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今日でダニエル書を取り上げて、6回目になります。皆さんにとって、どのようなみ言葉やストーリーが心に残っているでしょうか。前回も分かち合いましたが、私にとって特にダニエルの祈りの姿勢が心に残っています。6章10節の後半には、「彼は、いつものように、日に3度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」とあります。私も朝昼晩と短くても神に目を向けて、自分の願いと感謝を捧げよう、そうチャレンジされています。今回は、ダニエルの祈りを通して、救い主イエスの誕生の預言が与えられた箇所を選びました。私はダニエルの祈りの内容とその祈りの深さに驚かされます。そして、黙示文学の形を取って示されたイエスの誕生の預言とイエスの働きの内容に驚かされます。
今日はダニエル書の9章に入ります。前回は8章を取り上げましたが、その内容を簡単に振り返ってみます。8章では、反キリストが起こること、そしてその者は、神殿での礼拝を妨げようとすることが示されています。8章25節には、「彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶり、不意に多くの人を滅ぼし、君の君に向かって立ち上がる。しかし、人の手によらずに、彼は砕かれる。」とあります。聖所を汚す者、別の表現で、聖所を荒らす者(13節)は神によって裁かれるのです。礼拝が誠の神への礼拝ではなくなり、偶像礼拝に置き換えられることは、本当に悲しい出来事です。君の君(天の神)に向かって戦いを起こしたこの者を神は決してお赦しになりません。人の手によらずに、彼は砕かれると書かれています。歴史的には、アンティオコス・エピファネス王がシリヤから起こったことであろうと理解されます。彼はエルサレムを一時的に支配し、神の民を迫害しましたが、彼は神によって裁かれ命を落としたのです。
それでは、9章の中から、ダニエルの祈りを学んでまいりましょう。まず、ダニエルはエルサレムの荒廃の終わるまでが、70年であることをエレミヤの預言から学びます(2節)。荒廃の時期を確認したダニエルは、3節から、神に祈り始めます。「それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。」(口語訳)とあります。エルサレムが滅ぼされたのは、自分の先祖の罪、そして自分の罪であったとの理解に立った祈りです。4節から9節まで読んでみます。
「すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわち、ユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。」
彼の祈りは、ユダヤの民の一員として、民全体が罪を犯したことを認めています。預言者たちが語った言葉に従わなかったことを悔いています。正義は神にあること、恥はわれわれのものであることを告白しています。そして、あわれみとゆるしはわれわれの神、主のものであることを認めているのです。なんという豊な祈りでしょう。自分の先祖が悪い、他者が悪いとの祈りではないのです。
ダニエルは続いて、エルサレムが滅ぼされたのは、モーセの律法に聞き従わなかったからであると告白しています(11節)。このエルサレムの崩壊は、主の恵みを求めることを忘れた民への神の裁きであったのです(13節)。そして、新たな祈りをいたします。16節には、「主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。」とあります。続く17節で、「それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かしてください。」と祈るのです。
あなたの聖所にあなたのみ顔を輝かせてください。実に的を得た、本質を理解した祈りです。聖所が神の宮となり、礼拝が回復していく、そのことを求めるのです。この礼拝の回復を求めた祈りに神はお答えになります。この祈りへの神の答えは、イエス・キリストの誕生の約束であり、イエス・キリストの働き(属性)の啓示なのです。
その神の応答は、天使ガブリエルによってもたらされます。ガブリエルは、あなたは愛されている存在ですよと、まず告げます。そして、語られた啓示は、70週の幻です。24節には、「あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。」とあります。
黙示文学では、7と10は完全数で、70は完全数のかけ合わせた数字です。ですから、神が良とした時、神の定められた時にこの幻が実現する、そう理解することができます。その内容は、イエス・キリストが生まれ、十字架の贖いによって、人類の罪が贖われ、また罪に終わりが告げられることです。不義(咎)が贖われ、永遠の義がもたらされる。それはまさに十字架での罪の贖いの完全性を示すものです。そして新な時代が起こります。イエスは、油注がれた者として、エルサレムで神の義をもたらすのです。それに幻と預言者を封じ(別訳、確証し)とありますから、預言が成就し、旧約時代が終わり、新約の時代が始まることへの言及であると理解できます。ダニエル書には、今まで学んだように、ローマの時代に人の手によらずに、切り出された一つの石によって、新たな国が起こるとの預言が書かれていましたが(2:45)、ガブリエルは、この70週の幻を通して、私たちの救い主、イエス・キリストの働きを明白に啓示しているのです。
続く25節には、「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。」とあります。ここに一つのヒントが隠されています。
七週と六十二週を加えると69週になり、483日になります。1日を1年として解釈すると、483年になります。エルサレムを建て直せという命令が出てからとは、それがエズラ記の言及(エズラ7:11-26)であると理解するなら、紀元前457年になり、それに483年を加えると紀元26年になり、イエスの公の働きが始まった年であろうと理解されます。このようにダニエルの70週と69週の預言を黙示文学の特色を加えて解釈することもできます。ネットではいろいろな解釈や意見が出ていますので参照されたら良いと思います。しかし、黙示は、その時まで真理を隠しているとの理解で読むべきです。その時にならなければ分からないことが多いのです。
「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。」と26節にあります。メシヤは断たれるとは、メシヤの十字架の出来事の預言であると理解できます。きたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすとは、紀元70年に起こるエルサレムの崩壊の預言がなされていると理解できます。
私はこれ以上の解釈はやめようと思います。何よりもダニエルの祈りを通して、救い主の誕生と救い主の働きが預言されている、それで十分であると信じるからです。イエス・キリストをあなたの救い主と信じる、そしてイエスにあなたの人生をおゆだねし、イエスと一緒に生きようとすることこそが大切だからです。イエスは人類の罪を贖い、また私たちの罪を終わらせ、私たちの人生を義と認めておられます。私はイエスを信じる信仰によって義とされています。そう、告白して、日々を生きようではありませんか。神の前に義とされている、その喜びを持って生きてまいりましょう。
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