「私たちはそのことの証人です。」(使徒3:1-15)

Pastor Kitazawa

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➀私の担当している、第二週目の礼拝では、しばらくの間、新約聖書の「使徒の働き」という
個所から、神さまのメッセージを学んでゆきたいと思っています。

・「使徒の働き」というタイトルの付いたこの書は、ルカの福音書を記していった主イエスの弟子のルカによって書かれました。

・信仰的な言い方に変えますと・・「ルカという人物を通して、神さまが語ってゆかれた書」ということができます。

・そういうわけで、この書は、「ルカの福音書の続編」であるわけです。

・では、その内容は、どういうものであるのか、ですが・・

・この書は、主イエス・キリストが天にお帰りになられた後、聖霊なる神に満たされた弟子たちが、どのように生きて、どのようにしてキリスト教会を成立させて・・どのように世界宣教を始めていったのかについて書かれてある、そういう書です。

➁さてきょう、私たちが、その中で、光を当ててゆきたいと思っている個所は3章の所です。

・この時、イエスの弟子のペテロとヨハネは、午後3時の祈りの時間に神殿にやって来たのでした。

・この二人が「神殿の美しの門」と呼ばれている所までやってくると・・一人の男が、そこに座っていて・・通りかかりの人たちに声を掛けていました。 「どうか、施しを・・」

・この人は、生まれながら足が不自由で、人々からの施しを受けるために、毎日、この「美しの門」の所に置いてもらっていたのでした。

・ここを通ってゆく人々からもらう僅かな金銭・・それを集め、きょうの食べ物を得て・・きょうの寝床を確保して・・、そしてまた次の日も、誰かにこの同じ場所に運んでもらう・・彼はこういう毎日をおくっていたのです。 

・ある方は、「何となさけない生き方なのだ・・この人には、人としてのプライドはないのか・・」
 そんな風に思われるかもしれません。

・しかしこの時代、彼の様に身体に障がいがある人は、餓死せず、生き抜いてゆくことは・・現代の日本では想像できないほど厳しいものがあったのでした。

・基本的人権などというその考え方すらありませんでした。勿論、体の弱さのある方々への支援制度などありませんでした。
・支援どころか、あったのは彼らへの差別でした。障がい者への蔑視(べっし)でした。

・ですから、この人がこのような物乞いの生活を続けていることは、それは仕方のないこと、誰も責めることのできないことであったのです。

・しかし、どのような背景があるにせよ・・彼のように、人からもらう金銭だけを頼りにしている、このような生き方になってしまっているのは、本当に悲しい事でした。

・では・・神さまはそのような人生に陥っている一人一人を、そのままに放置しておられる方なのか・・と、いいますと・・決してそうではありません。

・きょうのこの聖書個所は・・何かしらの背景があるにしても・・結局、金銭に頼り、ただ漫然と日々をおくっていた一人の人間が・・思わぬ出会いによって、神さまの救いに与る者となり・・
 その人の人生を大きく変えることになっていった・・そういう出来事が記されている所です。

③この「思わぬ出会い」といいますのは・・それは、イエス・キリストの弟子のペテロとヨハネとの出会いでした。

・3節を見ますと、このように聖書は記しています。→「彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。」

・「美しの門」という名の付いたこの門の所に置かれていたこの人は、そこにたまたま通りかかった、ペテロとヨハネに、特別な期待感もなく、いつものように・・「施しを・・」と言うのでした。

・それは、誰かに真正面から向き合って施しを求めた、というような積極的なものではなく、いつもの決まり文句が彼の口から出た、その程度のことであったと思います。

・ところが、主イエスの弟子のペテロとヨハネの対応は、この人とは対照的でした。

・この二人は、この人を見つめてこう言うのでした。 → 「私たちを見なさい」

・主イエスと共に居た頃の弟子たちは、このようではありませんでした。

・以前、物乞いをしていた人を見かけたときです。弟子たちは、主イエスにこう尋ねたことがありました。「イエスさま。この男がこのようにここに座っているのは、この人が罪を犯したからですか・・それともほかに何か原因があるからですか・・」

・なんとも冷たく、そしてなんともまと外れの質問でしょうか。
当時の彼らは、人を、人として見つめてはいなかったのです。

・そうです。あの時の弟子たちは、まだ、人のあるべき姿、それは、神を愛し、隣人を自分と同じように愛することである、ということが理解されていませんでした。
 
・理解されていたとしても、そのことが己の血や肉にはなっていなかったのです。

・しかし、そんな弟子たちも・・その後、主イエス・キリストから、たくさんのことを学び、そして成長し、なによりも、聖霊に満たされつつ生きる者になったのでした。

・そういうわけで、この時、ペテロは、何のためらいもなくこう言うのでした。 
→「私たちを見なさい!」
 
・これにはこういう意味が込められていました。
「かつて私は、神なく、臨みなく漂っていた、そんな者でした。しかし、今は、このように希望に満ち、神さまに愛されていることを信じ・・神さまと、隣人を心から愛する、そのこと のために生きる者になりました。主イエス・キリストはこの私をこのようにいのちに溢れる者へと変えてくださったのです。 どうぞ、このようになった、この私をよく見てください・・。」
 

④さて、この「私たちを見なさい」という言葉を聞いたこの人は、どういう反応をしたのか、といいますと・・彼は、「このように自分に声をかけてくれる人たちなら、いくらかもらえるかもしれない」そう期待をして、ペテロとヨハネの顔を見上げました。

・するとペテロは、この人に、こう言うのでした。→:6「金銀は私にはない。 しかし、私にあるものをあげよう。」「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」

・そしてペテロは、この人の右の手を取って立たせます。 すると、どうでしょう・・彼の足とくるぶしが強くなって、この人は、何と、踊りあがって立ち上がり歩き出したのでした。

・そして、歩いたり、飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、弟子の二人と一緒に宮に入って行ったのでした。

○しかし考えてみると・・この人は、弟子の二人と一緒に神殿の中に入って行ったのですが・・
この時、他の行動をとる可能性もあったのではないでしょうか・・

・「うわあー足が治った!!‥そう叫んだ彼は、そこにあった、お金の入った入れ物を掴んだかと思うと、いきなり走り出した。

・どうやら、お世話になった人たちのいる所に走っていったようだ・・こんな可能性があったと思います。

・しかし、この人は、そのような行動はとりませんでした。  聖書は、こう伝えています。
・→「飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、この人は、二人と一緒に宮に入って行った。」
ここがすばらしいと思います。

・この人が、今まで、この神殿の門の所に来ていたのは・・只、人々から金銭をもらうこと、施しを受けるそのためでした。 彼は神殿の中に入って行ったことはなかったのです。

・いや、たとえ彼が神殿の中には入ってみたいと思ったとしても・・身体に障がいのある彼が神殿内に入ろうとしたとたん、多くの人々から彼は止められてしまったでしょう。

・ですから‥彼は、そもそも神殿に入れなかったし、だからと言って、彼は、「神殿に入って行きたい」という積極的な思いを強く持っていたというわけではなく・・ 結局、彼は神さまからの希望を与えられる、そのようなことはすっかりあきらめきっていたのです。

・いずれにせよ、この人は、神さまに近づきたいということよりも、人々を頼り、人々からの金銭を目的に、この美しの門の所に座っていただけだったのでした。

・しかし今、彼は、大喜びで・・堂々と、神さまに近づこうと・・ペテロとヨハネと一緒に、神殿の中に入って行ったのでした。

⑤ところで・・けちな私は、あることが気になります。
それは、彼が、せっかく集めた金銭、それはどうなったのか、ということです。

・彼は、ペテロに、「金銀は私にはない、あるものをあげよう、ナザレのイエス・キリスト名によって立ち上がり、歩きなさい」と言われて・・ペテロに右の手を握られて、立ち上がった・・するとたちまち足に力がみなぎって、彼は、何と・・踊りあがって歩き出した、と聖書は記しています・・。

・踊りあがって歩きだしたのですから・・おそらく彼が集めた金銭は、みんなこぼれてしまい・・どこかに行ってしまったに違いありません・・
 
・そうです。そんな金銭のことなど・・今や彼にとってどうでもいい事だったのです。

・彼は今、イエス・キリストの名によって立ち上がることができたのでした。 
そして、それは・・立ち上がることができたといっても、単に歩けるようになったということ以上の事でした。 主イエス・キリストの名によって、まことのいのちを賜ることのできた者として、立ち上がることができたのですから・・

・この喜びは、単に足が治って歩けるようになったという喜び以上の喜びであった、ということがわかります。それは、この時の彼の反応でわかります。

・彼は・・踊りあがって立ち・・、歩いたり、跳ねたりしながら・・神を賛美しながら、二人と一緒に宮に入って行ったのでした。

・もし、単に、足が直ったということで彼が喜んでいたのなら、跳ねたりしたら、また足が悪くなるかもしれないと思ったに違いありません。

・そうです。今や、彼にとって、この喜びは・・お金の事や、足のことなどをはるかに超えた、喜びであったのでした。

⑥最後に、聖書がここで、大事なことを伝えていることを見落さないようにしたいと思います。

・この人は、毎日のように、この「美しの門のところまで来ていた」のです。
これは現代で言うと・・「教会の建物の所までは来ていた」或いは、「教会のその集いの場には来ていた」という行為に似ています。

・教会という建物、あるいは教会の集会に出席する・・このことも素晴らしいことですが・・

・私はここから、このようなメッセージを感じ取るのです。

・美しの門の所で終わってしまわないで、この人は、もう一歩その先に入ってゆくことになった。
ペテロやヨハネと一緒になって前進していった・・それは、どんなに幸いなことなのだろうか・・

・私は、IBFの教会には、その幸いを知っておられる方がたくさんおられるそう感じています。。

・みんなで(チームで)、教会の活動を前進させておられる・・たくさんの方が、教会の活動を担っておられる・・神さまの側におられるペテロやヨハネと同じようだ。そう感じています。

・きょう私たちは、それまでは、自分は何もできない・・そうあきらめきっていた一人の人間が「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と聖霊に満たされたペテロに言われて、立ち上がり・・二人の弟子と一緒に宮に入って行った、その幸いな人の記事を読んでゆきました。

・私たちも、この人の様に、主イエス・キリストの名によって、さらに一歩前に前進して行く、そういう一人一人でありたいと思います。

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