「憐みは犬にさえも与えられる」(マルコの福音書7章24節~37節)

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犬の飼い主を個人的に日本でたくさん知っているわけではありませんが、飼い主は犬を大切に飼っているでしょうし、栄養のあるペットフードを食べさせていると思います。以前には犬に味噌汁とごはんの残り物をあげていたと、どこかで読みました。多くのマレーシア人もまだ残り物のごはんや食べ物をあげています。犬に関して、マレーシアで興味深いことといえば、国民の多数を占めるイスラム教徒が犬を汚れていると考えていることです。もし、犬のよだれが体についた場合、イスラム教の信者は規定された方法で自分を清めなければなりません。

さて、どうしてこのようなことをお話しするかというと、先月のメッセージで宗教上の清さについて話しましたね。今日の聖書箇所には犬が出てきます。今日の所を読むと、話のつながりがわかると思います。まずお祈りしましょう。

(マルコの福音書7章24節~37節を読む)

<異邦人になされた二つの癒しの話>

この二つの話に共通する点は、異邦人の住む地で起こったことと、異邦人が癒されたことです。

ユダヤ人は、異邦人、つまりユダヤ人ではない人々を汚れていると考えていました。ここでいう清いとか汚れているというのは、衛生上のことではなくて、宗教上の意味です。

ユダヤ人は、旧約聖書の律法を守っていました。その律法の多くが宗教的に清くあるためのものだったことを、先月のメッセージでお話ししました。例えば、ユダヤ人は豚肉とかエビを食べてはいけません。それらが汚れていると考えられているからです。でも、今日の箇所の前のマルコ7章の前半で、イエスは全ての食べ物は清いと宣言されました。また、今日の箇所で、イエスは異邦人を受け入れていることを示し、そのように接しています。当時のユダヤ人が異邦人に対して取っていたような、拒絶する態度を取っていません。

神の御計画は、異邦人をユダヤ人と共に神の家族に加えることでした。旧約聖書の預言では、外国の国々も含むことが神の望みであると示されていますが、イエスの時代のユダヤ人が皆、その考えを受け入れていたわけではありませんでした。ローマ帝国の支配下だったこともありますし。

今読んだ二つの異邦人の癒しのことを、イエスが公けにしようとしていないのは、そういう理由のためのように思います。異邦人の地でイエスの存在が不必要に注目されることを望んでおられなかったのだと思います。

このようなことを踏まえながら、この二つの癒しの話についてもっと詳しく見ていきましょう。スロ・フェニキアの女性の話に、より時間をかけて話したいと思います。

<一人の部外者(異邦人)の信仰>(7:24-30)

スロ・フェニキアの女性がイエスに助けを求めると、イエスは、「まず、子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」と答えました。(7:27)これはちょっと失礼な言い方に聞こえますよね。

イエスは彼女を犬呼ばわりしているではないですか。ユダヤ人は異邦人に対する侮蔑を表すのに、異邦人のことを犬呼ばわりしていましたから。しかし、イエスは、通常使うギリシャ語の「犬」という言葉を使っていませんでした。イエスが使っていたのは「子犬」を意味する言葉でした。日本語なら多分、「犬」というより「わんちゃん」という感じでしょうか。でも、「わんちゃん」呼ばわりされたい人も誰もいないと思いますが。

それではイエスは何を伝えようとしているのでしょうか。マタイの福音書のこの箇所を読むと、ヒントがあります。マタイの福音書15章24節で、イエスは更にこのように言っています。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」 これはつまり、イエスにとって主な対象は、イスラエル、ユダヤ人であるということです。ペットの犬は、食べ物は与えられるけれども、人間の子どもが持つ権利や特権はありません。

もしその異邦人の女性が「誰のことを犬と言っているんですか」と言って、立ち去ったとしても誰も驚かないでしょう。

ところが、彼女の答えは驚くものでした。彼女はイエスの言葉に同意して、「はい、主よ」と受け入れたのです。マタイの福音書では、彼女はイエスのことを「ダビデの一人子、主よ」とさえ言っています。ユダヤ教の中で育ってきたわけではないのに、彼女はイエスのことを、ユダヤの王、救い主と認めています。イエスがどなたかを認めることにおいて、彼女はペテロよりも早かったのです。

そして犬呼ばわりされたことに反論するかわりに、彼女はイエスの比喩を使って、こう願い出ました。「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」 すなわち彼女は、ユダヤ人の考えである異邦人の低い立場を認めました。その上で、憐み深い神は、犬さえも分け隔てることはないでしょうと、彼女の信仰を表したのです。

実は侮辱ともとれるイエスの言葉は、彼女の信仰を試すものでした。そして彼女はその試験に見事に合格したのです。イエスは言いました。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

福音書には、ローマ帝国の百人隊長の部下をイエスが離れている場所で癒した話があります。(マタイ8:5-13、ルカ7:1-10、ヨハネ4:46-54)どちらの話もイエスに助けを求めたのは異邦人で、イエスへの信仰は驚くほどのものでした。それはユダヤ人の多くのなまぬるい信仰とは著しく対照的です。

後で、スロ・フェニキアの女性の謙遜な姿勢について話したいと思いますが、まず今日の2番目の話、耳が聞こえず、口のきけない男性の話について簡単に話したいと思います。

<人種の壁を打ち破る救い主>(7:31-37)

35節に耳が聞こえず、口のきけない男性の癒しが書かれています。「すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。」

聖書で使われているギリシャ語の「舌」は「mogilalon」で、聖書ではとても珍しい言葉で、この箇所とイザヤ書35:5-6にだけ使われています。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌(mogilalon)は喜び歌う。…」

このイザヤ書の箇所には、メシアの到来とそれに伴う祝福が書かれています。その珍しい言葉を使うことで、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアこそイエスであることをマルコは福音書で暗に示しています。

イエスはこの癒しについて噂を広げてほしくはありませんでした。しかし、イエスがイスラエルの領域を超えて異邦人の地へ行ったこと、また異邦人を癒したということは、イスラエルを超えて御国を広げるご意志があったということではないでしょうか。神は、神の子どもとされる全き祝福を異邦人も経験できるように、そして異邦人も神の家族に加えようとしておられます。(ガラテア3:26-29、エペソ3:6)

イエスがこの世に来てくださる以前に、異邦人は神の民となれたかもしれませんが、それは異邦人が改宗をした時に限られました。つまり食べ物から道徳的な行動に至るまで、異邦人は生活スタイルを全て変えなければならないことを意味していました。ですから、旧約聖書の祭儀的な律法が、異邦人をイスラエルの神から遠ざける障壁となっていたといえます。

しかし、イエスは、死んで復活してくださり、天に昇られ、聖霊を通して、人種の壁を打ち破ってくださいました。ですから神の教会は、多種多様な民族の教会です。神の家族のメンバーシップは全ての民族に開かれています。そしてクリスチャンになることは、自分の文化や国籍を捨てることにはなりません。皆さんはクリスチャンであり日本人です。クリスチャンであり中国人です。クリスチャンでありアフリカ人です。

私たちはIBF教会で使徒信条を唱える時、毎月その事実を確認します。使徒信条で「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会…を信ず」とありますが、英訳では「holy catholic Church」で、ここのcatholicはローマカトリック教会を指していません。catholicの最初のcは小文字なので、全世界のカトリック教会を意味しています。ですから、国籍や民族に関わらず全ての人々のための、普遍的な全世界のためのものであるという、福音の性質を表しています。

<謙遜と根気強さの模範であるスロ・フェニキアの母親>

さて、スロ・フェニキアの女性の話に戻りましょう。マルコやマタイがこの女性の話を記録しているのは、この女性の態度が、イエスが高く評価するものだったからです。彼女は謙遜と根気強さをもってイエスのところに来ました。

神は私たちが謙遜に神のみもとに近づくことを喜ばれます。私たちは自分の罪を知っています。ですから神の子どもとされる資格はないことを知っています。けれども私たちは神の憐みを信じています。

もう数年になりますが、私は英国国教会の祈りの本で日々のデボーションをしています。この日々の祈りは、告白することから始まるんですが、読みます。「最も憐み深い神様、考えや言葉、行い、やり残したことにおいて罪を犯したことを告白します。心を尽くして神様を愛していませんでした。隣り人を自分のように愛しませんでした。本当にごめんなさい。謙遜に悔い改めます。あなたの一人子イエス・キリストの故に私たちを憐み、お許しください。そしてあなたの御名の栄光のために、あなたの御心の中で喜び、あなたの道を歩むことができますように。」 毎日この告白を口にすることで、祈りの中で謙遜な姿勢が養われているように思います。

神は私たちの天の父であるにもかかわらず、私たちの行動は、神の子どもとしてふさわしくないことがあります。私たちは自分の立場をわきまえています。一昨日の金曜日に4歳になった私の娘は、口が達者で、最近よく、えらそうな態度を取るんです。娘の人に頼む頼み方は礼儀よくなくて、「もっと!」と強い態度でわめきちらすんです。娘の頼みはちゃんと聞いてあげるつもりですが、敬意を持って相手に頼むことも、娘に教えなくてはいけません。娘は私の上司ではありませんし、私は娘の召使いでもありません。(ほんとにそういう感じによくなってるんですけどね!)

神の憐みを信じることで、私たちは忍耐強く祈っていけるようになります。ルカの福音書で、不正な裁判官に義を求める未亡人のたとえ話をイエスは教えています。その裁判官は神への恐れや他人への敬意がないのですが、その女性の求めがあまりにしつこかったので、裁判官は彼女の要求を認めます。(ルカ18章)もし不正な裁判官がその未亡人を助けるなら、昼も夜も叫び求めている神の民のために、神はもっと豊かな憐みを示してくださるだろうとイエスは言います。

聖アウグスティヌスの母親である聖モニカのことを話します。紀元後4世紀から5世紀にかけて生きたアウグスティヌスは、キリスト教において多大な影響を与えた神学者です。母モニカは息子をクリスチャンとして育てましたが、アウグスティヌスは懐疑的で快楽主義的な人生を選びました。しかし、母モニカは、粘り強く息子のために日々祈り、神の時が来ると信じました。何年もたってから、モニカの祈りは聞かれました。アウグスティヌスはイエスを信じ、教会に大きな影響をもたらす人物となったのでした。今もなお、彼の神学は大きな影響を与え続けています。恵みによる救いについて書かれたアウグスティヌスの著書は、16世紀のルターの宗教改革に深く影響を及ぼしました。モニカの忍耐強い姿勢は、愛する者や友人のためにあきらめずに祈り続けることの大切さを教えてくれます。

<結び>

まとめになりますが、スロ・フェニキアの母親の信仰深さ、謙遜な態度、忍耐強い祈りは、私たちが模範とするべきものです。そして今日学んだ二つの癒しの話は、神の福音が人種を問わない全ての人々へのものであるという力強いメッセージです。イエスがこの世に来てくださったことで、かつては存在していた神と人間との間にある壁が取り壊されました。神の憐みを誰もが受け取ることができます。つまり私たちは皆、神の家族に招かれています。神の子どもという高い立場にいる私たちは、神の前に低い者であることを忘れずに、神が受けるにふさわしい賛美をこれからも捧げていきましょう。

祈りましょう。

全知全能の神様 憐み豊かなる父よ

あなたにふさわしい下僕(しもべ)とはいえない私たちに、あなたは全ての良きものを与えてくださいます。そして私たちと、あなたがお造りになった全ての人々を愛してくださることに、へりくだり感謝を捧げます。私たちをお造りくださり、お守りくださり、祝福くださることを褒め称えます。何よりも、恵みを与える手段として、更に栄光の希望のために、神様はイエス・キリストによる贖(あがな)いをなし、測り知れない愛をお示しくださいました。褒め称えます。

どうかあなたの憐みに気付くことができますように。真に感謝の心をもって、あなたを崇めることができますように。口先だけでなく、自分自身を捧げ、あなたにお仕えする者となれますように。日々の生活において、御前(みまえ)に清さと義によって歩む者とさせてください。神、聖霊と共におられる私たちの主イエス様の誉れと栄光が世々限りなくありますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン

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