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直訳すると、「山の上での体験」という英語の言い回しがあります。それは、霊的な観点からの人生の中で、忘れられない、神との高揚した瞬間を意味します。普通は、これ以上なく神に近づいたと感じた出来事とか、大事なビジョンを神からいただいたことなどを言います。
今日のマルコ9章の箇所には、イエスに近しい3人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが山の上で驚くような神々しい体験をしたことが書かれています。驚くような奇蹟を、彼らはすでに見ていたのですが、ここで目にした光景は別次元のものでした。彼らの目を通して、この出来事を考えたいと思います。また、驚くような体験や奇蹟を、何故神は私たちにもっと経験させないのか、という点についても考えたいと思います。まず祈りましょう。
(マルコ9章1節~13節を読む)
〈イエスの変容〉
イエスは、山の上での出来事の6日前に、自分は殺されてしまうけれども、復活すると弟子たちに言いました(マルコ8章) この会話は全て、イエスがどなたなのか、ということに繋(つな)がっています。イエスは弟子たちに尋ねて言いました。「あなたがたはわたしを誰だと言いますか。」 イエスは、この会話の最後に「(いつか)父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る」と言いました。(マルコ8:38)
山の上では、ペテロとヤコブ、ヨハネが、その未来の栄光を少しだけ目にする機会を与えられました。
この箇所は「イエスの変容/変貌」と呼ばれるところで、弟子たちは輝く光や雲を見て、声を聞きました。そして、弟子たちより何百年も前に生きていた、旧約聖書に登場するモーセやエリヤも、彼らは見ました。
その時、弟子たちは衝撃を受け、恐れおののきました。でも後になってこの出来事について考える時間ができた時に、彼らは思い出したかもしれません。旧約聖書の中で、輝く光や雲の中で神のご臨在が示されたことを。
〈光と雲と声〉
出エジプト記やダニエル書、詩編などには、光、雲、声が書かれた箇所が出てきます。時間の都合で、詳しく話しませんが、いくつか見てみましょう。
光
- 出エジプト34:39 神との対話後に明るく輝くモーセの顔
- ダニエル書 7:9 雪のように白い衣をまとう、年を経た方(神)についての預言
- 詩編104:2 光を衣のように着る神 という詩的表現
弟子たちは光だけでなく、周りを覆う雲も見ました。後になって、旧約聖書の出エジプト記や第一列王記で、雲の中で神がご臨在を現したことを、弟子たちは思い起こしたかもしれません。
雲
- 出エジプト19:9 シナイ山での神のご臨在
- 第一列王記8:10 ソロモンの神殿に満ちた神のご臨在
更に弟子たちは「これは、わたしの愛する子、聞き従いなさい」という声を雲の中から聞きました。
声
- マルコ1:11節 イエスの洗礼(「あなたは、わたしの愛する子」)
- 詩編2:7 メシヤと将来の王についての預言(「あなたは、わたしの子」)
- 申命記 18:15 将来の予言者(「彼に聞き従わなければならない。」)
「これはわたしの愛する子」との天の声は、マルコの福音書1章に出てきます。イエスの洗礼の際に、天の声が響きわたります。この天の声と同じような表現が詩編2篇にも出てきます。詩編2篇は、メシア預言、イスラエルの約束された王についての預言の詩だと考えられていました。
また、その声は言いました。「彼に聞き従いなさい」と。申命記18章でモーセは将来の預言者について約束しました。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命記18章15節)
〈これらのしるしは何を意味するのか〉
光、雲、声というこれらのしるしによって、後で弟子たちは、イエスが確かに聖なる神の子であったと感じました。
何年もたってから、ペテロは、ペテロの手紙第二1章16節から18節で、イエスのみ姿が変わったことについてこう書いています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
ペテロは山で起こった日のことを思い出し、このように書き記しました。
〈モーセとエリヤ〉
ところでモーセとエリヤの登場についてはどうでしょうか。
モーセとエリヤは旧約聖書で象徴的な人物です。モーセは、旧約聖書の律法を代表する人物で、イスラエルの民に神の律法を最初に教えました。モーセが最初です。一方、エリヤは旧約聖書の預言者を代表する人物です。エリヤは、神が送った多くの預言者のうちの一人です。預言者たちは、イスラエルの民に律法に立ち返りなさいと教え、間違ってしまった世界を神が建て直してくださると言って、人々に希望を与えました。律法と預言者の完成がイエスであるとクリスチャンは信じています。
イエスがモーセやエリヤについてどう教えていたかについて、マルコの福音者には書かれていません。しかしルカの福音書9章31節には次のように詳しく書かれています。「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」
この「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期」の「最期」という言葉は英語では、「departure出て行くこと」を意味する言葉で、ギリシャ語ではexodusです。これは旧約聖書の「出エジプト」を表す言葉です。つまり、モーセによる出エジプトに似たことを、イエスがエルサレムで為そうとしていたということです。しかし、イエスのexodusは物理的に人々を奴隷から解放するのではなくて、罪、死、悪魔の奴隷から人々を霊的に解放することだったのです。
イエスのみ姿が変わったのを見て、山を後にする時、弟子たちにはたくさんの疑問が浮かんでいました。イエスが死からよみがえるとはどういう意味だろうか。まずイエスが苦しんで、死ななければならないとはどういうことだろう。メシアが来る前にエリヤが来なければならないと律法学者は言っているが、それは何故だろう。
この質問に対してはイエスは13節でこう答えています。「しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」
ここの「エリヤ」は、イエスの従兄であるバプテスマのヨハネのことを意味しています。バプテスマのヨハネの預言者としての使命は、イエスに先立ち、神のもとに立ち返りなさいと、人々の心を整えさせることでした。そうしてバプテスマのヨハネはヘロデ王に殺されてしまいました。それはイエス御自身の苦しみと死を暗示しています。苦しみの後にのみ、イエスの勝利と栄光がもたらされるからです。
〈何故神は、特別な体験を私たちに経験させないのか〉
ペテロ、ヤコブ、ヨハネにとって、このイエスの受難の計画を簡単に喜び受け入れることはできませんでした。できるだけ苦しみは避けて通りたいのが人間というものです。深い谷底にいるよりも山の頂上にいたいものです。神は何故、3人の弟子たちが山の上で経験したような、ドラマチックな経験を、もっと私たちにさせてくれないのでしょうか。
何故、クリスチャンライフの大半は、変わり映えしないものなのでしょうか。何故神は、神のご臨在をもっとはっきりと、もっと頻繁に見せてはくれないのでしょうか。もし、もっと奇蹟を見ることができたら、もっと多くの人がイエスを信じることでしょう。神がこの特別な出来事を、たった数人にしか経験させないのは何故でしょうか。今日の聖書箇所においても、イエスの弟子たち全員ではなくて、3人の弟子だけでした。
これらの質問に答えるために、二つの考えを述べたいと思います。
〈信仰を保つには特別な体験だけでは不十分〉
一つには、奇蹟や、神との関係が近い特別な瞬間は、価値あるものではありますが、それだけで、神を信じ、信仰を保っていくことはできないということです。
私の友人が、ある時、洗礼を受けなさいという神のみ声を聞きました。その声を聞いて、彼は号泣したそうです。それは彼が、その声が神のみ声だと信じたからです。彼はまた、神が本当に自分を深く愛してくださっていると、強く感じた経験もしたそうです。でも受洗後しばらくして、彼は教会を去り、クリスチャンの友人たちから距離を取るようになってしまいました。理由はわかりませんが、彼の信仰をあまりよく思わない、ノンクリスチャンの恋人との交際を選んだことが、理由の一つだったのではと思います。私たちが信仰を持ち続けるには、神々しい特別な体験よりももっと大切なものがあるのです。
イエスご自身が、奇蹟に対して疑問を呈している聖書箇所があります。ルカ16章で、イエスは「ラザロと金持ちの男」の話をしています。ある金持ちの男が死に、死後のよみの世界で、神の民とは離れた、(熱い炎が燃え盛る)場所で苦しんでいました。それで金持ちの男は懇願しました。「(すでに死んで神の国にいる、貧しかった)ラザロを私の家族のもとに送ってください。私には兄弟が5人います。兄弟までがこんな苦しい場所に来ることがないように、ラザロを送って警告させてください。…死んだ者が生き返って警告したら、兄弟たちは悔い改めるでしょう。」 しかし残念ながら、金持ちの男はこう言われました。「たとえ誰かが死人の中からよみがえっても、兄弟たちがモーセと預言者に耳を傾けないなら、聞き入れはしないでしょう。」と。
聖書の話の中でも、奇跡は目にしたにも関わらず、神のみ言葉を信じなかった人々のことが書かれています。また最初は信じるけれども、すぐに止めてしまう人のことも書いてあります。イエスの弟子たちを見てみましょう。ヨハネ6章では、イエスのみ言葉が受け入れがたかったことから、弟子たちの多くがイエスに従うことを止めてしまいましたね。イエスに近しかった、信仰深い弟子たちでさえ、兵士がイエスを捕らえに来ると、ほとんどが逃げだしてしまいました。
信仰は選択であり、贈り物ではないでしょうか。信仰は、神が与えてくださった自由な意志によって、自分で選び取るものです。同時に信仰は、自分で獲得するとか、自分で創り出すものではなくて、与えられるもの、贈り物です。逆説的ではありますが、信仰は選び取るものであり、贈り物なのです。
〈霊的な鍛錬によって、ゆるがない信仰を育む〉
信仰を選択するために私たちはどうしたらよいでしょうか。神を信じることは、一時(いっとき)の出来事とか、一時の決断によるものではありません。私たちは、何度も何度も信仰を選び取っていかなくてはなりません。
例えば、定期的に聖書を読むこと、祈り、礼拝、クリスチャン同士の交わりや奉仕など霊的な鍛錬をすることで、信仰を選び取っていきます。
神が何故特別な体験を多く与えないのか。二つ目の理由は、奇跡とか気分の高揚などの特別な体験が、霊的な鍛錬に取って代わることはできないからです。神との特別な出会いは、よくあることではなくて、本当にまれな出来事です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは山から下って、結局はいつもの日常に戻らなくてはいけませんでした。
教会の歴史を見ると、有名なクリスチャンには、神との交わりの中で、ビジョンが与えられたり恍惚(こうこつ)状態になったり、驚くような神々しい経験をした人もいます。でも、彼らの信仰を支えたのは、そういう特別な瞬間ではなくて、祈りのような平凡な鍛錬だったのです。
私は、3世紀に生まれたエジプトの聖アントニウスの本を読みました。彼はキリスト教の修道院生活の父として有名です。最初は、彼は修行僧のように世間から離れ、全人生を祈りに捧げていました。そのうち、神や天、悪魔の力との闘いなど、神のビジョンが与えられるようになりました。しかし最後には、神は彼を孤独な修行から外の世界へ遣わし、クリスチャンのコミュニティを作らせました。そして彼は指導者、教師になりました。
聖アントニウスが創立した修道院では、メンバーたちは先ほど言ったような鍛錬に没頭します。つまり、聖書を読む、祈り、礼拝、交わり、奉仕などです。神との関係を更に深め、それを維持していく方法はいろいろあります。
それは私たちの健康と似たところがあると思います。運動しようとか、健康な食生活をしようとか、思い立つことがありますね。でも、もしよい習慣をキープできるよいシステムがないと、その思い付きはどこかへ行ってしまいます。同じように、クリスチャンの信仰もただ一時の思い付きだけでは、継続できません。信仰を継続させる習慣が必要です。
〈結び〉
まとめますが、神は私たち一人ひとりの人生にそれぞれの形で働いてくださいます。ドラマチックに神を経験したかどうかに関係なく、神は、私たちそれぞれに必要ものを与えてくださいます。
イエスのみ姿が変わった光景は、3人の弟子に神から特別に与えられたものでした。3人の弟子がイエスの変容を見ることで、イエスが罪と死からの解放をもたらすために来た、神の御子であることが更によく理解できたことでしょう。
私たちがこのような経験ができたら、何と素晴らしいでしょうか。でもドラマチックな神の体験は、確かに助けにはなるでしょうが、信仰を長期的に継続させることはできません。私たちの信仰を継続的に成長させるものは、むしろ聖書を読むことや祈り、礼拝、交わり、奉仕といったものです。このような習慣は平凡で、ありきたりです。ドラマチックではありませんが、こういう習慣によって、私たちは日々神に近づき、そして神のみ声に耳を傾けていきましょう。
〈祈り〉
神さま、あなたは、聖なる山で選ばれた者たちに愛する御子を目撃させ、それを明らかにされました。イエスさまは素晴らしい栄光の姿に変わり、その衣は白く光り輝きました。不穏な世界から解放された私たちが、信仰によって、その美しさのうちに王であるイエスさまを見ることができるように、憐れんでください。神と聖霊とともに、永遠に一つの神として生き、支配しておられるイエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン
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