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2番目に、もしも、逆境な時にも、神を信頼して、正しい生き方ができたならということです。真の神に目を向けて、しっかりとした人生観を持って、天国の約束を握ってクリスチャンの人生を送れるならば幸いです。状況がどんなに悪く見えても神の愛は変わりません。ですから、私たちは神を信頼して、神を求めて生きるのです。5章の14節で、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。」とあります。天地創造の神を信じ、神は私の人生を良くしてくださると信じ、生き方を変えるのです。将来が閉ざされていると思えても、善を求め、そして悪から離れ、主を求めて生きることがきっとできるはずです。主が、あなたがたとともにおられようとの約束があるのです。
3番目に、もしも、困難な時に、主に祈りを捧げることができたならということです。神は私たちのとりなしの祈りを聞いてくださるのです。私たちが悔い改めて、神と共に生きることを神は願っておられます。そして祈りを通して、私たちとともに歩んでくださるのです。7章2節には、「神、主よ。どうぞお赦しください。」とあります。そのような祈りをこの社会のために捧げていく時に、あなたの祈りを神は聞いてくださり、答えてくださるのです。アブラハムも祈りの人でしたし、民のために熱心に祈っています。アモスも祈りの人でした。弱者が助けられるようにと祈っています。私たちも、弱者のためだけではなく、日本のために、また世界のリーダーのためにも祈ることができるのです。神は私たちの祈りに答えてくださり、私たちを取り巻く状況はきっと改善していくものと思います。神はいつか正しい裁きをなされます。しかし、その時まで、とりなしの祈りをささげて、神の助けをいただきたいと願います。
今日はアモス書8章に入ります。神の裁きが北イスラエルに臨む。そのことが明らかにされている箇所です。では、具体的に見てみましょう。8章1、2節で、「神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。主は仰せられた。『アモス。何を見ているのか。』私が、『一かごの夏のくだものです。』と言うと、主は私に仰せられた。『わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。』」とあります。夏のくだものと終わりが、語呂合わせになっています。ヘブル語では終わりとはケーツで、夏の果物をカイツと言います。アモスは、夏の果物を見ることを通して、北イスラエルの終わりが来たことを認識するのです。それは、北イスラエルがどんなに一時的に豊かにされても、神から離れてしまったが故に神によって裁かれる、その時が来るのです。
神の裁き、そして終わりは、どのような状態で起こり、どのような理由で来るのでしょうか。まず、3節で、「その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。神である主の御告げ。多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」とあります。本来喜びの礼拝が捧げられる場所である神殿での歌声が、泣き声に変わるのです。それは、北イスラエルがバビロンによって攻撃され、多くの人たちが殺され、そして神殿に投げ捨てられる、そのような状況が起こることが預言されています。そして4節には、「聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地の悩む者たちを絶やす者よ。」とあります。国の政治家たちは貧しい者を踏みつけ、悩む者を助けることをおこたっていたのです。そして、この人たちは礼拝を捧げていると言いながら、5節の後半には、「安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。」と、商売のことで頭が一泊であることが示されています。彼らは、悪意を持って商売をしようと、神を礼拝しながら考えているのです。そして6節には、「弱い者を銀で買い、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために。」とあります。彼らは貧しい者を不正の富で買い取り、奴隷にして、自分たちの道具として用いようとするのです。それも一足のくつとありますから、ただ同然のお金でです。そのような民のリーダーのために7節では、「主はヤコブの誇りにかけて誓われる。わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない。」とあります。神の正しい裁きが訪れるのです。9、10節には、「その日には、神である主の御告げ。わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」とあります。ちょうどアッシリアによって北イスラエルが裁かれる日を、終末の日に起こる神の厳しい裁きと対比しています。それは、ただ外面的な裁きではありません。
11節には、「見よ。その日が来る。神である主の御告げ。その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」とあります。彼らは、国を失い、神のみ言葉に渇くのです。そのような時が来るとアモスは預言しています。彼らは、神のみ言葉を求めて、12節では、「彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを探し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」とあるのです。ちょうど北イスラエルの今の状況のようです。彼らは、創造主を金の子牛に変え、神がお立てにならない祭司を立て、間違った宗教に陥ったのです。ちょうど、彼らの心はパンのききんではなく、主の言葉を聞くことへのききんに陥っていたのです。そのような現実が今起こっているのです。そして、それは主によって裁かれる、その時になって彼らはこの言葉の意味を悟ることとなるのです。
さて皆さん、イエス様はどのようなお方でしょうか。命のパンである方、私たちの心をみ言葉と聖霊で満たしてくださる方です。イエスは、命のパンそのものです。その箇所を見てみましょう。ヨハネの福音書6章32から35節までを見てみます。32節の後半から33節には、「しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」とあります。35節で、イエスは言われた。「私がいのちのパンです。わたしに来る者は決して餓えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とあるのです。私たちは命のパンである主イエスを信じています。霊的な渇きをイエスは満たすことができます。また聖霊によって、私たちの内にキリストが住み、私たちが日々パンを食べるように、神のみ言葉をいただいて生きることができるのです。今、そのような人生を信仰者は歩んでいます。
北イスラエルの民は、国を失い、希望を失って、初めて神のみ言葉を求めるようになるのです。しかし、幸いです。失敗しても、挫折しても、神は自分の民をお見捨てにはならないからです。私たちもそのことに気づいていきたいです。命のパンであるキリストに出会うまでの人生は、決して本来の人生ではありません。不安や心配の中に生きている、それが神を信じるまでの人生なのです。「実に、主のことばを聞くことのききんである。」この状況に、北イスラエルの民と同様に、未信者の多くの方々がおかれているのです。しかし、イエスを救い主と信じる者は、命のパンをいただいて生きるのです。そうです、キリストに出会って人生を豊かにされて、命のパンを確かにいただいて、私たち信仰者は生きているのです。皆さん、一歩進んで、命のパンであるキリストを分かちあうことのできる人生を、キリストの助けによって歩んで行こうではありませんか。
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