「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 ヘブル書12章2節

Pastor Ino

↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】

前回はハバクク書から、「正しい人はその信仰によって生きる」 (ハバクク書2章4節)とのみ言葉を学びました。だれでも、思ったようにはいかない出来事を経験します。預言者ハバククも同様です。彼は、国民が神に立ち返り、国の暴力や争いが止むように祈るのですが、神が答えてくださらない、聞いてくださらない、救ってもくださらない(1:2)、そのような葛藤に陥るのです。南ユダの民のために祈る彼に、神が与えくださった答えは、南ユダは裁かれるということ。それも、新たに起こるバビロンによって、神の裁きが下されるということです。彼は、到底受け入れることのできない答えです。そのようなハバククに神は、「正しい人はその信仰によって生きる」とのみ言葉を与え、バビロンもいつの日か裁かれる、その幻を見せるのです。どんな国々も、この世界で永遠には続きません。それが聖書が教えるメッセージです。私たちもそのような視点で世界を見たいものです。今の世界には、独裁的になり、神のみこころから離れ、民意に反した政策をとるリーダーがいかに多いことでしょう。彼らもいつか神の正しい裁きに会う、そのような視点を持って私たち信仰者は、世界の出来事を見続けて行きたいものです。今日は、「正しい人はその信仰によって生きる」とのみ言葉を、ヘブル書の視点から見てみます。

皆さん、私たちの人生にはわからないことがあってもよいのです。ただ、神様が一緒に居られて、私たちの人生を導いてくださる。そのことを信じて歩んで行けばよいのです。イエスを信じる信仰を持って生きる、その信仰から離れてはいけない。これが今日のメッセージの結論です。

ヘブル書の作者は、世界に迫害が起こり、多くのクリスチャンたちが苦しみ始めた、そのような現状に直面します。そして特に、ユダヤ教からキリストを信じるようになった方々が、こんな迫害に会うのなら、ユダヤ教に戻ろうとし始めたのです。イエスへの信仰を疑い始めた人たちに向けて、ヘブル書の作者は語りかけます。

いくつかの言葉を選んでみます。ヘブル書10章23節には、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」とあります。イエス・キリストは私たちの罪を赦してくださっただけではなく、聖霊を通し、私たちと共に歩んでくださる方です。イエス・キリストこそ真実な方です。このイエスを信じて歩む、動揺しないでキリストへの希望を持ち続ける。それが信仰者の歩みです。キリストが与えてくださる永遠の命への希望を持ち続けて歩むのです。35節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とあります。皆さんはどうでしょうか。皆さんもキリストを信じて、人生が変えられた経験をされておられると思います。罪の赦しが与えられ、人生の価値観が変わり、いろいろな不安から解放され、永遠の命の希望が与えられていると思います。クリスチャンは多かれ少なかれ、そのように新しく生まれ変わる経験をします。そうであるなら、天国の確信を投げ捨ててはいけないのです。

そして37節で、「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」とあります。今私たちは終末の時代に生きています。キリストが戻ってこられる時が近づいています。そして38節には、「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」とあります。キリストを信じて義とされた者は、たとえ迫害が起こっても、試練が来ても、退かずに信仰を持って生きるのです。そのような者の歩を神様は喜んでくださるのです。

ヘブル11章1節で、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。皆さん、天国の祝福は見えません。でも、クリスチャンは天国の祝福を信仰を持って見て、確信します。イエス様にいつかお会いするその希望を持って、私たちは生きるのです。 11章の中で多くの信仰者の歩みが述べられています。しかし、13節で、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです。」とあります。皆さん、私たちの人生は旅人であり、寄留者です。この地上の富も権力も永遠には続きません。クリスチャンは与えられた富を用いて、神に栄光をお返しする、そのような生き方をするのです。

また、11章39、40節で、「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」とあります。皆さん、聖書に出て来る偉大な信仰者たちも約束されたものは得なかったとあります。それは地上では、すべての信仰者は旅人であり、寄留者であるからです。彼らも救い主の祝福を求めて生きたのです。

12章2節には、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあります。私たちは旅人であり、寄留者です。ですから、イエスから目を離さないで生きるのです。これがクリスチャンの生き方です。そして様々な出来事、特に試練や困難は、神が与えてくださった訓練だと考えなさい。そう、このヘブル書は教えています。12章7節で、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」と問いかけています。そして10節には、「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」とあります。ここに、訓練の目的が書かれています。 11節には、「すべての懲らしめは、そのときは、喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。さぁ、皆さん、目標を見上げて生きようではありませんか。この地上には不確かのものが満ちています。私たちの健康も、また私たちの富も不確かなものです。クリスチャンは不確かなものに目を向けるのではなく、イエスに目を向けて生きるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでなさい、そう教えられています。そして12章1節には、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」と書かれています。皆さん、忍耐を持って私たちの人生のレースを走り続けようではありませんか。

最後に、ここで信仰の勇者の一人として取り上げられているヤコブの人生を見たいと思います。ヘブル書11章21節には、「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。」と書かれています。このヤコブは、パロの前に招かれた時に、「私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、(創47:9)」と述べています。そのヤコブが、ここでは、「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(創世記48:15)とヨセフの子どもたちを祝福したのです。「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」本当に素晴らしい信仰の告白であると私は思います。そして、私たちも同様な信仰の告白をしたいと思います。明日はわからなくて、ずっと私の羊飼いであられる神、その神が確かにおられるのです。イエスは、私の羊飼い、そのように告白しながら、信仰の完成者であるイエスと共に歩んでいきたいと願っています。

(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone

タイトルとURLをコピーしました