ニケア信条と三位一体(第2回):「父なる神」

(音声メッセージは第一礼拝後にアップする予定です。)

前回の説教では、ニケア信条がどのように書かれたのか、それをめぐってどんな論争があったのか、そしてなぜ今日(こんにち)でも大切なのかを紹介しました。また、この信条が私たちの信仰の最も大きな神秘の一つ――三位一体の神秘――を学ぶ助けになることも説明しました。

今日は、ニケア信条の最初の部分、つまり三位一体の第一位格である「父なる神」についてお話しします。その部分は、

「わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地の造り主、見えるものと見えないもののすべての造り主を信じます。」という、わずか一文です。

今日のメッセージで、次の3つの点についてお話します。

  1. 「唯一の神」とはどういう意味か
  2. 「全能の父」とはどういう意味か
  3. 「天と地の造り主」とはどういう意味か

それでは、まず祈りましょう。〔祈り〕

では先月と同じように、皆さんごお立ちいただいて、ともにニケア信条を唱えましょう。
英語の方はでどうぞ英語で唱えてください。

(会衆による信条朗読)

<唯一の神>

「わたしたちは唯一の神を信じます。」
この言葉は、古代ローマ帝国においては大胆で革命的な宣言でした。当時の人々は多くの神々や女神を礼拝していたからです。

ローマ人にとって、「神はひとりだけだ」と言うのは、高慢で、時には危険な発言に聞こえました。皇帝や、都市の守護神にお香を捧げることを拒めば、反逆者とみなされることもあったからです。そのため、初期のキリスト者たちは、唯一の神だけを信じ、他のすべての神々を拒んだために、「無神論者」と呼ばれることもありました。

私たちの「唯一の神」という考えは、ユダヤ教の信仰から直接来ているものです。ユダヤ人にとって、聖書の中で最も重要な箇所の一つが申命記6章4節です。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」

初期のキリスト者の多くはユダヤ人であり、イスラエルの神こそがイエス・キリストの父なる神であると信じていました。キリストを信じた彼らは、神は本当にただひとりであることを肯定しました。しかし同時に、彼らはイエスを神として礼拝し、更に聖霊の力を体験したことを伝えました。したがって、教会の初期からすでに、キリスト者たちは、神は常に一つの本質(ギリシャ語で ousia)にして三つの位格であると信じていたのです。

では、どのようにして神が「一つの本質」でありながら「三つの位格」であると言えるのでしょうか。神は「一つの“何”」——すなわち、一つの、神の本質を持つお方です。そしてその一つの神の本質の中に、「三つの“誰”」——父、子、聖霊が存在します。
たとえば、「ボブは何ですか?」と尋ねれば、「人間です」と答えるでしょう。「ボブは誰ですか?」と尋ねれば、「ボブです」と答えます。神の場合、「何か?」に対しては「神」であり、「誰か?」に対しては「父・子・聖霊」の三つなのです。これこそ神だけに当てはまる神秘なのです。

この概念を理解するのは難しいです。ですから、初期のキリスト教では、数世紀の間、神の本質を説明しようとする様々な理論が生まれ、それを信じるクリスチャンも出てきました。

その中で重要なものが「サベリウス主義」と「アリウス主義」という二つの考えです。

まず、「サベリウス主義」は「神はひとりの存在であり、父・子・聖霊という三つの異なる形で現れる」という考えです。たとえば水が、液体・氷・水蒸気という三つの形に変わるようなものです。

しかしこの考えの問題点は、聖書に見られる「父・子・聖霊の関係性」を説明できないことです。例えば、御子が父なる神に祈ったことや、父なる神が信じる者たちに聖霊を送ったことを説明できません。

次に「アリウス主義」ですが、これは、「父なる神だけが真の神であり、子と聖霊は父によって造られた下の存在である」と主張します。

しかし聖書では、御子であるイエスご自身が神だとされているので、アリウス主義はその点が問題です。

ニケア信条は、この二つの誤った教え(サベリウス主義とアリウス主義)を退け、正統的な三位一体とは何かについて、次のように表しています。

  1. 神はただひとりであり、三つの神がいるわけではない。
    (申命記6:4、イザヤ45:5、Ⅰコリント8:4–6)
  2. 父・子・聖霊はそれぞれ完全に神であり、同じ栄光を持つ。
    (父の神性:ピリピ1:2、ヨハネ1:1/御子の神性:ヨハネ20:28、コロサイ2:9/聖霊の神性:使徒5:3–4、Ⅱコリント3:17)
  3. 父は御子ではなく、御子は聖霊ではなく、聖霊は父ではない。
    (マタイ3:16–17、ヨハネ14:16–17、ヨハネ15:26)
  4. 彼らはひとりの神の三つの形ではなく、三つの独立した位格である。
    (ルカ3:21–22、ヨハネ14:26、ヨハネ17:1–5)
  5. しかし本質においては一体である。
    (ヨハネ10:30、ヨハネ14:9–10、Ⅱコリント13:14、エペソ4:4–6)

これこそが、聖書が明らかにしている神の姿です。理解するのは容易ではありません。だからこそ「神秘」と呼ばれます。しかし、私たちは三位一体についてできる限り学び続けるべきです。

今後、新約聖書を読むときには、その箇所が神の本質、すなわち父、御子、聖霊のどの側面について語っているのかについて、注意しながら読むとよいと思います。

<全能の父なる神>

では、「全能の父」という言葉に進みましょう。

聖書では、神を「父」と呼ぶことが多く、旧約聖書では約17回、新約聖書では250回以上も登場します。イエスはいつも神を父と呼び、弟子たちにも「天にいますわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と祈るよう教えました。

神を「父」と呼ぶことは、神が男性であるという意味ではありません。神は霊であり、人間の性別を超えた存在です。聖書には、イザヤ66章13節のように、神の愛を母親にたとえる表現もあります。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め…。」
しかし、イエスを通して神ご自身が「父」としてご自身を現されたこと、そして聖書が直接「母」とは呼んでいないことから、私たちは神を「父」と呼ぶのです。

神を「父」と呼ぶのは、性別を表すためでなく、万物の源であることを示しています。すべての創造の源であり、御子の源でもあります。ただし、それは父が御子を「創造した」という意味ではありません。父と子の関係は、太陽と太陽の光のような関係です。だからこそニケア信条では「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神、造られずに生まれ」と言っています。
人間は性的な生殖によって父や母になりますが、神は人間ではなく、同じような仕方で「生む」わけではありません。

御子の本質や、「父が子を生む」とはどういう意味かについては、また来月詳しくお話しします。
ここではただ、父なる神は、神の愛を結ぶ聖霊において永遠に御子を愛しておられると言っておきましょう。神の存在そのものが、結びつきに基づく愛なのです。私たちがキリストによって神の子どもとされるとき、神の中に常に存在している永遠の愛を受け取ります。

古代のユダヤ人は、神を民族の父としては認めていましたが、個人的に「父よ」と呼びかけることはありませんでした。しかしイエスは神を「アバ、父よ」と呼び、弟子たちにも同じように呼ぶよう教えました。「アバ、父よ」と呼ぶことは、親密さと従順の両方を意味します。

そして「全能の父」という表現は、父なる神は親しく愛してくださる方であると同時に、すべてを支配する王であり、私たちが畏敬の思いを持って接するべき方であることを示しています。「全能」を表すギリシャ語 pantokrator(パントクラトール)は「すべてを支配する者」という意味です。この言葉は、多くは新約聖書の黙示録に10回ほど出てきて、父、御子の両方を表しています。

まとめると、「全能の父」とは、すべてを治め、すべてのものがそのお方に、より頼んでいるということです。神は命と愛、そしてあらゆる良きものの究極の源なのです。

<天と地の造り主>

ニケア信条の次の部分は、「天と地と、見えるものと見えないもののすべての造り主」という言葉です。
パウロはコロサイ1章16節でこう書いています。
「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、まだ見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。」

神は、私たちが目に見える物質的な世界だけでなく、見えない霊的な領域も造られました。

昔から世界中の文化において、現実は目で見えるものだけではないと考えられてきました。日本人も多くの人が、自分は宗教的ではないと言うかもしれませんが、霊的な力に対する深い感覚が備わっていると思います。ですから安全や幸運、成功のために、お守りを持つ人が今でも多いのではないでしょうか。人生が不確かで、人間の力だけではどうにもならないと知っているからこそ、自分を超えた助けを求めるのです。

聖書もまた、神のみこころを行い、神の民を守る役目をもつ「天使」という霊的存在がいると教えています。さらに、堕落した天使――私たちが「悪霊」や「悪魔」と呼ぶ存在――が神に背き、人々を創造主から離れさせようと惑わすことも語っています。

しかしニケア信条を読むと、改めて気付かされることがあります。
それは悪魔や堕落した天使は、神と同じレベルの存在ではなということです。
闇の力は強く見えるかもしれませんが、その力は限られ、しかも一時的です。今は神の深い計画の中で、この世界での彼らの働きが許されているだけです。しかし、やがて神は、すべてのものをキリストの支配のもとに置き、神に敵対するあらゆる悪の力を完全に滅ぼされます。

だからこそ、私たちは平安と確信を持って生きることができます。
神は私たち一人ひとりを守ってくださる方であり、全宇宙を見守る「全能の父」だからです。

<適用:父なる神の恵みにあずかるために>

神を「父」として受け入れることが難しい人もいます。私自身を含め、多くの人が父親との良い関係を持てていません。私の父はよそよそしく、話をしても、悪気はなくても深く傷つく言葉を口にすることがあります。

第二子が生まれたとき、私は父がついに日本へ来てくれるのではないかと期待していました。父は10年以上、寝たきりだった母を看病していたので、その間は旅行どころではありませんでした。しかし、今は時間に余裕があるのにもかかわらず、「もう若くないから日本には行かない」と言いました。何度説得しても来る気はなく、「その代わりにお金を送る」と言うだけでした。

私は深く傷つきました。私が求めていたのはお金ではなく、父が私の人生や、私たちのつながりに関心を持ってくれることだったからです。その出来事があまりにも悲しく、私は長い間父と連絡を取るのをやめました。しかし最近、転機が訪れました。

ある説教を聞いたとき、「もし神以外のものに幸せの源を求めているなら、それは偶像礼拝です」という言葉がありました。その言葉が雷に打たれたように胸に響きました。まるで神が優しく問いかけているようでした。「あなたは、あなたのお父さんに、神であるわたしだけが完全に与えられるものを求めているのではないか?」

そこから、神が大きな愛をもって、すでに他の人々を通して、私に父の愛を与えてくださっていたことに気づき始めました。恵まれたことに、母教会には、温かい心遣いや助言、実際的な助けを与えてくれる霊的な父とも呼べる方々が何人もいました。その中の一人は、長年にわたり私のメンターでいてくれた人です。その方は、私が10代のときは水泳を教えてくれ、何時間も電話で話を聞いてくれました。こうした男性や女性たちを通して、私は天の父の温(ぬく)もりと慈しみを経験してきました。

兄弟姉妹、父なる神の子どもとして生きるためには、まず神の愛を受け入れ、その愛が豊かで十二分なものだと信頼する必要があります。神は人間関係によって受けた傷を癒すことがおできになります。他の人たちに腹が立つことはこれからもあるでしょう。しかし神の助けによって、私たちの心は自由と平安を見いだすことができます。友人たちが赤ちゃんを産んで、両親が海外から手伝いに来るのを見ると、父が一度も来てくれなかったことを思い出して、今でも深く悲しくなることがあります。しかしその痛みは以前よりも小さくなりました。そして私は、天の父がいつも共にいてくださることを知っています。

4世紀のアウグスティヌスはこう記しました。「主よ、あなたは私たちをあなたのために造られました。私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぐことがありません」。
すべて造られたものには「憩いの場所」があります。鳥には巣があり、狐には穴があり、海の生き物には深い海があります。では、人間の魂の憩いの場所はどこでしょうか。肉体的には地上が住まいですが、霊的には神こそが私たちの帰るべき場所です。父なる神の愛のうちに憩うとき、私たちの心は平和を得ます。

<結び>

ニケア信条の「わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地の造り主、見えるものと見えないもののすべての造り主を信じます。」という言葉は、とても短く見えるかもしれません。しかし、この一文の中には途方もない真理が詰まっています。
次の2回の説教でイエス・キリストと聖霊についてお話しますが、その前にまず父なる神がどのようなお方なのかを知らなければなりません。創造、救い、聖化(清いものとされていくこと)のすべての働きは、父なる神のあふれる愛から始まるのです。

この神が王でありながら、遠い存在ではないということを、ニケア信条は改めて私たちに教えてくれます。神の本質は愛です。そして愛があるところには、必ずつながりがあります。神は永遠の父として、聖霊のうちに、いつも御子を愛しておられるお方です。

神は孤独や退屈から世界をお造りになったのではなく、ご自身の命と愛の豊かさがあふれ出たゆえに、この世界をお造りになりました。私たちが造られたのは、その喜びにあずかり、その愛のうちに憩(いこ)い、立ち返るべき真の故郷を、神ご自身のうちに見いだすためなのです。

では、お祈りしましょう。

最も大きな愛に満ちておられる父なる神さま、
すべてのことについて感謝を捧げます。
どうか私たちが、あなたを失うこと以外は、何ものも恐れることがないように。
私たちを顧みてくださるあなたに
すべての思い煩いをゆだねることができますように。

信仰のない恐れや、この世の心配事から私たちをお守りください。
朽ちることのないあなたの愛の光が
この地上で覆いかぶさる人生の雲に

覆い隠されることがありませんように。
あなたはその愛を
御子イエス・キリストにおいて
明らかにしてくださいました。感謝いたします。

主イエス・キリストは、
聖霊の一致のうちに、
あなたとともに生き、統(す)べ治める
唯一の神であられます。
今も、そしてとこしえに。

イエスさまの御名によって祈りします。アーメン

 

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