「正しい人はその信仰によって生きる」 ハバクク書2章4節

Pastor Ino

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前回は、マタイの福音書25章21節から、「よくやった、良い忠実なしもべだ。」とのテーマで学びました。一人一人、与えられた賜物に忠実に生きていこう。私たちは、そのようなチャレンジを受けました。現代の世界では、いろいろなことが起こっています。私たちの人生においても、不安になることや、様々な危機が訪れることがあります。決してクリスチャンの人生は簡単なものではありません。信仰者であることの葛藤も多くあるのです。しかし、神様がおられることを信じて、目標を見失わないで歩むことができるはずです。

今まで旧約聖書のナホム書から、神様は悪を裁かれる、そのことを学びました。それは、私たちの神は義なる神だからです。私たちの神は義なる神、そのことを忘れてはいけないと思うのです。ナホム書の次にはハバクク書が出て参ります。1年前に私はこのハバククを取り上げて説教しました。簡単に振りかえってみます。ハバククは、宗教改革に熱心に取り組んだヨシヤ王の時代か、その前の時期に活躍した預言者です。ヨシヤ王は偶像礼拝を禁止し、宗教改革運動を展開します。神殿の修復事業の過程で、律法の書が発見され、ユダの民はもう一度旧約の律法の教えに立ち返ろうと努力をしたのです。ハバククはそのような状況下で、神の前であなたの正義はいつ訪れるのですかと祈っています。ところが祈っても、彼が願っているようには社会は変わらないのです。彼の期待するようには神はお答えになりません。むしろ神から驚きの答えをいただきます。それがハバクク書1章5節と6節です。「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは1つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは、信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。」

神様の答えは、神の正義のツールとしてバビロンを起こすと言うものです。そして、このバビロンによって、アッシリヤも、後に南ユダも滅ぼされる、そのような神のご計画が明らかにされます。1章12節の後半には、「主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。」とあります。裁きのためにバビロンを神が備えられ、その裁きはアッシリヤにも、自分たちの国南ユダにも向けられていることに気づくのです。神が南ユダを裁かれるのにバビロンを用いるのですか。少なくとも自分たちのほうがバビロンより正しい民ではないでしょうか。そう、ハバククは考えるのです。神の答えには到底納得できません。1章13節の後半で、「悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」と、彼は祈っています。

考えてみますと、南ユダも神との関係が長年断たれ、堕落してしまい、義なる神の裁きの対象なのです。南ユダを裁くために、そのためにバビロンを用いる。驚くべき、神のご計画ですが、でもハバククは、この神のご計画を信仰を持って受け入れるのです。ハバクク書2章4節に、「見よ。心のまっすぐでないものは心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」とあります。このみ言葉が、この書の中心となるみ言葉です。正しい人はその信仰によって生きる。神のみこころなら、どんなことも受け入れて、神の時を待とう、それが彼の決断です。祈っても思ったような状況には至らない。いつでも起こります。しかし信仰を持って、神を見上げ、現状を受け入れ、キリストと共に歩むのです。いつか神の時が訪れ、神が働かれ、神の助けが与えられて行くのです。

神は正義の神ですから、将来のいつかバビロンも裁かれる。ハバククはそう預言します。そのことが、3章16節の後半で、「私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。」と表現されています。その日はいつかわからないけども、心高ぶり、神の御心から離れてしまった国を神は裁かれる。それはバビロンも同様です。皆さんは今、どのような願いを神に求めておられるのでしょうか。世界も混沌としています。聖書が教える世の終わりが近づいています。主イエスが戻ってこられる、その日が確かに近づいています。しかし、私たちは希望を持ち、信仰を持ちながら、この終末の時代に生きるのです。

ヘブル書11章は信仰について教えています。ヘブル11章1節には、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。そして6節で、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」とあります。

皆さん、神様は確かにおられます。そして神は、神を求める者には報いてくださる方なのです。私たちはそのことを信じて、様々な祈りをささげ、キリストと共に生きるのです。ハバククがそうであったように、すぐに祈りの答えが与えられなくても、その確信が得られなくてもです。ヘブル11章39節には、「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。」とあります。旧約の民は、救い主の誕生を待ち望んだのです。救い主によって与えられる祝福を期待し、信仰を持って待ち望んだのです。しかし、それを得ることができなかったと語っています。そして私たちに、12章1節で、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と語りかけるのです。そして2節で、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と命じています。

すぐに祈りの答えが与えられない、思ったような状況にはならない。そのような現実はいつでも起こります。それだけではなく、試練や困難を伴うような出来事が時には起こってくるのです。それが私たちの人生です。ヘブル12章7節で、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」と語りかけます。私たちは、イエス様にお会いできるその日を目指して、信仰を持って生きるのです。与えられた賜物に忠実に生きるのです。賜物を地面に隠して主人の帰りを待つ、そんな人生ではいけないのです。他人と比べることなく、生き生きと神を信じて生きるのです。信仰の創始者であるイエスは、信仰の完成者でもあるからです。

最後に、ヘブル13章から、信仰を持ってどう生きるのか学んでみます。まず、兄弟愛をいつも持つことです(1節)。旅人をもてなすことです(2)。苦しめられている人々を思いやることです(3)。結婚がすべての人に尊ばれるようにすること(4)。金銭を愛する生活ではなく、今もっているもので満足する生活をすることです(5)。そして15,16節で、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。皆さん、礼拝の喜びを体験していきましょう。確かに、ドアが閉じられてしまったと感じる時もあります。しかし、天を見上げて、賛美しつつ、信仰をもって、良い業に励もうではありませんか。イエスにお会いできるその日を目指して、共に歩んでまいりましょう。

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