(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
私の親友で、日本に住んでいるイギリス人の宣教師がいます。最近、彼はマレーシアを訪れる機会があり、そのある駅で、多くの観光客と同じ問題に直面しました。それは切符の自動販売機の故障です。時々、こうした機械はお金だけを飲み込んで、切符を出してくれないことがあります。
困っている彼の様子を見た、現地の親切な男性が声をかけてくれて、代わりに切符を買ってくれました。その男性は「お金は返さなくていいですよ」と言いましたが、続けてこう尋ねてきました。「あなたはクリスチャンですか?」
友人が「はい」と答えると、おそらくイスラム教信者だと思われるその男性はこう言いました。「どうして神が三人だと信じられるんですか。王様が三人いたら、いつも争いになるんじゃありませんか?」
残念なことに、不意を突かれた友人は、電車に急いで乗らなければならなかったこともあって、その質問に答えることができませんでした。
この話をするのは、私の直近2回の説教が、ニケア信条と三位一体についてだったからです。今日の説教はその続きで、三位一体の第二位格である「御子なる神」、イエス・キリストについてお話しします。
ニケア信条には、イエスのご人格について語られていることが非常に多いため、二回に分けることにしました。今日はその前半を、そして後半は1月にお話しします。
まずお祈りをして、その後ニケア信条を唱えましょう。
[祈り/信条唱和]
<歴史の振り返り>
最初の説教をお聞きになっていない方のために、簡単にこれまでの流れを振り返っておきます。
教会のごく初期の時代から、クリスチャンはイエスを神として礼拝してきました。イエスが神であることは、後になって作り出された教えではありません。イエスご自身が、非常にはっきりと、ご自分が神であると語っておられたのです。
キリスト教が誕生してから約300年後、アレクサンドリアのアリウスという司祭が、「イエスは真の神ではなく、父なる神によって特別に造られた方である」と教え始めました。一部の司教たちも、部分的にこの考えに同意し、「真の神」と呼べるのは父なる神だけであり、御子と聖霊はそれよりも低い存在の神的存在だと主張しました。
こうした教えが教会内に混乱をもたらしていたため、200人以上の司教たちが集まり、後に「ニケア公会議」と呼ばれる会議が開かれました。これは西暦325年のことです。長い議論の末、彼らは公式の信仰の告白としてニケア信条を書き上げました。明確で慎重な言葉を用いて、イエスが完全に、そして永遠に神であること――造られた存在ではなく、劣った存在でもないこと――を、すべてのクリスチャンが正しく理解できるようにしたのです。
それでは、パワーポイントのスライド2に戻りましょう。
<唯一の主、イエス・キリスト>
ニケア信条は、「私たちは唯一の主、イエス・キリストを信じます」という言葉で、イエスを表しています。クリスチャンは、最初の弟子たちの時代から、イエスを「主」また「神」と呼んできました。
三つの例を挙げてみましょう。
イエスが十字架にかかる前、弟子たちのリーダーであったペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。これはマタイによる福音書16章16節に記されており、イエスはこの称号を受け入れておられます。
また、復活後のイエスに出会った弟子トマスは、ヨハネによる福音書20章28節で、「私の主、私の神」とイエスを呼びました。
さらに使徒パウロは、第一コリント8章6節で、「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」と書いています。
なお、私が引用した聖書箇所を実際に確認したい方のために、この説教の原稿は、英語版・日本語版ともにIBFのホームページに掲載されています。そこに聖書箇所も記されています。
<造られずに生まれた、ひとり子>
次に、信条にはイエスについて、「神のひとり子、父より永遠に生まれた方」と書かれ、さらに後の箇所では「造られたのではなく、生まれた方」と記されています。
「神のひとり子」という表現は、ヨハネによる福音書1章14節および3章16節に由来しています。確かに、私たちは皆、神の子ども、息子や娘と呼ばれています。しかしイエスは、他の誰とも異なる仕方で、唯一無二の「神の子」です。私たちは被造物として造られ、父なる神の子として迎え入れられましたが、イエスはそうではありません。
イエスは、造られた存在ではありません。信条がイエスを「生まれた方」と表現するとき、ギリシア語の gennaō という言葉が使われています。この言葉には、「父と子が同じ本質を共有している」という意味合いがあります。
父親は、自分と同じ性質を持つ子を生みます。人間の父は人間の子を生み、猫の父は猫の子を生みます。同じように、イエスは父なる神と同じ神の本質を共有しておられるのです――もちろん、猫の本質ではなく。
<永遠に生まれた方>
さらに信条は、イエスが「すべての時に先立って、父より永遠に生まれた方」であると語っています。
この表現には、二つの意味があります。
第一に、イエスは、あらゆる被造物が造られる以前から存在していたということです。たとえば、第二テモテ1章9節は、イエスが「時の始まる前から」おられたことを示しています。また、ヨハネ1章1節では、「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」とあります。
第二に、イエスは父なる神から来られた方であるということです。以下は、イエスが父から来られたことを示す聖書箇所です。
ヨハネ5章26節:「それは父がご自身のうちに命を持っておられるように、子にも、自分のうちに命を持つようにしてくださったからです。」
ヨハネ1章14節:「ことば人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。それは、父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
ガラテヤ4章4~6節:「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
ここで疑問に思われるかもしれません。御子は父から「生まれた」のでしょうか。父の方が先に存在していたのでしょうか。実はイエスと父なる神の関係は、人間の父と子の関係とまったく同じではありません。「生まれた」「父」「子」といった言葉は、限られた人間の経験を用いて、神がどのようなお方かを示すための表現にすぎません。
人間の父と子が互いに愛し合うように、神の本質の中にも愛とつながりがあります。同時に、役割や秩序の違いもあります。御子を遣わすのは父であって、その逆ではありません。
結局、神の本質は神秘であり、私たちが完全に理解することはできません。しかし、聖書から確かに言えることがあります。
それは、
① 御子は永遠の存在であり、時と世界の創造が始まる前からおられたこと
② 御子は父と同じ神の本質を共有しておられること
③ 御子は父から来られた方であり、人として私たちのもとに遣わされた
ということです。
<神の神、光の光、まことの神のまことの神>
続いて、イエスは「神の神、光の光、まことの神のまことの神」
とも表現されています。
この一文も、これまで述べてきたことと同じ考えを表しています。すなわち、御子は父から来られた方であり、父と子は別の位格でありながら、同じ本質を共有しているということです。
「御子が父から来られた方である」という点について、神学者たちの中には、光のたとえを用いて説明する人もいます。御子が父から来られるのは、太陽から光や熱が放たれるのに似ている、というのです。
もちろん、これは完全なたとえではありません。なぜなら、イエスは光や熱のような非人格的な力ではないからです。
しかし、神を光になぞらえて表現すること自体は間違いではありません。実際、聖書は神を光として表現しています。たとえば、ヘブル1章3節には、こうあります。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみ言葉によって万物を保っておられます。」
(他にも、詩編27篇1節、ヨハネの手紙第一1章5節、ヨハネ8章12節、12章46節などが挙げられます。)
<父と同質である方>
それでは、次のスライドに進みましょう。
イエスは「父と同質である方」と表現されています。この表現は、ギリシア語の
homoousios――「同一の本質を持つ」という言葉に由来しています。
この homoousios という言葉自体は聖書には出てきません。また、ニケア公会議以前には、この言葉がさまざまな意味で使われ、時に混乱を招くこともありました。そのため、多くの司教たちは、この言葉を用いることに慎重でした。
それでは、なぜニケア公会議は、この言葉を信条に含めたのでしょうか。主な理由は、アリウスが homoousios という概念を受け入れなかったからです。この言葉は、御子が造られたものではないことを明確に示すからです。
homoousios は、御子が父に「似ている」存在や、「よく似た」存在なのではなく、父と同じ本質を持つ方であることを表しています。このことは、聖霊にも当てはまります。父・子・聖霊は三つの異なる位格でありながら、一つの本質を持つゆえに、唯一の神です。そして、御子と聖霊は、父と同じ礼拝を受けるにふさわしい方なのです。
これらの考えは、やはり聖書に基づいています。キリストが完全に神であることについて、コロサイ2章9節には
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が、形をとって宿っています。」とあります。
また、位格として区別されつつも唯一の神であることについて、ヘブル1章は次のように述べています。
5節:「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたのでしょう。『あなたはわたしの子。今日、わたしがあなたを生んだ』
6節:さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』」
8節:「御子については、こう言われます。『神よ、あなたの御座は、世々限りなく(続く)』」
そして最後に、黙示録5章では、「小羊」と呼ばれる御子が、父とともに礼拝を受けている姿が描かれています。
<万物は御子によって造られた>
今日、最後に見ていく信条の一文は、「すべてのものは、この方によって造られました」という言葉です。
新約聖書は、この考えを何度も繰り返し語っています。ヨハネ1章3節は、「すべてのものは、この方によって造られた」と言っています。また、ヘブル1章2節では、神が御子によって世界を造られたと記されています。さらに、パウロはコロサイ1章16節で、「万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです」と書いています。
この理解は、旧約聖書とも一致しています。創世記1章や詩編33篇では、神が言葉によって創造されたことが語られています。そしてイエスこそが、世界が存在するに至った、その言葉なのです。
まとめると、ニケア公会議は、これらすべての言葉を意図的に選び、イエスが造られたものではないこと、むしろ神と共同で世界をお造りになった方であり、完全かつ永遠の神であることを、はっきりと宣言したのです。
<適用:イエスの神性の重要性>
最後に、なぜこれらの信仰告白がニケア公会議にとってそれほど重要であったのか、そしてなぜ今日(こんにち)のすべてのクリスチャンにとって重要なのかをお話しして、締めくくりたいと思います。
それは、もしイエスが神でなければ、私たちは神に近づくことも、救いを得ることもできないからです。
第一に、イエスがまことに神であるからこそ、私たちは神に完全に近づくことができるのです。イエスは、単なる神の使者や代理人ではありません。
もし私たちが、ぜひ会いたい有名人に会えると期待していたのに、実際に会えたのが秘書や助手だけだったとしたら、がっかりするでしょう。サインをもらえたとしても、本人に会えたのとは全く違います。
弟子たちがイエスに出会ったとき、それは神ご自身に出会ったということでした。イエスの言葉は神の言葉であり、イエスの行いは神の行いです。イエスご自身が、ヨハネ14章9節でこう言われています。「わたしを見た者は、父を見たのです。」
今日、私たちがイエスの言葉を読むとき、私たちは神ご自身の声を聞いているのです。聖書を読むことによって、私たちは神と直接出会っています。もちろん、聖書を読むことだけが神と出会う唯一の方法ではありませんが、神を知るために欠かすことのできない方法です。
第二に、イエスがまことに神であるからこそ、私たちは救いのすべてをイエスに委ねることができるのです。すなわち、罪の赦し、私たちを変えてくださる聖霊の力、そして永遠の命の約束です。
もしイエスが単なる人間であったなら、世の罪を一度限りで贖うことも、私たちを父なる神と和解させることも、死に打ち勝つこともできなかったでしょう。
初代教会がキリストが神であることを守り抜いたのは、それなしにはキリスト教信仰そのものが成り立たないと知っていたからです。そのために彼らは信条を書き、教会はそれを唱え続け、今日(こんにち)に至るまで約1700年間、続けてきました。
アリウスは司祭だったこと思い出してください。彼は、神をより深く理解したいという思いから出発しながら、結果として重大な異端を教えることになってしまいました。そして今日(こんにち)でも、イエスを特別な存在とは認めながら、造られた存在にすぎないと考える人たちがいます。
たとえば、駅前で冊子を配っているエホバの証人の人たちです。彼らは、イエスを人となった大天使ミカエルにすぎないと考えています。もし彼らと話す機会があったなら、あなたはどのように、イエスが単なる天使ではなく、神ご自身であることを説明するでしょうか。
三位一体の信仰は、キリスト教にとって本質的に不可欠な概念で、しかも聖書にしっかりと根拠を持っています。今日の説教から、皆さんがそれを学び、改めて認識するきっかけとなれば幸いです。
今日は、イエスが完全に神であることを見てきました。次回の説教では、イエスが人でもあられることについて探っていきます。イエスは、私たちを救うために、ご自身がお造りになったものの中に入ってこられた神なのです。
それでは、祈りましょう。
全能の神よ、
あなたは、ひとり子をお与えになり、
清きおとめより、私たちと同じ人の性質を取らせ、生まれさせました。
どうか、恵みにより新しい命が与えられ、あなたの子とされた私たちが、
日ごとに聖霊によって新しくされますように。
父なる神、主なるキリスト、聖霊に、
今も、そしてとこしえに
栄光と誉れがありますように。
主イエスの御名によって祈ります。
アーメン



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