「彼女を買い取った。」ホセア書3:2

Pastor Ino

↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
【iPhoneで聞けない方はiOSのアップデートをして下さい】

前回はホセア書2章19節の言葉を取り上げました。そこには、「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。」とあります。私は、聖餐式もこの御言葉の成就の現れであることに言及しました。恵みとあわれみを持って、私たちは新たな契約のもとに、イエス・キリストの十字架の恵みの中に生かされています。そして、もう一度イエスが戻って来られるまで、教会は聖餐式を守り、十字架の恵みを覚えて、神に感謝を捧げ続けるのです。
さらに私は、キリストの十字架での贖いの働きは、自然界の回復にも及んでいくことにも言及しました。2章21節には、「わたしは天に答え、天は地に答える。」と書かれています。十字架の贖いの業は、自然界の回復にも関連しています。私たちは、神から自然界を治め、管理していく使命が与えられています。教会の中だけでなく、このキリストからの使命をいただいて、この社会で実りある人生を生きたいと心から願います。

さて、今日はホセア書3章2節の御言葉を取り上げます。この箇所のテーマは神の贖いの業です。そこには、「そこで、私は銀15シェケルと大麦1ホメル半で彼女を買い取った。」と書かれています。偶像に心を奪われ、バアルに跪くことで、不品行な者となり、実に堕落をしてしまった北イスラエルの民を神は買い取り、贖うのです。銀15シュケルとありますが、この値段は奴隷1人の半分の値段でしかありません。参照、出エジプト21章32節。それほどまでに堕落をしてしまい、価値を失った北イスラエルの民を神は買い取ってくださるのです。そして、愛を持って自分の近くに留めようとされるのです。ところで、私たちも神によって買い取られた者たちです。代価を払って私たちは買い取られたのです。キリストはその命を十字架の上で捧げ、その尊い命の代価で、私たちを買い取ってくださったのです。そのことを決して忘れてはいけないと思うのです。

それでは、3章1節から、詳しく見てみます。「主は私に仰せられた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。』」とあります。真の神に愛されていながら、金の子牛を礼拝する北イスラエルの民を、そしてそれだけではなく、バアルを礼拝する民を、神は愛しておられることをホセアに語られます。このバアル礼拝には、神殿で儀式的な売春行為を伴うような、私たちには信じられないような礼拝行為が含まれていたのです。それらを夫に愛されていながら姦通している女と、ここでは表現しています。そして、干しぶどうの菓子とありますが、これは小麦粉に干しぶどうを入れて作った菓子のことで、秋の収穫感謝祭の時に、バアルに捧げる捧げ物の一つです。しかし、不品行に陥り、心をバアルに奪われているこのような民であっても、神はホセアに、私はそのような民を愛していることを伝えます。そしてあなたも、そのような女を愛せよと命じるのです。ここでの「夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ、」との言葉は、神の無条件の愛を表現しています。北イスラエルの民を神は愛しておられるのです。ホセアは神の命令に従って、自分の妻を愛そうとします。もう一度、ゴメルを妻として買い取り、連れ戻したのです。そして3節に、「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」とあります。彼は、私のところにとどまりなさい、そして、バアルの礼拝を止めて、不品行な礼拝行為をやめなさいと彼女に語りかけます。

4節には、「それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ。」とあります。イスラエルの民は、これまで頼ってきたものを取り上げられ、主にのみ頼って生きるように訓練されるのです。この事は、北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、民の多くがアッシリアに捕囚とされるその時に起こります。彼らは、自分たちの王や、リーダーを失い、他民族の支配に委ねられるのです。そして、自分たちの礼拝や、偶像の神殿を失うのです。バアルの礼拝からも解放されます。さらに、エポデも、テラフィムもなく過ごすとあります。エポデとは祭司の衣服のことで、またセラフィムとは家庭に置かれた守護神のことです。もう一度これらの助けを失い、主に助けを求めるようになるのです。彼らは、そのことを通して、もう一度自分たちのアイデンティティを確認する、その時が来るとの預言です。

そして5節には、「その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら、主とその恵みに来よう。」とあります。このみ言葉も、イスラエルの民が捕囚から解放される時、また救い主イエスがイスラエルで公の働きをなさる時、そして3番目に、救い主がいつか戻ってこられる時に成就する御言葉であると理解できます。もう一度、彼らは自分たちのアイデンティティを回復し、聖なる国民、祭司の王国としての生き方を尋ね求めるのです。ここでは、彼らの王ダビデを尋ね求めとありますが、ダビデの子孫として生まれる救い主、イエス・キリストを尋ね求め、この大きなキリストの愛のもとに、彼らが導かれていく、そのような時が来るとの預言の言葉であると理解できます。イスラエルの民はもう一度、聖なる国民、祭司の王国として、キリストの恵みの中に、また新たな契約の中に生かされる時が来るとの大きな視点を私たちに教えています。

さぁ、皆さん、私たちは今イエス・キリストを信じています。私たちの罪の赦しをキリストは与えてくださり、その十字架によって私たちを買い取ってくださったのです。ところが、私たちの人生も、時には神の恵みを忘れて、羊のようにさまようこともあります。そして、自分の存在意義を忘れ、希望のない人生を生きることもあると思うのです。ちょうどそれは北イスラエルの民がアッシリアによって捕囚とされた時のようです。希望を失い、神との交わりも無くなり、信頼するものを失ってしまった。あなたもそのような時もあったのではないでしょうか。でも、そのような民を愛される父なる神がおられるのです。そして、もう私のところにとどまって、虚しい生活に戻ってはいけないよと語りかける神がおられる。そのことに気づいていきたいと願います。私たちを愛し、命を捧げ、私たちを買い取ってくださったキリストがおられるのですから。回復の時は誰にでも、いつか、訪れるのです。

すでに学びましたが、2章23節には、「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたは私の民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」とありました。ホセアの3人のお子さんの名によって示された審判が終わり、神の赦しのゆえに、神とイスラエルの契約関係が回復する新たな時代が来るのです。「『あなたは私の神』と言おう。」との約束がいつかイスラエルの民に実現するのです。

先週、私は何人かの方と共に赤城で開催されたCRCキャンプに参加しました。そこでのテーマは、「神の愛を体で受け取り、互いに愛し合う傾聴の力を育てよう」でした。そして互いに足を洗い合う体験をしました。互いに足を洗いながら、キリストが私たちの足を洗ってくださった、その愛の深さを皆さんで体験し、分かち合いました。救い主であるキリストが、弟子の足を洗ってくださったのです。同様に、皆さんも本当に神に愛されているのです。そのキリストを私たちの救い主と信じて、終末が近づいている今、ますます、おののきながら、主とその恵みに近づいて生きていこうではありませんか。

最後に、第一コリント6章17節から20節の言葉を読んでみます。
「しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。 不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」
(口語訳)

(上のバーから聞けない方は青いボタンから)
iPhone

タイトルとURLをコピーしました