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ダニエル書を前回から学びはじめましたが、この書には、救い主イエス・キリストの預言がいくつか出て参ります。その1つが、1つの石、人の手によらないで、山から切り出された石が、ローマの支配だけではなく、今までの国々の支配を全て滅ぼし、新たな国を起こすとの預言です(2章45節)。この石とは、メシヤのことです。メシヤであるイエスが生まれて、そしてこのメシヤを信じる者たちが、時代や国境を越えて世界に広がって行くのです。新たな国とは、天の御国であり、教会であると理解できます。そして、この解き明かしを聞いたネブカデネザル王は、ダニエルを高い位につけ、また彼の仲間たちにバビロン州の事務をつかさどらせたとあります。バビロンでダニエルも彼の仲間たちも高い地位を得たのです。このようなことを前回学びました。
ところが3章では、その彼らに対する迫害が起こったことが記録されています。特にダニエルの3人の仲間たちがバビロン州で地域の高官たちとの調整役をすることとなりますので、この3人をよく思えない者たちから悪意ある訴えが起こされます。それでは3章を見てみましょう。3章1節には、ネブカデネザル王は金の像を造ったとあります。その高さ約30メートル、そしてその幅約3メートルです。そしてバビロンに住む人たちにこの像を拝めと命じ、拝まない者は、火の燃える炉の中に投げ込むと言うのです。さぁ困りました。この3人のユダヤの若者にとって、この命令に背くと言う事は大きな困難が伴います。ところで、誠の神に仕えたいと願う彼らの信仰は、前回学んだダニエルの賛美と共通します。 2章20節からですが、神は季節や時を変える方です。また王を廃し、王を立てる方です。また闇の中に輝く光です。そしてこの神こそ礼拝の対象です。これらのことが表現されています。それゆえ、2章23節で、「私の先祖の神、私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。」とあります。このような信仰をダニエルの友人たちも持っていたのです。彼らは当然、誠の神以外への礼拝行為はしたくない、いやできないととらえたのです。ついにこの3人に対する訴えがなされます。3章8節で、「こういうことがあったその時、あるカルデア人たちが進み出て、ユダヤ人たちを訴えた。」とあります。彼らは王の建てた像を、この3人の若者たちが拝まないと訴えたのです。愚かなことです。自分が造った像を拝めと言う王も、私たちの時代から見れば愚かな独裁者です。そして、それを訴える者たち、3人の若者たちの才能をねたんだ高官たちも正常ではありません。
ダニエルの3人の友人たちは、王の前に自分たちの信仰を告白します。彼らの意見を見てみましょう。3章16,17節で、「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」と語ります。この若者たちの信仰は実に立派なものであると私は思います。しかし、同時に続いて、18節で、「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」とあるのです。もしそうでなくてもとは、神が私たちをお救いにならなくてもとの理解です。それは、神は私たちの命を握っている方で、私たちの命を取られるのが神のみこころであるなら、それに従いますとの信仰の告白です。もちろん聖書は神を試みていけないと教えていますので、私たちは意図的にそのような試みをしてはいけないのですが、そのような状況下に置かれた彼らの信仰告白に私は感銘を覚えます。ただどのような結末になろうとも、神のみこころに従います。そのような信仰の告白です。独裁者である、このネブカデネザル王は怒りに駆られて、炉を熱くしなさいと命じます。王は、彼らを縛り上げて、炉の中に放り込ませます。
大変な危機の中に彼らは入れられます。絶体絶命です。ところが、このダニエル書の中で、新たに救い主の助けが明らかにされるのです。炉の中に入れられたこの3人の若者たちのその先頭に立って救い主が彼らを救われたのです。まだ生まれていないメシアが、肉体をとって現れ、この3人の若者を救い出した。そのように理解することができると思います。さぁ、そこを読んでみます。
3章25節から、「それから、王は言った。だが、私には火の中をなわを解かれて歩いている4人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」とあるのです。異教徒であったこの王は、第四の者を神々の子のようだと表現しています。私たちクリスチャンにとっては、神の子キリストと理解できる表現です。そして助け出されたこの3人を見て、ネブカデネザル王は、新たな命令を下します。彼らの神を侮ってはいけない。このように救い出すことのできる神は、ほかにはいないからだと(29節)。そして、これらの3人をバビロン州で栄えさせた、とあります。これが3章の内容です。
今日は思いがけずに迫害と言うテーマを扱いました。私たちはキリスト教の歴史を振り返るときに、迫害に立ち向かう信仰者の姿に感動を覚えます。ローマ帝国においては、自らを神とするローマ皇帝によって、キリスト者への迫害が何度も起こりました。迫害され、殺された信仰者も多く起こりました。しかし、迫害時に多くのクリスチャンは地下に隠れ、迫害の嵐が収まるのを待ったのです。まるで地下都市のような空間を作り上げました。今でもその隠れた場所をいくつか見ることができます。特に私は、トルコのカッパドキアで、キリスト者への迫害が起こった時に、地下深く穴を掘って隠れていたそのような洞窟を見学しました。そして彼らの礼拝所も見学しました。人から見えないように2メートルくらいの高さに掘られた小さな礼拝所を見上げた時に、そこに集まり神への礼拝をささげ、互いに助け、互いに祈り、信仰を守り通したその信仰者の姿を覚えて涙を流しました。日本でも長崎には、日本二十六聖人の殉教の記念碑があります。殉教された26名の聖人たちの記念碑が立っています。その施設には、迫害の歴史を教える部屋もあり、島々に隠れて信仰を守り通そうとした隠れキリシタンの歴史も展示されています。今では、そのような島々に教会が立ち、世界から人々が訪れるようになっています。本当に厳しい選択を一人一人の信仰者が選んだのです。迫害の中で奇跡的に助けられた者、また命を落とした者、また隠れて信仰を守った者、それぞれです。私たちは誰1人、彼らの選択を裁く事はできません。ただそのような時代が日本に来ないようにと私たちは祈るだけです。同時に今の世界でも、信仰を持つことのゆえに迫害されている人たちがたくさんいることを覚えていきたいです。そして、キリストの助けがあるように、信仰者の互いの助けがあるように、私たちは祈っていきたいです。これら3人のダニエルの仲間たちは、特別なキリストの助けをいただいたのです。しかし、もしそうでなくてもとの同じ信仰を告白して、命を失った人たちもおられます。そのことを真摯に受け入れなければなりません。同時に、その迫害が教会を強くしたのです。特にあのローマでは、ローマ・カトリック教会の総本山があるところですが、それはペテロの殉教の業のゆえに、また、多くの名もない信仰者の尊い犠牲の上に教会が建て上げられたと理解できるのです。
試練や迫害に出会う時には、ダニエル書2章20と21節のみ言葉にもう一度目を止めてみましょう。「神の御名はとこしえからとこしえまで、ほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。」とあります。迫害や試練の中で慌てるのではなく、理性を保ちながら、神に目を向けて祈りを捧げる者でありたいです。静かに神からの知恵をいただきましょう。聖書の約束は変わりません。神は試練を私たちに与えられますが、私たちが負うことのできない試練は、与えられない。その約束を信じて、この新しい年を、力強く歩んで参りましょう。参照、第一コリント10:13。
最後に、明治から昭和にかけて生きた内村鑑三先生の墓に刻まれた墓誌を紹介します。
彼は教育勅語の書物の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、最敬礼をしなかったことを責められて東京大学の前身の学校を追われた方です。それが不敬事件とされ、日本中から非難を受けました。そして、この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村師は、『基督信徒の慰』、(Comfort for Christians)『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表しました。彼の墓碑には以下のように刻まれています。参照、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部掲載。
(私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そしてすべてが神のためにと。)”I for Japan, Japan for the World, The World for Christ, And All for God.” と英語で刻まれている。
最後に今の日本の総理大臣はクリスチャンであることと、
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