「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」 ルカの福音書17章21節

Pastor Ino

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先週、赤城バイブル・キャンプ場で開かれた教団のCRCキャンプに何名かで参加いたしました。そこで取り上げられたテーマは、「御国が来ますように」と言うものでした。このテーマを、個人、教会、社会、そして被造物管理の視点から4人の講師が取り上げて講義をしてくださいました。今日はそこで学んだことを多少参考にして、私なりに整理して話してみたいと思います。まず御国とは、英語ではキングダムです。文字通り、神の王国、神の支配のことです。実は、神の御国が来るようにと、私たちは主の祈りのなかで祈っています。マタイ6章10節には、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」とあります。イエスが私たちに教えてくださった主の祈りの一節です。もう一度確認します。御国、それは神の王国のことです。神のみこころがなされるところです。私たちは、神のみこころが天で行われるように地でも行われるようにと祈っているのです。この主の祈りをささげる時に、神のみこころがなされるように祈るのですから、人は神の御心に服従し、自然に自分の人生の王座をイエス様に明け渡しているのです。それは自然なことだと思います。私個人の王国ではありません。私の願いの実現でもありません。神のみこころが私の人生に訪れるように祈っているのです。ですから、心の中心に私がいるのか、それともキリストがおられるのか、そのことに気づかされる祈りでもあります。心にキリストをお迎えして、私たちの人生の主権を神にゆだねて、この祈りをする者でありたいです。

今日は、ルカの福音書17章21節から、「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」とのみ言葉を取り上げます。御国はあなた方のただ中にある。これはイエス・キリストが教えておられる神の真理です。しかし、人の目で見えるものではありません。神の国が私たちの心の内にあることに気づいて、信仰生活を送る者でありたいです。このテーマを、ルカの福音書17章の内容から学んでみます。17章1節から4節では、イエスは赦すことの大切さを教えています。3節で、「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」とあります。そして4節で、「かりに、あなたに対して1日に7度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って、7度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。とても大きなチャレンジです。不可能ではと思うような内容です。しかし、神の御心は、私たちがお互いを完全に赦しあって生きることです。聖書では、7は完全数ですね。憎しみを抱いて生きる人生ではなく、悔い改めて、互いに赦しあって生きるのです。キリストに罪を赦された私たちが完全にお互いを赦しあう、その関係の中に御国が訪れるのです。

次に17章5節から10節までは、僕の姿が教えられています。10節で、「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」とあります。役に立たないしもべ、また、なすべきことをしただけですとあり、しもべの姿が明らかにされています。キリストも、しもべとしての人生を歩まれました。私たちも、しもべとしての人生を歩むのです。しもべとしての人生を歩む生き方には、神のみこころを実現する力が与えられているのです。キリストに王座を渡して、キリストと共に生きる人生、それが私たちのしもべとしての歩みでもあります。あなたのみこころであるなら、私は従います。これがしもべの姿です。神の御国では、神が主人であり、私たち一人一人は僕として生きるのです。

そして、ルカの福音書17章11節から 19節には、10人のらい病人がイエスに癒された様子が描かれています。しかしその中で1人だけ、自分が癒されたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの足元にひれ伏して感謝したとあります。彼はサマリヤ人です(16節)。 10人が神の奇跡を経験します。しかし、イエスこそ癒し主、イエスこそ神の子、イエスは全能の神、この方が私を癒してくださった。そのように信じてイエスのもとに戻ってきた者は1人だけなのです。このサマリヤ人は、神の御子キリストの力を通し、癒されただけではなく、神のご臨在に触れ、神の御国の一端に触れたのではと私は思います。

そして20節からこのように書かれています。「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」とあります。皆さん、神の国は目で見ることはできませんが、あなた方のただ中にあるとあります。キリストのご臨在のゆえに、神の国はあなた方のただ中にあるのです。私たちは目で見えないけれども、神の支配を心に迎える時に、神の御国の確かさを体験することがあります。そして、イエス・キリストにひれ伏して、あなたこそ私の王です。私の罪を赦し、私を救ってくれてありがとうと礼拝を捧げる時に、神の御国の一端を味わうのです。

イエス様は宣教のはじめに、「時が満ち、神の国が近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と語られました。マルコ1章14と15節です。時が満ち、神の国が近くなったとは、救い主イエスがこの地上にお生まれになって、神の業をこの地上で始めたと言うことを意味します。そしてこの救い主の働きを伝えるメッセージが福音です。私たちのために救い主が十字架につき、私たちの罪を赦すだけではなく、私たちを天の御国に迎えてくださる。そのように信仰を告白する者は、福音を理解し、御国の確かさに触れるのです。救われた私たちは礼拝を通して、神の御国を経験します。それは、2人でも3人でも私の御名によって集う、その中にキリストがおられると言う聖書の約束があるからです(マタイ18:20)。ローマ14章17節で、「なぜなら、神の国は、飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」と表現されています。私たちは、神の御国を、義と平和と聖霊による喜びを持って経験するのです。

御国が来ますようにとのテーマで、環境についても講義がなされました。ローマ8章19から22節には、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が、虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。21節には、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」とあるのです。さて、人間が罪を犯し、本来神の創造されたものを、この自然も含めて管理し、おさめていくその使命を忘れてしまい、自然を汚してしまった。これが人間の歴史であると思います。しかし、今私たちはキリストに助けられて、被造物ケアーの働きを始めるのです。被造物ケアー、最近よく使われる言葉です。インドのある村で、村のすべての住民がクリスチャンになる奇跡が起こりました。その宣教師は、クリスチャンは被造物のケアーをする使命が与えられていることを教えていきました。彼らは、創造主を信じ、互いに赦し合うことを学び、そしてこの地上で被造物をケアーする。その使命に1歩踏み出したのです。物を捨てるよりは、物を拾い、荒らすよりはケアーし、また通りに花を植え、その結果、そのクリスチャンの町が本当に美しい町に変わっていったのです。彼らの町は、彼らの信仰とともに目に見える形で変わったのです。彼らの心にある神の御国が自然の中で美しく花咲いたのです。クリスチャンはこの地上に残されている間、神の使命を忘れてはいけないと思います。心が新しくされ、被造物を管理する。そのような人生がスタートするのです。神から愛を受け、そして神の愛を抱いてこの社会で生きる。そのようにして、神の御国の広がりをクリスチャンは体験できると思うのです。 たとえ目には見えなくても、神の御国はあなたの心の中に存在します。ご一緒に神の御国をもっともっと体験する者でありたいと願っています。

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