「バプテスマのヨハネの証: 信仰があっても苦しみを受ける」(マルコ6章7~32節)

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オランダ人のコーリー・テン・ブームは有名なクリスチャンの著者です。第二次世界大戦中に彼女とその家族はナチスからユダヤ人を家でかくまい、結局それで警察に捕まってしまいました。彼女のお父さんは刑務所で亡くなり、彼女のお姉さんは強制収容所で亡くなりました。コーリー自身ももう少しでガス室に送られるところでしたが、同年齢の若い女性たちとガス室行きが執行される1週間前に、事務手続きのミスで、コーリーだけが急に収容所から解放されました。残念ながら、彼女だけがたった一人の生き残りとなったそうです。

このように、信仰深い神の民も非常に厳しい試練を通らされることがあります。

今日読むマルコ6章には、神に信仰深く従っているにもかかわらず、死刑となってしまう人物が出てきます。それはバプテスマのヨハネです。また、その頃のイエスと弟子たちについても見ていきたいと思います。まずお祈りしましょう。

(マルコ6章7節~13節を読む)

ここまでのイエスについて思い出してみましょう。マルコ3章14、15節には「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」と書かれています。弟子たちはイエスと共に過ごし、イエスが人々に教え、奇蹟のみわざを行うのを見ていました。そして今度は、弟子たちが教え、奇跡を行う番でした。

6章にはヘロデ王も出てきます。ヘロデ王は、イエスやその弟子たちが人々に教えていることや、癒しや悪霊退治も行うといったことを聞いて、イエスについて思いをめぐらしていました。6章14節から29節まで読んで、ヘロデ王がどう思ったのか読んでいきましょう。

(マルコ6章14節~29節を読む)

バプテスマのヨハネの人生と教えは、イエス自身の生涯と教えを暗示していました。バプテスマのヨハネもイエスの教えも、罪を悔い改めて神のもとに戻に帰りなさいというものでした。そして彼らは宗教指導者を批判しました。バプテスマのヨハネとイエスには類似点が多かったので、人々に「イエスはバプテスマのヨハネの生まれ変わりではないか」と言われたほどでした。

どちらも大胆に神について語ったために捕らわれ、死刑となりました。ですから、ヨハネの死はイエスの死を暗示していました。神であるイエスご自身が理不尽に苦しまれ、人々に殺されてしまったのですから、私たちがイエスに従って苦しみを受けることは驚くことではありませんね。

バプテスマのヨハネが急に登場して、イエスの物語が突然中断されたようにも感じるかもしれません。しかし、バプテスマのヨハネの生涯を知ることによって、神に忠実に従うとはどういうことなのか、それを理解する助けとなっていると思います。また、弟子たちによる宣教活動は順調でした。弟子たちは多くの人々を癒し、多くの人々にイエスのメッセージを伝えました。ところが一方でバプテスマのヨハネは悲惨な死を遂げます。神に従うとは、よい時も悪い時も、慰めも苦しみも両方経験することなのです。

奇蹟は神の働きによるものと考えるのは簡単です。でも、バプテスマのヨハネの生涯が悲惨な死で終わってしまったことにおいても、私たちは神の働きを見ることができるでしょうか。私は、牢獄の中できっと神はヨハネと共にいて、ヘロデに真実を語り続けるように励ましていたと思います。

マタイの福音書でも、人々に教え、癒すようイエスが弟子たちを遣わしたことが書かれています。マタイ10章28節で、何も恐れずに神のことばを人々に伝えるようにと、イエスは弟子たちに語っています。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」と。バプテスマのヨハネはきっと自分の生涯、人生の報い、そして未来は神の御手にあることをわかっていたと思います。

ではヘロデについて何が言えるでしょうか。彼は矛盾がある人物でした。20節には「それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」と書かれています。

正しい人であるバプテスマのヨハネに恐れや敬意があったヘロデですが、人々に対する恐れの方が上回りました。ヘロデはヨハネを殺したくはなかったのに、自分の面目を保つために祝宴に招いた客たちの前でヨハネを殺してしまいました。

バプテスマのヨハネがヘロデに話をする機会は多分何度もあったと思いますが、神のメッセージはヘロデの心に届くことはなかったのでしょう。しかし、それはバプテスマのヨハネの失敗ではありません。バプテスマのヨハネは彼の使命を忠実に果たしました。

バプテスマのヨハネのように、神のことを語る大胆さを私たちも神から与えられるよう願います。私たちは神のことを人に伝えたいと思った時に、毎回そうしなければいけないわけではありません。いつ、どのように語るか、それには神の知恵が必要です。また、私たちの信仰を人々に説明するときに、私たちは清い生活、「正しい生き方」をしている上で、人々に「優しく、慎み恐れて」説明するべきです(第一ペテロ3:16)

バプテスマのヨハネについて触れた後で、マルコは再びイエスの弟子たちについて書いています。30節から32節を読みましょう。

(マルコ6章30節~32節を読む。)

弟子たちが宣教を終えた後で、イエスは休憩するために離れた場所に彼らを連れて行きました。非常に忙しく過ごしていた弟子たちの身体や心に何が必要か、イエスはわかっていました。また、素晴らしい人物だったバプテスマのヨハネの死を聞き、追悼する時間が必要だったかもしれません。いったん立ち止まって休息しなければ、助けを求める人々に弟子たちは休む間もなく対応していたことでしょう。

イエスは働き手に向かって「どんどん働きなさい。たくさんやることがあるのです。ゆっくり休む時間などありません。」と言い放つようなリーダーではありません。イエスは弟子たちが休めるように導いてくださるお方です。イエスに仕えようとする人々にとって、主人がそのようなお方であることは感謝なことですね。イエスに仕えることで忙しい時があるかもしれませんが、定期的に休息を取ることも大切です。

適用

今日は、神を信仰しているけれども、私たちは苦しみを受けるということをテーマに話していますが、いくつか私の思うところをお話したいと思います。

人間の一生にはよい時も悪い時もいろいろありますね。このIBF教会にもいろいろなことがあったと思います。

私は2010年に初めてIBF教会に来ましたが、若い人たちがたくさんいて、神を熱心に礼拝している姿に感動し、励まされました。一方で、大切な人の死や悲しみを経験しました。10年以上前になりますが、みえこさんが重い病に倒れ、多くの人が悲しみに暮れました。体が衰えてきているのに、みえこさんにはもてなしの心があふれていたのを覚えています。

みえこさんは多くの人にとってお母さんのような存在でした。みえこさんのことをよく知らない人たちにも影響を与えた方でした。以前、私の妻は英会話を学びたい方の練習相手をしていた時に、みえこさんを知っているけれども教会に来たことがない未信者の生徒さんがいて、その方にこう言われたそうです。「みえこさんは本当に熱心なクリスチャンだったのに、どうして神様はみえこさんに苦しみを与えたのですか」と。

教会にとって大切な人が亡くなるというような悲しみを通っても、IBF教会の私たちは変わらずに主を礼拝し続けています。それは、私たちが何者であるかでなく、神がどなたであるかを考える時わかると思います。季節が移り変わり、いろいろなことが起ころうとも、変わらずに神はあがめられるべきお方であるからです。

今日賛美で歌った「主の御名あがめます」という曲がありますね。人生のよい時も悪い時も主をあがめましょうという歌で、私はこの賛美が好きです。英語の歌詞には、こういう歌詞があるんですよ。「主の御名あがめます/太陽の光が私を照らすとき/世界があるべき姿になったとき/」「主の御名あがめます/苦難の道の途中でも/捧げるとき痛みがあっても」。

私たちがこの賛美を歌うのは、神は私たちから遠く離れてはおられないことを知っているからです。たとえ神が遠くにしか感じることができない時も、暗闇の中でも、神が見えない時も、神の御声が聞こえない時も、神は働いておられます。

聖公会(イギリス国教会の系統です。)の司祭であるティシュ・ハリソン・ウォレンは「夜の祈り」という著書で、彼女が悲しみに沈んでいた時の神との関係について書いています。彼女はお父さんを亡くして間もなく流産を2度経験しました。そして彼女が絶望のうちに慰めを求めた時に、深い穴底のような暗闇の中で神と出会ったそうです。

彼女自身振り返ってみると、神との関係において最も成長したのは、人生の中で一番辛かったこの時期ではないかと感じているそうです。ですから著書の中で彼女はこう書いています。「夜にしか咲かない花があります。月見草や夕顔など夜に咲く花は、日が暮れてからでないと、その咲き誇った姿を見ることはできません。 霊的なものにおいても暗闇でしか咲かないものもあるのです。」

苦しみのさなかにいると、神が困難を通して私たちの成長を導いておられることを、どうしても受け止められない気持ちになるかもしれません。でもここで、はっきりさせておきたいことがあります。それは、神は聖なるお方であるけれども、冷たい薄情なお方ではないということです。私たちが苦しむのを見て、神は楽しむことはありません。神は私たちを愛しておられ、私たちの苦しみを知っておられます。しかし、時に私たちに苦しみが与えられるのは、私たちが成長する一つの方法だからです。

そして苦しみ自体がよいものであると考えるのも間違っています。もともと、苦しみは神が創造されたよいものの中にはありませんでした。しかし、この堕落した罪の世界で、すでに存在する苦しみを私たちが経験することを、神は許しておられます。そして確かに苦難を経験することで、私たちは同じように苦しむ人々の心に寄り添うことができます。

また、神は働き手に汚れ仕事を命じておいて、自分は快適な場所でくつろいでいるような主人ではありません。イエスは人間として、ご自分の生涯で死というものを経験されました。そして私たちの多くが経験したこともないほどの苦しみを経験されました。誤解されること、嫌われること、裏切られること、不当に逮捕されること、ぶたれること、殺されることは何かをご存知です。イザヤは私たちの救い主を「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53章3節)と表現しています。

ですからクリスチャンはイエス様のことをインマヌエルと呼びます。インマヌエルとは、神は私たちと共におられるという意味です。十字架の死が意味するものは、イエス様が私たちと深く関わることをお選びになったということです。そしてイエス様は、人類の代表として私たちの罪の罰を受けてくださいました。更にイエス様は死からよみがえられ、私たちによみがえりの栄光にあずかる希望もお与えくださいます。

今、非常に辛い試練の中にいるとしても、私たちには栄光の未来が待っています。よみがえりの体をもって新しい天と地で生きるという栄光の未来です。

使徒パウロはローマ8章18節で「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」。22節には「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」26節では「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」28節では「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」と書いています。

これから与えられる輝かしい未来を待ち望み、苦しみのさなかにも神ご自身が私たちと共におられることをしっかりと覚えて歩んでいきましょう。

結び

最後にコーリー・テン・ブームのことをもう少しお話しします。強制収容所でコーリーとお姉さんは、収容所の人々とキリストにある希望を分かち合いました。その中にはクリスチャンになった人もいました。コーリーのお姉さんが亡くなる前にコーリーに言いました。「どんなに深い暗闇の中でも神は共にいてくださいます。」と。

コーリーの家族の話や聖書にも見られるように、クリスチャンは勝利とそして悲劇の両方を経験します。神への信仰があっても、苦難を受けるかもしれません。苦しみの中にあっても、私たちが信仰深くいられるように祈りましょう。神はいつも私たちと共におられると約束しておられます。そして神は身をもって苦しみを知っておられるお方です。

祈りましょう。

全知全能の神様 あなたの摂理によりバプテスマのヨハネは、この世に生まれ、悔い改めを人々に教え、あなたの一人子、私たちの救い主の道を整えるために遣わされました。

どうぞ私たちが彼の教えと清い生活から学び、真に悔い改め、いつも真理を語り、大胆に悪を戒め、真理のために苦しみも耐え忍ぶことができるように、強めてください。イエス様の御名によってお祈りします。

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