「塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。」 ナホム書2章1節

Pastor Ino

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今回は、ナホム書から2回目のメッセージです。前回は、1章15節から、「見よ。良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。」とのみ言葉を取り上げました。そして、その箇所から、アッシリヤの滅亡は、ユダヤの民にとって解放のメッセージであることを学びました。解放だけにとどまらず、過越の祭りを祝い、自分たちのアイデンティティーを回復する、そのような幸いな時が訪れるとのメッセージであると指摘しました。神との契約の中にあるユダヤの民は、もう一度信仰を回復するのです。ユダヤの民にとって良い知らせとは、かつての契約に戻ることです。聖なる国民、祭司の王国として彼らはもう一度生きることができるのです。良い知らせ、平和を告げる者の足が山の上にあって叫びます。「ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの請願を果たせ。(15節)」と。彼らは、過越の祭りをもう一度いわうようになるのです。あのエジプトで、彼らは、羊を食し、そして家の門柱と、かもいに羊の血を塗り、静かに神の怒りがエジプトの全家を通り過ぎるのを待ったのです。アッシリヤは、断ち滅ぼされるのです。ユダヤの民は、聖なる国民としての使命に立ち帰るのです。このメッセージこそ、彼らにとって良い知らせなのです。この過越の祭りは、子羊の血の贖い、イエスの十字架の贖いを指しています。そして、新約時代に生きる私たちにとっては、その信仰がイエス・キリストの十字架を信じる信仰へとつながっているのです。

ナホム書1章から3章まで、全体を通して、アッシリヤの滅亡のメッセージがとても生き生きと表現されています。この預言のように、ニネベは紀元前612年に滅びます。ナホムの預言は、神の裁きは、私たち一人一人に、すべての民の上に、すべてのリーダーの上にいつかのぞむことを教えています。どんなに強い国であっても、その支配や繁栄は永遠には続きません。神のみこころに反した国は、神の裁きを受け、いつかこの地上の支配は終わるのです。

ナホム書から、アッシリヤの滅亡の姿をいくつか見てみましょう。2章8節では、「ニネベは水の流れ出る池のようだ。みな逃げ出して、『止まれ、立ち止まれ。』と言っても、だれも振り返りもしない。」と表現されています。ニネベの繁栄は、池から水が流れ出るように消えていくのです。3章4節には、「これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行う女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った。」とあります。 彼らの魅力は確かに優れたものであったのでしょうが、偶像に満ちた繁栄であったのです。7節には、「あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。『ニネベは滅びた。』と。誰が彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは探そうか。」とあるのです。力で世界を支配しようとした国、その力を失うとだれからも見向きをされない存在となるのです。皆さん、高慢になったアッシリヤは滅びたのです。また、アッシリヤの後に起こったバビロンも滅びました。そのように、どんな強国も、いつか終わりが来るのです。そのような歴史観をこのナホムは私たちに教えています。

新約聖書の黙示録も同様なメッセージを伝えます。力強く、大バビロンは滅んだと私たちに語りかけるのです。必ず、神に敵対する勢力は神によって裁かるのです。サタンもキリストによって裁かれ、滅ぼされるのです。そして、キリストを信じる者は、どんな状況の中でも守られ、回復の時が来るのです。これは、黙示録が伝えるメッセージです。もちろん、私たちの救いの中心は、イエス・キリストです。キリストは私たちの人生に救いの業を始め、完成に至らせる方なのです。キリストを信じる者は、いつかサタンの支配からも解放され、勝利の人生が来るのです。これは、聖書が教えるメッセージです。

ヤコブ書5章7、8節から読んでみます。「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」とあります。ヤコブは主が来られる日を、一人一人、祈りと忍耐を持って待とうと励ましています。

ナホム2章1、2節で、ナホムは、私たち信仰者は、悪と戦い信仰を守り通すのだと言う強いメッセージを伝えています。2章1節には、「散らす者が、あなたを攻めに上って来る。塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ。」とあります。散らす者とはアッシリヤの軍隊です。彼らは、エルサレムに上って来るのです。だから、とりでを築き、道を見張り、大いに力を奮い立たせよと、ユダの民に語りかけるのです。そして2節には、「主は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される。」と約束されています。ヤコブの栄えとは、回復されたイスラエルを指すと思われます。後に南ユダはバビロンによって滅ぼされ、捕囚とされる道を歩きますが、もう一度回復の時が来るのです。それは、イスラエルの栄えのようにとあるのですから、特にダビデやソロモンの時代のような繁栄を指しているように思います。神は、信仰者を守り、回復の道を備えてくださる。それがナホムのメッセージです。そのためには、信仰者は立ち上がり、サタンと戦う姿勢が問われるのです。

マタイの福音書25章31節から46節までに、イエスが羊とヤギを分けることをたとえで話しています。それは、最後の審判のたとえです。そして羊を自分の右に置き、王はその右にいる者たちに言います。「さぁ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが乾いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」(34‐36節)と。イエスは弟子たちに、神を愛する生き方、そして隣人を愛する生き方をするようにと励まします。私たちは、イエスを愛するので、キリストの戒めを守るのです。そして、他者を、キリストを愛するように愛し、助けるのです。羊とヤギとを分ける事は、明らかに最後の審判が行われることの言及です。

イエス様は、マタイ25章で、花婿を待つ賢い娘になるように、一人一人が賜物を活用して天に宝を積むように。そして、その後で、この羊とヤギのたとえを語っています。イエスは、そのようなたとえ話を弟子たちに伝え、あなた方の生き方を、神は関心を持って見ておられるのです、と語りかけています。実りある人生を目指していくように励ましておられるのです。確かにアッシリヤは裁かれます。しかし、私たちは指をくわえて、何もしないで、最後の時を待つのではありません。最後の審判があると言うことを信じて、一人一人が神の前に忠実に生きることを選ぶのです。神を愛する生き方、そして、隣人を愛する生き方を選んで行うのです。アッシリヤが滅んだのは、王も指導者も、そしてその民も自らの使命を忘れてしまったからです(3:18)。皆さん、悪と戦っていこうではありませんか。とりでを築き、道を見張り、大いに力を奮い立たせようではありませんか。そして、神のみこころに生きようではありませんか。実りある人生を、神はあなたに願っておられるのです。

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