「パンとイーストと盲目」(マルコの福音書8章1節~26節)

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今日のメッセージのタイトルは、「バンとイーストと盲目」です。今日の聖書箇所ではパンに関するまた別の話が出てきます。マルコの福音書で、イエスがわずかなパンでたくさんの人々を満たす話は2回目です。聖書で話が繰り返し語られるのは、おそらく重要だということなので、何が繰り返し語られているかに注意して読むことが大切です。群集の空腹を満たした後で、イエスは一人の盲目の男性を癒します。では、これらの話が聖書の重要なテーマにどのように関わっているのか見ていきましょう。ではまずお祈りしましょう。

(マルコの福音書8章1節~26節を読む)

<パンについての五つのレッスン>

パンをテーマに短く五点、お話したいと思います。その後で、盲目とは何かについても考えましょう。

第一に、神は私たちを養ってくださいます。パンは、神が神の民に与えてくださるものを表しています。イエスは弟子たちに「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りを教えました。(マタイ6:11) 5千人の空腹を満たした話は、荒野(あらの)をさまようイスラエルの民に神が食べ物を与えた話に似ていると、前にお話ししました。どんなに不可能に思える状況にあっても、同じように神は私たちを養ってくださいます。

第二に、私たちには食べ物以上に必要なものがあるということです。聖書では、パンは物質的な食べ物を表しているだけでなく、霊的な栄養も表しています。ヨハネ6章とマルコ6章は、どちらもイエスが5千人の群衆に食べ物を与えた後、湖の上を歩いたことが書かれています。しかし、ヨハネ6章だけが、イエスが命のパンであることを深く掘り下げて書いています。(ヨハネ6:22-59)ヨハネの福音書では、イエスは次のように言います。「わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。…」(ヨハネ6:48-51)

私たちは、食べ物を食べて、ただ生き延びていく存在ではなくて、それ以上のことを求めて生きています。つまり人生に意義とか満足感を持ちながら成長したいと思って生きています。ジムケリーというアメリカの俳優、コメディアンがいますが、彼はこんなことを言いました。「皆がお金持ちになって、有名になって、夢見た物を全て手に入れられたらいいのに。そうしたら、そういうものが人生の答えなんかじゃないってことに気付くよ。」お金も名声も十分に心を満たすものではありません。

第三に、パンは聖餐式を指しています。聖餐式は、教会で定期的に祝う儀式です。人々に七つのパンを与えた時と、最後の晩餐の時にパンとワインについて述べた神への感謝は同じ言葉を使っていました。

IBFで聖餐式を行う時、私たちはイエスが十字架に架かってくださった過去を思い起こします。しかしまた同時に、イエスが私たちと共に今もおられること、そして霊的な満たしはイエスから来ることを覚えて、聖餐式を行います。そして先ほど賛美で歌ったように、いつか壮大な祝宴に招かれてご馳走をいただくという未来を待ち望みます。

先程、ヨハネの福音書を取り上げました。注目すべきことに、ヨハネの福音書には最後の晩餐の記述がないのです。学者たちはこれについて議論していて、ヨハネの福音書6章がすでに聖餐式の実質的な教えを含んでいるからではないかと言っています。ヨハネの福音書6章53節から57節で、イエスは言います。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」

イエスの肉と血をいただくことは、永遠の命のために欠かせないとイエスは断言しています。イエスが私たちの霊的な必要の答えであり、霊的に養われるための一つ方法が聖餐だと、イエスは教えています。

パンとぶどうジュースをいただくことは、単にイエスが十字架に架かってくださったことを思い起こすだけではありません。それは、私たちと共にいてくださるイエスの御臨在を維持するためであり、霊的に養っていただくためです。IBF教会で聖餐式にあずかる時に、パンやぶどうジュースは、神が霊的に私たちを養う一つの方法であることをもう一度思い起こし、感謝をもって神の恵みを受け取ることができるよう願います。

第四に、パンを通して、神の家族がいかに大きなものであるかを覚えましょう。マルコの福音書7章、8章に出てくるパンや癒しの話で、イエスは異邦人を癒し、食べ物を与えています。イエスは、異邦人の地域であるデカポリス地方の四千人に食べ物を与えました。当時、ユダヤ人が異邦人と共に食事をすることは普通ありませんでした。しかし、イエスはユダヤ人に生まれながらも、異邦人にパンを分け与えました。神の家族に全ての国々の民が加わることが神の願いです。

第五に、パンは些細なことも大きくなってしまうと教えます。イエスは、パンを焼く時に例えて弟子たちに教えました。パンを焼く時、パン生地を膨らませるのに少量のイーストを使います。少量でもイーストは強力です。この時にはイエスは弟子たちに、パリサイ人の影響に気を付けるようにと、ネガティブな例えとして使いました。

外見上ではパリサイ人は真実を求めていたように見えます。例えば、イエスが本当に神から遣わされたと示す天からのしるしを、イエスに求めたりとか。しかしすでに多くの奇蹟を行ったイエスは、更なるしるしを見せようとは決してなさいませんでした。何故なら、問題は、しるしがあるかないかではなく、不信仰によってパリサイ人の心がかたくなだったことにあったからです。

疑問を持つことや質問をすることは、いけないことではありません。ただ本当に真実を求めているのかどうかは自覚しなくてはなりません。神や聖書、キリスト教に対する小さな疑いはたくさんあるでしょう。疑問を抑え込んだり、ただ疑問を膨らませるのではなくて、それらの疑問について時間をかけて探求していきましょう。その価値は十分にあるのではないでしょうか。疑いを持つことで信仰をなくしてしまうのではなく、疑いを持つことで信仰の知識を建て上げていきたいものです。

再びイエスは私たちの心の姿勢に注意を向けます。イエスが言わんとしていることを私たちが理解できますように。すぐにイエスの教えを完全に理解することはできないかもしれません。イエスに近しい弟子たちでさえ、ずっと後になるまで大事なことを理解できませんでした。大切なことは、私たちがイエスのそばを離れず、イエスの導きに心を開いていることです。

<体の盲目と霊的な盲目>

同時に私たちの霊的な成長と理解は、自分の努力のみによるのではありません。それは神からの贈り物でもあるのです。新約聖書を読むと、真実に対する目を開くために聖霊が役割を果たすことを学びます。今日の箇所には盲目の男性の話が出てきます。

この箇所は、マルコ7章の耳が聞こえず口がきけない男性の癒しに似ています。著者であるマルコは、パンの話のすぐ後に二つの癒しの話を書き記しました。どちらの癒しも、いつものイエスの宣教地域であるガリラヤ地方ではない所でなされました。そして、どちらの癒しにも、イエスはつばを使い、その人に両手を置きました。最後にイエスは、癒した男性にこの奇蹟について周りに話さないように言いました。

この二つの癒しについて、一つだけ言っておきたいことがあります。それは、これらの癒しは、弟子たちの信仰の旅路を象徴しているということです。盲目の男性にしても、耳の聞こえない男性にしても、弟子たちにしても、彼らはイエスの力で目が見え、耳が聞こえるようになる必要がありました。盲目の男性は、最初に見えはしましたが、はっきりとは見えませんでした。より、はっきりと見えるようになったのは、その後でした。つまり2段階で癒されたのです。信仰の成長の旅路もこのようなもので、時間がかかります。

弟子たちと同じように、私たちはイエスを信じているけれども、まだまだ学ぶべきことはあります。一つの例を聞いてください。

私は15歳でクリスチャンになりました。私はイエスの愛を知ってはいましたが、強い確信があったわけではありませんでした。「頭から心までの距離は遥かに遠い」という英語の言い回しがあります。盲目の男性の目が開いて最初に見た光景のように、私にとって神の愛は、はっきりとしない、ぼやけたものでした。昨年私は、長野県にあるカトリック修道院でサイレント・リトリートというものに参加しました。ごの話は聞いた方もいると思います。リトリートに行った頃、私は母を亡くした後で、悲しみに暮れていました。母には精神的な病があったこともあり、生前の私と母の関係はぎくしゃくしたものでした。

リトリートの内容の一つは、自分の人生の暗く辛い時期を思い出して、その辛い時に神が共にいてくださったことを、神の助けをいただきながら確かめるというものでした。私は辛い子ども時代の記憶に戻りました。私は母による虐待の日々を思い出し、母が私を傷つけていた時、一体神はどこにおられたのだろうという思いが湧きあがりました。

私は目を開け、チャペルの大きな十字架を見つめました。そこにはイエスの彫像がかかっていました。私は自分の心を静めると、心の奥底でかすかなささやきが聞こえてきました。そのささやきはこのようなものでした。「わたしがどこにいたのかと、あなたは尋ねましたね。わたしは、あなたの横にいて苦しみを受けながら、そこにいました。あなたは一人ではなかったのです。これらの傷を見なさい。わたしも一緒に痛みを負っていたのです。」

イエスは私の傷を消し去ってくれませんでした。でも、今、私はイエスの愛を感ることができました。私はイエスが私のトラウマを共有してくださり、私と共に悲しんでおられるとようやく感じることができたのです。まだ私は完全に癒されたとはいえなく、未だに悲しくなってしまうことがありますが、過去から、より自由になったと感じています。それはスムーズなプロセスではありません。時に神の癒しは、ぱっと一瞬で治るとか、完全に癒されるというものではありません。神の癒しは、私たちの生涯を通して2段階とか、もっと段階を踏みながら、なされるものなのかもしれません。そして完全に癒される時が来た時、私たちは神に感謝を捧げられるようになります。

<結び>

パンと盲目をテーマに、今日話してきましたが、まとめます。

パンの話を通して、父なる神は全知全能で、私たちの必要を満たす方であることを私たちは改めて覚えます。私たちが真に生きるために、物質的な食べ物よりももっと大切なものが必要です。霊的な満たしへと導いてくださるのは、イエスです。聖餐式で共にパンをいただくことで、私たちはイエスに霊的満たしをより頼んでいることを再認識します。そして、より素晴らしいものが未来にあることを信じ、私たちは待ち望みます。

イエスが再び来られる時、御馳走が共に食される壮大な祝宴が催されます。その祝宴に神はあらゆる国々の人々を招いておられます。また、パンのイーストの力を思う時、私たちは自分の心を吟味する必要を再認識します。何が私たちによい影響をもたらして、神の方向へ向かわせるのか、反対に神から遠ざけるものは何かを考えます。神の目で真実を見るために、私たちは聖霊の助けが必要です。

伝統的な儀式を重んじる教会の聖餐式で、パンとワインをいただいた後に唱える昔からの祈りで、私が好きなものがあります。それはこのような祈りです。「あなたの一人子、救い主イエスの最も大切なみ体と血という霊的な食べ物を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。父よ、私たちの主、キリストの信仰深い証し人として、今、私たちがなすべき、愛すべき、そして仕えるべき働きに、どうぞ私たちを送り出してくださいますように。」

イエスはご自身のみ体と血によって、私たちを養ってくださいます。ただ座って何もしないでいる私たちを、神は養っているのではありません。私たちはキリストに仕える者として、外に出ていくべきです。

最後に、初代教会の使徒教父であるアンティオキアのイグナティウスの言葉を紹介します。彼は捕らえられ殉教するのですが、彼がローマに送られる途中で書いたものの一節です。「私に内なる力、外なる力が与えられるように祈ってください。その力によって、私は言葉だけではなく、行動を伴えるようにしてください。私がクリスチャンとただ言われるだけでなく、本当にクリスチャンだったと人々に見いだされるように力を与えてください。」こうイグナティウスは書き残しています。

どうか、どこに置かれようとも、私たちはキリストのことを力強く証ししていけますように。

祈りましょう。

すべてのものの源である神よ、あなたは遠く離れていたわたしたちを、み子との出会いを通してして主の家に招いてくださいました。今、あなたのみ言葉と、み子イエス・キリストの体と血をもって養ってくださったことを感謝し、み名をほめたたえます。どうか聖霊の導きにより、あなたの光でこの世界を照らす働きにあずからせてください。また与えられた希望を変わることなく保たせ、すべてのものがみ名をほめたたえることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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