、永遠に死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

・ここで、主イエス・キリストは・・マルタに 「天国に行ったときによみがえることを知っている、ということではなく・・よみがえりのいのちを、今、既にいただいているということを、あなたは信じますか?・・」そう聞いておられるのです。

・この場合の信じるといいますのは、言うまでもなく、まったき信頼しているということです。

⑥弟子のトマスも、マルタも・・この後に出てきますマリアも、皆「愛する者の死」という現実の前に、大きな衝撃を受けていました・・。

・そうです。愛する者が、死んでしまった・・そういうとき、私たちは、人の弱さということを思い知ってまいります・・。

・では・・死に対して、無力な私たちは・・その無力さ故に、ただただ不幸なのでしょうか・・。
地上の命に限りがある、これは私たちの、不幸の源なのでしょうか・・。

・私は、そうは思いません。 地上の命に限りがあることも、私たちがその死に対して無力であるということも、全然不幸ではない。そう確信しています。 むしろその無力感は、宝だと申し上げたいのです・・。

・といいますのは・・ その、「死への無力感」があるからこそ・・人は、・・救いを求め・・そして・・イエス・キリストとの出会いへと導かれてゆくからです・・。

・そこで人は、救い主との出会い、死への勝利の喜びが土台となった、本当の希望が与えられてまいります・・。そしてそこで人は、地上を生きる意味、生き抜く意味を見出して行きます・・。

また、無力であるからこそ・・キリスト者も、マルタのように、信仰から、信仰へと導かれてゆきます・・。ですから、無力感は・・実は宝です。 無力感の少ない方は、知らず知らずの内に、その宝をどこかに置き忘れてしまうことでしょう・・それは実に残念なことです・・。

〇この時のマルタの答えはこうでした。

→「はい、主よ。 私は、あなたが、世に来られる神の子キリストであると・・信じております。」

・きょうからの一日一日・・私たちも、マルタのように答えて・・そして、その希望に包まれて生きてゆきたい、と思います・・。

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