「わたしのしもべダビデを起こす。」エゼキエル書34章23節

Pastor Ino

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エゼキエル書33章の中に、見張り人と言う言葉が出て参ります。7節には、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」と書かれています。もう一度、エゼキエルは民の見張り人として、民に神の御言葉を語ることを命じられます。そしてその内容は、11節で、「悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。」とあるように、間違いを犯したイスラエルのために悪の道から立ち返り、新たなスタートをするようにとのメッセージを語ることとなります。

前々回、「もう黙っていてはならない。」(24:27)とのテーマでメッセージを語りました。それに続いて、33章21節、22節で、エルサレムが滅ぼされたことを報告するために逃れた者がやって来たことが書かれています。この時から、エゼキエルの口は開かれ、回復のメッセージを語って行くこととなります。回復のメッセージ、今回その中の最初の箇所を私たちは学ぶのですが、その前提に、33章で、見張り人として、彼はもう一度神に召され、このエルサレムの裁きは神の御心であったことを明らかにしていきます。
29節で、「このとき、わたしが、彼らの行ったすべての忌みきらうべきわざのためにその国を荒れ果てさせ、荒廃した地とすると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」と書かれています。神はいつかすべての民に正しい裁きを下されるのです。イスラエルも例外ではありません。今こそすべての民が、創造主なる神は、裁き主であることに気づく必要があると思います。

エゼキエルが回復のメッセージとして語った最初の内容は、34章の1節から6節までで、当時のイスラエルの指導者たちが自分を肥やして民を養わない、自分の使命を忘れてしまったことを指摘することです。3節と4節を読んでみます。「あなたがたは、脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。」と書かれています。とても具体的な内容です。指導者として、民の心を忘れ、自己中心になってしまった彼らの姿が表現されています。それらの内容は、現在の指導者にも言及されていると私は思います。上に立つ指導者は、弱った者、病気の者、傷付いた者、迷い出た者を大切にする政策を取る必要があるのではと考えさせられます。

イスラエルが国を失っていく、それは指導者たちの姿に大きな原因があったのです。上に立つ者の姿勢、もしそれが独裁的なものであるならば、結果的に民は大いに苦しむことになります。今私たちは、このような現実をいろいろな国で見ています。そして傷つき、希望を失い、生活に困り果てる、そのような人たちの姿を目にします。エゼキエルはこのように失敗した指導者の姿を指摘します。

34章11節からとても大切な内容が書かれています。そこには、神ご自身が人の世話をすることに。そのために新たな指導者を起こされることが預言されています。新たな指導者が与えられる約束は、最終的にはイエスの誕生によって実現していくのです。このことが回復のメッセージの中心です。新たな指導者は、道に迷ってしまった羊を助けてくださるのです。皆さんお気づきでしょうか。この約束は、私たちの救い主イエスを実に簡潔に指し示しています。もしそうであるなら、人は救い主であるイエスにお会いするまで真実な平安をいただくことはできないのです。私たち一人一人がイエスを信じ、イエスに導かれる人生を歩みだすまで、私たちは不安の中に生きていると私は思います。エゼキエルは新たなメッセージとして、ダビデの子孫として救い主が生まれる。この方こそ新たな羊飼いである。そしてこの方を信頼して生きる人生こそ、平和の中に生きる人生であることを簡潔に預言しているのです。それらの聖書の箇所をいくつか見てみましょう。

11節で、「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。」と書かれています。神ご自身が羊である私たちの世話をされるのです。まずイスラエルの民は散らされた所から再び集められます。そして神が彼らの世話をされるのです。その内容が、16節に書かれています。「わたし(神様)は失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。」とあります。これは人として生まれた神の子イエスのなされた宣教の業です。そして続いて、神様ご自身がこの地上に正しい裁きをもたらすことが約束されています。そのような新しい牧者が与えられていくのです。その牧者とは、23節で、「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」とあります。わたしのしもべダビデとは、イエスを指し示しています。そして24節には、「主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」とあります。救い主イエスこそ、私たちの君主であり、王であります。このイエスが羊飼いとして民を牧会されるのです。

私たちは今、救い主イエスを信じる神の民です。このイエスこそ私たちの牧者である。その確信をどれだけ皆さんはお持ちでしょうか。神ご自身が私たちの世話をされるのです。それは救い主の働きです。私はキリストを信じる信仰者の一人として、日々聖書を読み、キリストの教えを聞き、キリストが私の羊飼いであることに感謝をします。マタイ18章の12節から14節まで、道に迷った1匹の羊の例えをキリストが語っています。この羊飼いは100匹の羊を持っていましたが、そのうちの1匹が迷い出たとしたら、その1匹を探しに出かけると言う例えです。この1匹を見つけて、羊飼いは大いに喜ぶのです。そして14節で、「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」と書かれています。そうです。キリストこそ私たちの羊飼い、そして、私たちを探し出し、連れ戻してくださる方なのです。さらに私たちの傷を癒し、病気を癒してくださる方なのです。日々この方と一緒に生きる、それがクリスチャンの生き方であると思います。

イエス様、私をこの世の重荷から自由にしてください。そして日々私を助け、今日も一緒に生きてくださいとの祈りを共に捧げていこうではありませんか。

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