「良い知らせを伝える者」 ナホム書1章15節

Pastor Ino

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前回は、ミカ書6章8節から、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか、とのみ言葉を学びました。ミカ書6章8節には、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義(公正)を行い、誠実(恵み)を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」とあります。ミカ書の後に続くナホム書は、へりくだって歩むことを忘れてしまったアッシリヤへの神の裁きが書かれています。2つの書物の内容に神の不思議な導きを覚えます。現代の社会、力ある国が弱い国を武力で攻撃したり、独裁的な政権がいくつか起こっています。私たちはそのような不条理な現実を見るのです。そのような悲しい現実を目にする私たちに、ナホム書は、神はいつかすべての国に、またすべてのリーダーに正しい裁きをもって臨むことを、私たちに教えていると思います。

ナホム書1章1節には、「ニネベに対する宣告。エルコシュ人ナホムの幻の書。」とあります。ニネベとは、アッシリヤの首都です。この大きな町、ニネベに対する神の裁き、これがナホム書のメッセージです。皆さんもニネベと聞けば、ヨナのメッセージによって悔い改めた町の名前であることに気づかれるでしょう。確かにヨナによって悔い改めに導かれ、ニネベの民は一時的に神の裁きを免れました。しかし、それは一時的であり、再度高慢になって神に挑戦をするような民になってしまったのです。今までミカ書から、公正を行うこと、恵みを愛すこと、へりくだって、神と共に歩むこと、そのことを学んで参りましたが、そのような姿からニネベの民は、遠く離れてしまったのです。

アッシリヤの王が神に挑戦する姿が、第二列王記18章に出てきます。エルサレムを大群で包囲し、お前たちは誰に、何により頼んでいるのかと神の民に挑戦します(19節)。どんな国々の神々もアッシリヤの王の手から救い出すことはできないと叫ぶのです(33節、35節)。しかし、南ユダの王ヒゼキヤの祈りに、神は答えられ、アッシリヤの軍隊18万5千人が主の使いよって打たれたのです。(19章35節)

確かにアッシリヤの王は遠くエジプトの地まで領土を広げました。そして、その力に屈服し、イスラエルの王マナセはアッシリヤに従属する政策を取ったのです。その結果、ユダの民の信仰は大いに堕落し、異教化してしまいました。ナホムは、どの時点でこの幻を見たのかは分かりませんが、ナホムの見た幻のように、紀元前612年に、アッシリヤは滅亡してしまいます。高慢になった国はいつか滅んで行くのです。

ナホム書1章2節には、非常に衝撃的な言葉が書かれています。「主はねたみ、復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はその仇に復讐する方。敵に怒りを保つ方。」と。とても驚く表現ですが、神に立ち返ることのない民に対する神のさばきを簡潔に表現していると私は思います。3節の前半では、「主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。」とあります。主は怒るのにおそくとありますが、かつてヨナのメッセージに応答し、神の前にへりくだったニネベへのさばきが中止された出来事を連想します。しかし同時に、主は決して罰せずにおくことはしない方、とあるのですから、神の御怒りの時、裁きの時がいつかを訪れるということが明らかにされています。

その怒りの内容として、1章4節では干ばつによる神の裁き、5節では地震による神の裁きが描かれています。そして6節では、誰もその神の憤りの前に立つことができない。その憤りは、火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる、と表現されています。

ナホムは神の激しい裁きとともに、契約の民に対するいつくしみを明らかにしています。7節で、「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」とあるのです。南ユダは、神の恵みのゆえに生き残っています。王も何代も変わります。しかし神の恵み、神の慈しみは変わらないのです。契約の民に対する選びの約束は変わりません。イスラエルの民族は、聖なる国民、祭司の王国となるために召されているのです。私たちも同様に、キリストの恵みによって救われ、キリストの尊い十字架の業によって罪赦されています。本当に感謝です。神は、私たちクリスチャンを選んでくださったのです。そして状況はどうであれ、終末の今の世でも、私たちクリスチャンは主に身を避け、神の御手の中で守られているのです。

8節からは、ニネベに対する神の大きな刑罰が表現されています。「しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、主に逆らう者を滅ぼし尽くし、」とあります。9節には、「主はすべてを滅ぼし尽くす。仇は二度と立ち上がれない。」とあります。 10節の後半には、「全く焼き尽くされる。」とあります。そして11節には、「あなたのうちから、主に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たからだ。」と刑罰の理由が書かれています。確かにアッシリヤの軍隊はエルサレムを包囲し、どこの国の神々も私たちの力から守ることはできないと誇りました。しかし、一夜にして、その大群衆は滅ぼされ、神の大きな裁きが起こったのです。そのような過去の出来事から、アッシリヤの人たちは学ぶことができたはずです。残念ですが、彼らは神に立ち返ることよりも、自分の力を誇ることを選んでしまったのです。神の大きな裁きが彼らに望みます。しかし、その裁きは、圧迫に苦しむイスラエルの民にとっては解放の時でもあるのです。

12節の前半には、「主は仰せられる。彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる。」とあります。彼らとは、アッシリヤを指しています。アッシリヤは、刈り取られて消え失せるのです。続いて、12節の後半には、「わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。」とあります。あなたとは、南ユダを指します。彼らは長年アッシリヤによって苦しめられてきたのです。しかし、ここで再びあなたを苦しめない、とあります。それは解放の時が訪れるという神の約束です。13節には、「今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す。」とあるのです。実に嬉しい解放の約束です。

ユダの民はこのメッセージをどう受け取ったのでしょうか。続く14節には、「あなたの子孫はもう散らされない。あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳造を絶ち滅ぼす。あなたはつまらない者であったが、わたしはあなたの墓を設けよう。」とあるのです。マナセ王の悪政の下、南ユダの民は誠の神から離れ、偶像礼拝を公に行うようになっていたのです。神の民としての使命を忘れてしまった民を、つまらない者であったと表現しています。しかし、神はあなたの墓を設けよう、と語りかけています。それは、神の民として受け入れるということです。私たちも困難や試練の中でいろいろな決断をします。良い決断を、または神のみこころから離れた決断もすることもあるでしょう。南ユダの民にも、回復の業が起こるのです。

15節には、「見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。」とあります。良い知らせとは、クリスチャンである私たちにとって、それはイエスの福音です。イエス・キリストは、私たちの罪の贖いを十字架の上でなしとげ、信じる者に罪の赦しを与え、永遠の命を与えてくださるのです。これは、私たちが信じる良い知らせです。私たちは、神と共に生きる人生を送ることができるのです。新たな使命をいただいて生きることができるのです。最近被造物管理、または被造物ケアーという言葉を頻繁に聞くようになりました。インドに遣わされた宣教師の証です。その宣教師の働きで、ある村の住民の多くがクリスチャンになり、彼は被造物管理の使命を信仰者となった住民に教えたのです。彼らはゴミを片付け、通りに花を植え、自然環境をケアーする歩みを始めたのです。実に新たな歩みです。しばらくして、クリスチャンの村は美しい花々に囲まれ、楽園のような村になり、多くの方が訪問する町になったというのです。この宣教師は、被造物をケアーする生き方こそ、信仰者の使命ですと教えたからです。これも福音の力の現れです。

ユダヤの民にとって良い知らせとは、かつての契約に戻ることです。聖なる国民、祭司の王国として彼らはもう一度生きることができるのです。それは彼らが選ばれた理由です。良い知らせ、平和を告げる者の足が山の上にあって叫びます。「ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの請願を果たせ。(15節)」と。彼らは、過越の祭りをもう一度祝うことができるのです。あのエジプトで、彼らは、羊を食し、そして家の門柱とかもいに羊の血を塗り、静かに神の怒りがエジプトの全家を通り過ぎるのを待ったのです。このことは、子羊の血の贖い、イエスの十字架の贖いを指しています。アッシリヤは、断ち滅ぼされるのです。彼らは、聖なる国民としての使命に立ち帰るのです。そして、もう一度神の民として生きていこう。そのように、聖なる民として、新たな歩をすることができるのです。このメッセージこそ、彼らにとって良い知らせなのです。

皆さん、神は、ニネベもバビロンも滅ぼされました。そして、信仰者の回復が起こりました。私たちも福音を信じる者として、聖書のみ言葉を味わって、希望ある人生を生きようではありませんか。

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