「贅沢な贈り物」(マルコ14章1‐25節)

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皆さんが今まででもらった、一番豪華な贈り物は何でしょうか。ちょっと思い出してみてください。それは誰からもらいましたか。そしてその贈り物をあなたはどうしましたか。
今日の聖書箇所は贅沢豪勢な贈り物についてです。それはイエスが受け取り、そしてイエスが私たちに与えてくれた贈り物です。マルコの福音書14章の前半を読みます。その箇所ではイエスが裏切られ、逮捕され、十字架につけられる直前の出来事が書かれています。まず、お祈りしましょう。

(マルコの福音書14章1節~25節を読む)

<イエスへの贅沢な贈り物>

今日の聖書箇所の最初に名もない一人の女性が高価な香油をイエスの頭に注ぐ場面が書かれています。その香油は非常に高価なものだったので、4節5節にあるように「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と責める人もいました。

マルコの福音書にはその女性の名前は書かれていませんが、ヨハネの福音書12章には同じような出来事が記されています。その女性はマルタとラザロの姉妹のマリアでした。彼らはイエスの親しい友人でした。これらが同じ出来事だったか、同じ女性だったかについは、はっきりとはわかっていません。

もしも同じ女性のマリアだったなら、こう考えられると思います。マリアは以前からイエスに従っていました。そしてある時、マリアはイエスの足元で熱心に話を聞いていました。イエスは、まもなく起こるご自分の死についての預言をして、マリアはそれを多分聞いていたのではないでしょうか。マリアはイエスの奇蹟をその目で見ていました。イエスはラザロを死から蘇らせたのです。おそらく、イエスこそ神がイスラエルの民に約束された救い主だと、マリアは信じていたのではないでしょうか。

救い主、メシアという言葉は「油を注がれた」という意味です。イスラエルでは、頭に油を注がれることは特別に重要な意味がありました。それは王に冠をかぶせる、戴冠の時に行われるものであり(Ⅰサムエル10:1、16:13)、また祭司が任じられる時に行われるものでした(出エジプト記29:7)香油を注ぐことで、マリアはシンプルにイエスへの愛と、イエスが死んでしまうことへの悲しみを表したのです。更にマリアは、イエスこそ救い主、約束のイスラエルの王であるという信仰を表したのかもしれません。王に贅沢な贈り物をすることは、ふさわしいことです。

しかしそれを見た人々の中には、マリアは物を大切にしない浪費家だと見る者もいました。ヨハネ12章には、特にイスカリオテのユダは、マリアのイエスへの捧げ方が度を超えていると感じ、共感しなかったことが書かれています。

ユダは表面的には悪い人間には見えませんでした。イエスが夕食の最後に弟子たちに「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります」と言った時、弟子たちはまさかそれがユダだとは思いませんでした。

対してマリアは、イエスこそ、私たちが全てを与えるのにふさわしい方だと理解していました。イエスに捧げるための、ふさわしい高価な物を持っていないとマリアは思ったのでしょう。マリアに対するイエスの言葉に私は励まされます。マルコ14章6節「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」

主のために何かする時に時間や労力、お金を無駄遣いしているのではないかと感じたことはありますか。第一コリント15章58節には、主のために捧げるものが何であろうと、「…いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」とあります。他の聖書では「主のためにあなたがした時間も労苦も無駄にはなりません」と書かれています。(ユージン・ピーターソン師 現代英語訳聖書「メッセージ」)

ですから、あなたの選択がばかげていると他の人に見えても、心配する必要はありません。主があなたのことを喜んでくださる、それが大事なのです。

<イエスからの高価な贈り物>

どんな贈り物も、イエスにお渡しするものだったら贅沢すぎる物はありません。何故なら、イエスは私たちが持っている物全てを捧げるのにふさわしい方だからです。イエスはご自分の物全てを私たちに与えてくださいました。だから、イエスは私たちが持っている全てを捧げるのにふさわしい方なのです。私たちの教会IBFでは、聖餐式を毎月行いますね。聖餐式で私たちは、イエスがご自身という高価な贈り物を私たちに与えてくださったことを思い起こします。

今日の聖書箇所の終わりの部分で、イエスと弟子との最後の食事の場面が書かれています。彼らは、イスラエルでとても大切な祭りである、過ぎ越しの祭りを祝っていました。食事の時に、イエスは、クリスチャンが今日(こんにち)も行っている慣習を執り行いました。それが「聖餐式」とか「主の晩餐」と言われているものです。

ここから聖餐式について話していきたいと思います。私たちが何故パンとぶどう酒を教会で共にいただくのか。何故パンなのか、何故ぶどう酒なのか。何故食べ物なのか。

まず、聖餐式の基本は、実は過ぎ越しの祭りの食事だということから説明します。

過ぎ越しの祭りは、紀元前13世紀頃、エジプトで奴隷だったイスラエル人が自由になったことを祝う祭りです。過ぎ越しの祭りの食事にはそれを象徴する食材を使います。例えば羊肉、イーストが入っていないパン、苦いハーブ、ぶどう酒といったものです。食事をもてなす人は皆、料理が全てイスラエルの歴史に因(ちな)んだものであることを説明します。(出エジプト12~13章)羊の肉は、エジプトで死の御使いから命を守るために、玄関扉に子羊の血を塗るよう、神がイスラエル人に命じたことから来ています。またイーストが入っていないパンは、イスラエル人が急いでエジプトを後にしたことに由来します。苦いハーブは、エジプトでの苦しい奴隷生活を思い出させるもので、また自由を祝うために飲むものが、ぶどう酒です。過去の思い出に加えて、未来の自由を願って、イスラエルの人々は過ぎ越しの祭りを祝います。(イザヤ52章)

イエスの最後の夕食で、イエスは食事をもてなす側でした。しかし、イスラエルの過去を弟子たちに、ただ思い起こさせるのではなくて、その食事を新しいレベルに引き上げました。
マルコ14章22節「…イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』」

イエスは、砕かれたパンはこれから十字架で裂かれるイエス自身の体であると言いました。
過ぎ越しの祭りで一番大事な料理である子羊について、この箇所には何も書かれていませんが、子羊はイエスを示していますね。その血潮によって多くの人々が死から救われるのです。
そして23節では「また(イエスは)杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。』」とあります。

この箇所の「契約の血」という言葉は、出エジプト24章で、イスラエル人がエジプトから逃れて来て、シナイ山で神と契約を交した場面で使われています。

古代の時代、契約は血で交わされることがありました。シナイ山のモーセの時代のように、血は契約書の下の署名のような意味がありました。(出エジプト記24章)

しかしそれは古い契約でした。後になって、神は民と新しい契約を交すことを約束されました。エレミヤ書31章31節~34節に、新しい契約の概要としてふさわしい内容が書かれています。新しい契約によって、神は人々の心の中に律法をおき、人々の罪を許すとの約束をしてくださいました。

新しい契約はイエスの血によって結ばれました。マルコ14章24節でイエスが言われたように、多くの人々のためにイエスの血が流されました。

イエスは続けて25節でこう言われます。「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日まで、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
ぶどう酒はイエスの死と犠牲を表すだけではなくて、イエスの復活と勝利も表しています。いつの日か未来の神の御国で、イエスは弟子たちと共に祝うのです。
そういうわけで、麺類とかポカリスエットとか、何か他の食べ物や飲み物で代用するのではなく、パンとぶどう酒をずっと使い続けているのです。

<何故聖餐式を行うのか?>

二千年もの間、教会ではコミュニティとしてパンを食べ、ぶどう酒を飲んできました。IBFでは、パンやぶどう酒に似ているクラッカーとぶどうジュースを使っています。しかし何故、聖餐式を行うのでしょうか。

その理由はたくさんあるのですが、今日は時間の都合で三つだけお話します。一つには、その食べ物によってイエスが犠牲になってくださったことを思い出すためです。二つ目は、その食べ物が、物理的に、そして霊的に私たちを養うものだからです。三つ目は、その食べ物によって、神の働きのために世界へ遣わされるためです。

一つ目の理由から説明します。マルコの福音書には何も書かれていませんが、ルカの福音書で、過ぎ越しの食事をする時にはいつもイエスを思い出すようにと、イエスは弟子たちに言いました。ルカ22章19節「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

私たちは物事を忘れやすいですね。霊的で目に見えないものをどうしたら物理的に思い出せるか、それをイエスはご存知だったのでしょう。イエスがどのように執り行うのかを明確に教えてくださったので、何世紀にもわたって、クリスチャンは聖餐式を行い、イエスが身代わりになって死んでくださったことを思い起こします。

イエスが払ってくださった犠牲を思うと、イエスこそ私たちが持っている全ての物を受けるにふさわしい方です。そのことをマルタの妹のマリアはとてもよく理解していました。
二番目の理由ですが、パンとぶどう酒は大切なことを物理的に思い起こさせるものであり、また体の栄養となるものですが、霊的にも私たちを養うものであるということです。
このことは今日(こんにち)、福音派の教会では強調されていません。しかし昔のプロテスタントの諸教派やローマカトリック教会では、聖餐式は霊的な効果があると信じられています。聖餐式(洗礼式も)を通して、イエスの御体(みからだ)や血潮によって贖われた私たちは霊的な恵みを受け取るのです。(Ⅰコリント10:16)

霊的な恵みとはエペソ書の1章にあるように、私たちが許され、罪から贖われ、神の子どもとされ、一つの家族とされたというようなことです。

洗礼や聖餐を通して、私たちはこれらの恵みを受け取ることができますが、それは水やパン、ぶどう酒自体に魔法の力があるからではありません。それは聖霊の力です。パンやぶどう酒そのものには力はありません。しかし神は、見つけやすく準備しやすい普通のものを、聖霊の働きの手段として選ばれました。

神学者はこの概念を「恵みの手段」と呼んでいます。パンとぶどう酒は物理的に私たちの体の栄養となり、そして聖餐式で、聖霊が恵みの手段となって、私たちに霊的な栄養を与えてくださるのです。
これについてバプティスト派の神学者リチャード・バルセロスは次のように述べています。「キリストの血潮と御体の恵みは(Ⅰコリント10:16)霊的な祝福であり、キリストの御霊(みたま)によって魂にもたらされる。(エペソ1:3)主の晩餐を通して、キリストとの交わりと、キリストの血潮と御体(みからだ)による恵みが与えられる。この交わりは、御霊によってもたらされる。御子のわざによって、御霊は御父(みちち)からの祝福を私たちにもたらしてくださる。主の晩餐が恵みの手段であるのはこういうことだ。主の晩餐はキリストによって制定され、キリストの御霊によって祝福され、巡礼者の魂を養うのだ。」

聖餐式によって、私たちはイエスのことを思い起こしますが、それ以外で、聖餐式から私たちは本当に何か影響を受けているんだろうかと思う人もいるかもしれません。

まあ目に見えなくて、私たちの五感では感じることができない物は未だにたくさん存在します。人間の心もそうですね。私たちの人生における聖霊の働きがゆっくりで静かでいるからといって、聖霊がいないということではありません。

また、聖餐式の霊的な恵みは正しい受け取り方をした時にだけ得られると思います。

使徒パウロは、第一コリント11章で、主の晩餐のことをたくさん書いています。29節から30節には「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」
つまり、食べ物が十分に新鮮な時は体の栄養になりますが、もし腐っていたら、私たちは病気になってしまいますよね。パウロが言っているのはこういうことです。

同じように、聖餐式は正しい条件のもとで行わなければなりません。パウロは二つの条件を挙げています。

第一に、第一コリント11章33節「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」、つまり一緒に食べなさいと教えています。

聖餐式は、個人的な一人の食事ではなく、共にする食事です。パウロは第一コリント10章16節で、パンとぶどう酒をいただくことをコイノニアと表現しています。コイノニアとは、ギリシャ語で「交わり」、「共有」,「グループとして参加する」という意味です。大事なのは、聖餐式は個人的な儀式ではないということです。私たちの信仰は個人のものではなくて、コミュニティとして物事を行うことが極めて重要なのです。

第二に28節にあるように、「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」というものです。

私たちの心の備えなしに、霊的な栄養は得られず、反対に霊的な病気にかかってしまうかもしれません。これにショックを受ける方もいるかもしれませんね。第一コリント11章を熟読し、皆さんの考えを聞かせてほしいです。

聖餐式を行う三つ目、最後の理由を述べていきます。ローマカトリックでは聖餐式はマス(Mass)と呼ばれます。この言葉はラテン語で「遣わされる」という意味のミサという言葉に由来します。聖餐式の最後で司祭は会衆に向けて、「行きなさい。あなたは遣わされます」を意味するIte missa estという言葉を言うのですが、これにも反映されていると思います。

これはまさに聖書的な真実です。私たちは御言葉や聖餐式によって養われ、神の働きをするために世に遣わされます。

私たちは、ただお腹を満たし、心満たされ、眠くなるために食べ物を食べるのではありません。私たちは働くことができるように食べます。住んでいる地域で、職場で、学校で、家庭で働きます。コンピューターのキーボードを打ったり、お客さんのために働くだけが仕事ではなくて、周りの方々に神の臨在を表すこと、それが私たちの仕事なのです。

まとめると、聖餐式でパンとぶどう酒をいただくのは、まず、私たちの主が捧げるにふさわしい方であることを思い起こすため、そして私たちの霊的な栄養のため、更に主のために遣わされるように、です。

<結び>

イギリスの牧師、説教者であるチャールズ・スポルジョン師は言いました。「私たちが最も天に近い瞬間は、主の晩餐を行っている時ではないだろうか。」と。

どうか私たちが聖餐式のパンとぶどう酒を通して、神に出会えるようにと祈ります。どうかそれがむなしい儀式ではなく、私たちが養われる時となるように。神が私たちに与えてくださった豪華な贈り物であることに気付けるように。私たちがそれを神にお返しし、他の人々にも分かち合えるように。イエスに高価な贈り物を捧げた女性のように、全てを注ぎ出すのにイエスこそふさわしいお方であると感じることができるように。イエスがまず私たちのために全てを注ぎ出し、捧げてくださったことを聖餐式の度に思い出すことができるように。

最後に祈りましょう。

全知全能の神様  あなたは御子を私たちのために与えてくださいました。御子は私たちの罪の身代わりになってくださったばかりでなく、神の生き方の模範も示してくださいました。どうか私たちが、その測り知れない恵みを感謝しつつ受け、その最も聖なる祝福された歩みをたどることができますように。神と聖霊と共に世々限りなくい生きておられ、治める主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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