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数か月前、パク先生は、私たちの体は聖霊の宮だと書かれてある第一コリント6章からメッセージをしてくださいました。それに関連して、イエスがエルサレムの神殿から商人たちを追い出したことも話してくださいました。もしも私たちの心が宮であるのなら、皆さんの心の中できれいに取り払われなければいけないものや、清められなければいけないものは何かありますか。
今日のマルコの福音書の箇所では、イエスが神殿を清めたことが書かれています。聖書を読む前にお祈りしましょう。
(聖書 マルコの福音書11章12節~25節を読む)
<いちじくの木と会堂>
この箇所では、イエスがいちじくの木を呪ったことと、神殿で商売をしていた人々を追い払ったという二つの出来事が書かれています。マルコがこの二つのことを同じ箇所に記したということは、これらはつながりがあるということだと思います。実はいちじくの木は神殿を表しています。
イエスはいちじくを呪い、そして神殿を裁きました。というより、本来神殿で礼拝をするべき人々を裁きました。
何故いちじくの木に例えて、イエスは教えたのでしょうか。何故いちじくの時期ではないのに、いちじくの木に実がなっていると期待したのでしょうか。これは旧約聖書で、イスラエルがいちじくに例えられているのをイエスが引用したのです。エレミヤ24章や29章、ホセア9章、ヨエル1章、ミカ7章に、その例えがあります。例えばミカ7章1節には、神のイスラエルに対する嘆きが表されています。「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きないちじくの実もない。」
神がイスラエルを嘆いたように、神殿で見られるべき信仰と祈りがないことをイエスは嘆いたのです。イエスが御覧になったのは、人々の信仰と祈りではなくて、人々が物を売り買いしている姿でした。
<強盗の巣>
商売をすることは何も悪くないのですが、ここでは二つ問題がありました。
聖書研究家によると、第一に、捧げものである動物の値段を釣り上げて、ぼったくりの欲深い商売が行われていたこと、第二に外庭と呼ばれる場所で、ユダヤ人が商売していたことが問題でした。外庭は、会堂の中で唯一、ユダヤ人ではない人々が入って来て祈れる場所でした。本来、神殿は神を崇めて礼拝する場所であるべきなのに、金儲けの人間の欲深さが蔓延(まんえん)する場所となってしまっていたのです。
イエスは、預言者イザヤの言葉を使って、「わたしの家は全ての民の祈りの家と呼ばれる」と言いました。
神は、神に近づく全ての国々の民を喜び受け入れてくださいます。しかし、商人たちには異邦人が礼拝する場所に対して、何の敬意もありませんでした。つまりユダヤ人は、他の国々の民を唯一まことの神の礼拝へと導く使命があるのに、それを果たしていなかったということです。
イエスはまた、エレミヤ書から引用して「それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」とも言いました。自分たちは敬虔だというふりをして、実は欲深く、不正をしても逃げおおせると考えていた人々を、エレミヤは厳しく非難しました。(エレミヤ7:9-11)もしもイスラエルが悔い改めないなら、エルサレムの神殿は滅びるだろうとエレミヤは警告しました。その警告の通り、BC587年にバビロニアによって、エルサレムの神殿は破壊されてしまいました。神殿は後に再建されましたが、神殿の現状をイエスが厳しく叱ってから40年後、ローマ帝国によって再び滅ぼされました。
二千年たった今日(こんにち)、エルサレムの神殿は廃墟が残されているだけです。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」とイエスは言いました。いちじくに言ったこのイエスの言葉は、現在の神殿の状況をまさに言い当てていると思います。
<イエスは裁くお方>
さて、商人たちを追い払うどんな権威をイエスは持っていたのでしょうか。マルコの福音書で貫(つらぬ)かれているテーマは、イエスの王としての権威です。王としてイエスはご自分の民を裁く権威を持っておられます。神は全ての人間を裁くと聖書は言っています。この考えは多くの人々を不愉快な気持ちにさせます。裁かれたいと思う人は誰もいませんから。
エルサレムには、聖墳墓教会と呼ばれる古代の教会が建っています。ここには、険しい表情をしたイエスの顔の肖像があります。こういう肖像はパントクラトールといって、全能者イエスを描いています。それを見ることで、イエスこそ最大限に尊敬され、崇められるべき方だと参拝者たちは改めて思います。
しかし残念ながら、あまりに畏(おそ)れと尊敬が強調されすぎて、イエスが少しよそよそしくて、思いやりに欠けているようにも見えます。ですから、何故多くのローマカトリックと正教会のクリスチャンがイエスに直接祈るのではなく、マリアに向かって祈るのか、わかる気がします。彼らにとって、マリアはもっと近づきやすくて、憐(あわれ)み深い存在なのでしょう。
私たちはカトリックや正教会の神学にすぐ異を唱えることがありますが、私たちプロテスタントも神学的な誤りがないわけではないことも忘れてはいけません。プロテスタントはイエスの愛を強調しすぎて、神を喜ばせる生き方をしなさいとイエスが私たちに求めていることを忘れて生きていないでしょうか。
確かにイエスは愛なるお方です。イエスは病の人を癒し、社会から取り残されている人々と共に食事を取りました。更に重要といえるのは、世界をお造りになった神に逆らった私たちは、罰を受ける身であるのに、イエスは究極の愛をもって私たちの身代わりとなって死んでくださいました。
でも私たちはイエスに従う者と呼ぶには未だにふさわしくないまま、何事も変わっていないように生きていないでしょうか。へブル10章26-27節には「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」とあります。
イエスが私たちに裁きについて教え戒めるのは、私たちを心配してくださっているからです。黙示録3章19節には「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」とあります。
そしてマタイ23章37節にはこうあります。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
愛に満ちておられるイエスのもとに帰りなさいと、イエスは私たちを教え、戒めています。
イエスは教師であり、救い主であり、そして裁くお方でもあります。私たちの生き方は正しくないと言う権威をイエスはお持ちです。神のことを気にかけずに、自分のやり方で生きていると、とりあえずはそれで満足できるかもしれません。でもやがて神のいない人生は、自分を失望させ、破滅にさえ導くでしょう。私たちへの愛ゆえに、イエスは私たちを戒めてくださいます。
<結び>
私たちの体と心は神の神殿、宮です。この教えをもう一度思い出しながら、今日のメッセージをまとめたいと思います。皆さんが自分の心の中を見つめた時、それは宮のようですか。それとも商売が行われているような場所でしょうか。お金や他の必要な物、欲しい物で、あなたの心はいっぱいになっていませんか。神のみことばを聞くスペースはありますか。今日、私たちの心の宮はどのようなイエスの清めを必要としているでしょうか。
大体毎日、私は主の祈りをするようにしています。主の祈りの終わりの方で、「私たちの罪をお許しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを許します。」という部分があります。私は、人を許せないという気持ちが残ってしまう人間です。でも主の祈りをすると、神は私を許してくださったんだ、今度は私が他の人を許す番なんだと思うことができます。そして、こういうふうに私が考えることを神は願っておられるのを感じます。でもなかなか簡単ではありません。しかし私はイエスに、心の傷を取り去ってくださるように、そして、私に罪を犯した人々に対する憎しみの感情から解放してくださいと祈ることができます。
さて、いつもどのように皆さんは祈っているでしょうか。神は私たちの祈りを聞いてくださると信じるように、イエスは教えています。イエスは子どもの言うことに耳を傾けてくださる愛なる父です。聖書は、私たちの祈りが聞かれる条件について教えています。例えば、第一ヨハネ5章14節にはこう書いてあります。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」
父なる神を知れば知るほど、神が望まれることや神が優先されることが私たち自身の願いとなってきます。神と自分の望むことが、より一致していくと、神が私たちの祈りに応えてくださることも、より多くなっていくのではないでしょうか。何故なら神が望むことを私たちが祈るのですから。
神に感謝を捧げ、どうぞ語ってくださいと祈る、また聖書を読む時に神の御旨(みむね)は一体何かを思いめぐらすなど、神と定期的に話す時、交わりを持つ時を持っていますか。毎日とても忙しいですが、毎日5分、神との時間を取り分けて交わりを持つことから始めましょう。そうすると徐々に主は私たちの心に語りかけてくだるでしょう。
祈りましょう
主なるイエスさま あなたはエルサレムの宮を清めました。あなたがお怒(いか)りになるもの全て、私たちの人生から取り払ってください。どうか私たちがいつまでも、あなたの栄誉と栄光の神殿となれますように。イエスさまのお名前によって祈ります。
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