ヨハネの福音書20章24節~29節 「信じない者にならないで」

Pastor Kitazawa

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○「イエス・キリストの公生涯から」というテーマでしばらく語ってまいりましたが・・
このシリーズも、きょうを入れて後3回、この7月で完結いたします。

・暑さに弱いこの者が、最後まで、しっかりと語り終えることができるようにお祈りいただきますと幸いです。
よろしくお願いします。

・さて、前回と前々回は、2回連続して、弟子たちが、よみがえられた主イエス・キリストとの再会を果たした、そのときの様子を記した聖書個所から観てゆきました。

・ところがです。 なぜか、この主イエスと弟子たちとの再会の場に、トマスという弟子だけは居合わせていなかったのです。

・仲間と一緒に寝食を共にし・・いわば、命がけで主イエスに仕えてきたトマスは・・「どうして自分だけが・・」
そういう、強い疎外感、言いようのない寂しさを感じていたのではないかと想像できます。

・きょうの聖書個所は、そんな中で起こった出来事でした。

➀ヨハネの福音書20章24節25節のところを見ますと、このように書かれてあります。

・12弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。そこで、彼らの弟子たちは彼に、「私たちは主を見た。」と言った。
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡へ指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

・「そんなことあり得ないでしょう。あの方が、死者の中から生き返って、みんなの所に現れたなんて・・」トマスはそう言っているわけです。

・彼の言っていることは、確かに、常識人の、物事を合理的に考える人の真っ当な意見でした。

・しかし、この時のトマスの発言は、真っ当なことを言っているというだけでなく、どこかトゲがあります。 もっと穏やかに言ってもよかったはずです。

・「皆さん。まあまあ落ち着いてください。そんなこと、起こるはずがないでしょう。皆さんは幻か何かを見たのですよ。」こんな風に言ってもよかったと思います。

・しかし、彼はこの時、こう強く言い放ったのです。
「私は、そのイエスさまの、その手に、釘の穴を見、私の、この指を釘の所に指し入れてみなければ、決して信じません!」

・皆さんは、このトマスのこの発言を、どのように感られるでしょうか・・

・「何か、異常に力が入っている・・」そう感じるのは私だけではないと思います。

・そうです。彼はここで、「自分は信じない!」ということを必要以上に強調しているのです。

・勿論、彼の心の中には、「怪しげな話に私は安易には乗らない・」「人は理性的であるべきだ。」 「検証することもなく、信じるというのは愚か者のやることだ。」 そういう正論、常識論があったと思います。しかし・・

・しかし・・「私は、その手に釘の跡を見、その釘の跡に、自分の指を入れて・・また槍で刺された脇腹にも、私の手を入れてみない限り、私は信じない。」ここまで強く言うことになったその本当の理由は・・

・やはり、彼のその思いの、その奥にあった「自分だけがなぜ・・」という心のわだかまりだったのではないでしょうか・・

・つまりトマスのその口は、ここで「私は信じない!」ということ断言しているのですけれども・・
彼の心の奥底には、彼の叫びがあったのだと思うのです。

・「私だってあの方に愛されていることを信じたい」
「私だって、あの方を愛し、あの方を我が主と信じて生きてゆく一人でありたいのです」

・人の心は複雑だと思います。
時に、人は、自分の口から出す言葉と、自分の本心が正反対であったりいたします。

・トマスの心はこの時、苦しくもあり、また寂しくもあり、実に複雑でした。
彼の心は「私も信じたい」でしたが・・彼の口は「私は信じない」と言うのでした。

➁さて、トマスと弟子たちとのこのようなやり取りがあってから、丁度一週間後のことです。
この日は、トマスも他の弟子たちも一緒に家の中におりましたが・・

・そこに突然、主イエスが彼らの真ん中に立たれたのでした。

・そして、前回弟子たちの前に立たれたその時と同じように、主は、先ず、「平安があなた方にありますように」と言われます。

・そして、トマスにこのように言います。:27節「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく。信じる者になりなさい。」

・そうです。 主イエスは、トマスの心の内を全部ご存じでありました。

・そして、彼が、このまま「自分は信じない」と言い続け、その自らの断言的な言葉により、さらに頑なな心になり・・その己の持論に固執し、主イエスを信じない人間として、神の愛を信じることなく・・いのちの希望もなく、絶望の道をとぼとぼと歩んでゆくしかない・・
トマスがそういう者になってゆかないように、と、この素晴らしい再会の場を用意されたのでした。

・主イエスはここで、あえてトマスが使ったその同じ言葉を使いました。
それは、そのトマスの言い放ってしまった悪性腫瘍のようなその言葉を彼の体の中から残らず取り除くためでした。

・そして主は、このように言われるのでした。
→「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

③話が、一旦聖書から離れますが・・
・先日、私の家に、制服を着た警察官が訪ねて来まして、応対に出た妻にこう聞いたそうです。
「北澤さんの家族構成についてお尋ねしたいのですが・・」

・このような場合、皆さんでしたらどのように応対するでしょうか・・。

・私の妻はこう言ったそうです。 「あなた、本当に警察官ですか?」

・そうしましたら、その警察官は慌てて警察手帳を見せて、自分が本物の警察官であることの説明を始めたそうです。

・確かに現代生活は、安易に人の言うことを信じる者であるのは、平和な日本でも危険なことです。 たとえ、制服を着た警察官でも・・息子を名乗る者であっても・・人の言うことを信じるというは、気を付けなければなりません。

・最近は高齢者だけでなく、若者をだますテクニックもいろいろとあるようです。
10代、20代の皆さんも気を付けていただきたいと思います。

○話を主イエスキリストの御言葉に戻しますが・・
では、主イエスがトマスに、信じない者にならないで・・信じる者になりなさい、と言われたのは、どういう意味なのでしょうか・・

・主イエスの語られたこの御言葉の意味を・・、思いっきり短く、思いっきりわかりやすく解説しますと・「神さまに愛されていることを、そして遣わされたこのわたしに愛されていることを、信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」そういう意味です。
・もう少し説明を加えますと・・ 主イエスはここでこう言っておられるわけです。
「あなたは、わたしが死者の中から復活し、人々の前に現れ、死に勝利したことのその証を伝えた、そのこと伝え聞いたあなたは、私だけは決して信じない。と断言しました。」

・「しかし、愛するトマスよ。あなたは、この神の愛の御業を、信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 「そして、あなたも、本当の希望を持ち、後の人たちにその希望とその愛を語り継ぐ・・そういう、幸いな者になってゆきなさい。」
このように主は語られたのでした。

・これを聞いたトマスは、どう答えたのか、と言いますと・・

・彼は万感な思いを込めて、こう答えます。27節・・「我が主。我が神。」

・このトマスの応答が如何に真実なものであったのか・・それは、歴史が教えてくれます。
多くの皆さんは既にご存じだと思います。

・彼は、その主イエス・キリストにある希望と、愛を携えて、何と、何と・・パレスチナから当時としては遥かかなたにあるインドまで出掛けて行いって、多くの人々にその福音を伝えたのでした。

・なぜそんな大きなエネルギーが彼の中からあふれ出できたのか・・それこそ聖霊なる神のお働き・・その通りだと思いますが・・

・彼を突き動かした源はもう一つあったと思うのです。それは、このイエスさまの御言葉にあった、私はそう思うのです。

・彼は行き先々で、人々にこう言っていたに違いありません。
「皆さん、私はかつて、主イエスの復活を決して信じない、そう断言した者でした。
しかし主イエス・キリストは、そんな愚かな私の前に立ち、この小さな者にも、愛されていることを信じない者にならないで、信じる者になりなさい。そう言ってくださったのです。」

・「どうか皆さんも、神さまに愛されていることを信じる者になってください・・そして、その神さまの愛に包まれながら生きてゆく、そういう幸いな一人一人になってください!」

④この時主は、トマスに、この「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」という御言葉を語られただけではありませんでした。

・直後に、このような御言葉を付け加えたのでした。29節の御言葉です。そこを読んでみます。
→「あなたはあたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

・実は、私はこの29節の御言葉を、結構長い間、誤解をしておりました。
・どういう誤解をしていたかと言いますと・・こんな解釈です。
「ここにイエスさまの厳しさがある。イエスさまはこう言っているのではないか・・
あなたは、わたしを見たから信じたのですか、それではだめです。本当の信仰というのは、見て信じるというのではなくて、見ないで信じるということです。」

・しかしある時、ルター訳聖書を読みました時に、ここで主は「見て信じるのはだめな信仰。本当の信仰ではない。」そういうことをおっしゃっているのではない、ということに気が付かされたのです。

・ルターは、ここの所を、あの山上の説教の有名な8つの幸いについて語っている、その言い方をそのままを使って、母国語(ドイツ語)に訳しました。

・これを日本語に変換しますとこうなります。「ああ、なんと幸いな事でしょう。見ないで信じる人は・・」

・つまり主は、目で見て、ようやく信じる、そういう信仰ではだめだと語られたのではなくて・・
神さまのすばらしさを見て、その信仰が育てられてゆくということは、とても大切なことです。

・例えば、何もわからない外国で、見事に心砕かれたすばらしい人格者と出会い、信じられないほど温かくしてもらったとか・・、その人の背中に主イエス・キリストの姿を感じるほどの真実な人格者との交わりの時を経験したりいたしますと・・その人の信仰は大きく前進いたします。

・どんな病に侵されていても、神さまに感謝し続けている、不屈の精神をお持ちのキリスト者 隣人を自分と同じように愛し続けておられる愛のかたまりのようなキリスト者を見て、私たちはその信仰を強められます。

・しかし、主イエスは、「我が主、我が神」と思わず叫んだ、このトマスにこう語られたのでした。
「ああ、何と幸いでしょう・・ああ何と祝福されていることでしょう!見ないで信じる信仰は・・」

・そうです。主は、トマスに、「あなたの信仰は、この先、まだまだ成長してゆきます。
あなたはいつの日か、見ないで信じるそういうすばらしい信仰者になるにちがいありません。」
それは何と幸いなことでしょう!主はこのように励ましておられるわけです。
私はその主の哀れみ深さに驚くのです。

⑤トマスは、「私は信じない」私たちにあるのは結局絶望だ!」そう思っていた、そういう自分が如何に悲しく、いかに的はずれで、如何に不幸なものであるか思い知った人でした。
またトマスは、イエス・キリストを我が主、我が神と信じる者が、如何に幸いなことなのかを思い知った人でした。

・そうです。私たちの主イエス・キリストは、私たち一人一人を、きょうもまたいのちからいのちへ、勝利から勝利へと導いておられる。そのようなお方なのです。

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