(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
①先程読んでいただいた聖書箇所は、昔から、「神さまを信じるとはどういうことなのか」
そのことが教えられている箇所として有名な聖書個所です。
・そういうわけで、きょう私たちもこの個所から、「神さまを信じるとはどういうことなのか」
そのことを学んでゆきたいと思います。
②さて、先ず、「信じる」という言葉について整理したいことがあります。
・日頃、私たちはこの「信じる」という言葉をよく使います。
また、聖書中にもあらゆる個所で何回も使われています。
・しかしどうでしょう・・。この「信じる」というこの言葉は、心の中を表すことばですので、その言葉を使うその人によって、またその場面によって、ずいぶんと違った意味で使われている・・そういう言葉の一つではないでしょうか・・。
・本当はここで、幾つかの事例をとりあげて、この言葉の使い方の違いについて考えてゆくといいのですが・・それでは時間がかかり過ぎます。
・ですから、ここは先ず、その意味の違いを大きく二つに分けて・・その後に、聖書に語られている、また聖書の求めている、信じるとはどういうことについて考えてゆきたいと思います。
・「私は信じます」と言った場合の、第一の使い方は、「自分の中で、こうだ、と思い込むこと」そのこのことを、表している場合があります。
・例えば・・「私は、トランプこそがアメリカを偉大な国にする。そう信じている。」そういう方がおられるとします。これなどはその典型的な用法だと思います・・
・この場合の「信じる」といいますのは、<自分の中で、強くそう思い込んでいる>という意味で「私は信じています」と言っておられる訳です。
・勿論、このように、「思い込むということ」と・・聖書で「信じる」と言っている事とは別のことである、ということは・・教会の皆さんは感じ取っておられると思います。
・しかし、残念なことに、世間では、神さまを信じるということもこれと同じなのでhないか、そう思っている方が多いようい感じます。つまり、「キリスト者は、神がいる、と思い込こんでいる」そういう残念な理解です。 怖い、勘違いと言ったらいいでしょうか・・
③さて、もう一つの「信じる」という意味ですが・・これは「深く信頼する」という意味で使われる場合です。
・たとえば・・「信じていた友人に、裏切られた。」などと言う言い方がおられたとします。
・このような場合は、「友人を深く信頼していたのに、ひどいことを自分にしてきた」
そういう時に使われる言い方です。
・この場合、信じるとは、「深く信頼する。あるいは深く信頼していた」という意味として使われているわけです。
・そうです。聖書で、神さまを信じるといいますときには・・この・・「深く信頼している・・」という意味で使われていることがほとんどです。
・しかし、これだけの説明ですと・・何か、聖書で、「神を信じる」という意味の核心までにはまだまだ到達していない。そう感じます。
④そこで、きょうの聖書箇所の学びになるのですが・・
・ここにでてくる、百人隊長は・・その、「信じるということの本当の意味を私たちに教えてくれた人物である」私はそう思います。
・正確には、「この人物を通して、主イエス・キリストが神を信じるとはどういうことなのかについて私たちに教えておられる」このように言い代えた方がいいかもしれません。。
・では先ず、この百人隊長という人がどういう人物であったのか、このことから考えてみたいと思います。
・7:1を見ますと、「イエスは。耳を傾けている民衆にこれらのことばをみな話し終えられると、カペナウムに入られた。」とあります。
つまりこの出来事はカペナウムという町で起こったということがわかります。
・当時カペナウムのその領主は、ヘロデ・アンティパスでした。 ですから、この百人隊長は、このヘロデ・アンティパスに雇われていた隊長であったと思われます。
・ですから、この人は、ユダヤ人ではなかったのです。また、この人はローマ人でもなかったと思います。 ローマ人が、ユダヤ人のヘロデ・アンテパスに雇われ兵として働くことは考えられないからです・・。
・ですから、この人は、ユダヤ人からすれば、異邦人、つまりどこからかやってきた外国人であったのだと推測できます。
・また、3節を見ると・・この百人隊長は、「ユダヤ人の長老たちを送って」とありますから・・この人は、どうやら、ユダヤ人たちに大変尊敬されていたようです。
・これは珍しいことです。当時のユダヤ人の多くは、自分たち以外の外国人を、異邦人と呼びどこか下に見ている・・いや、完全に下に見ている・そういうことが普通であったからです。
・また、この百人隊長は・・この後の記事から、ユダヤ人の為に、会堂を建ててあげたことがわかります。 建設費の全額を彼が出したのか、それはわかりませんが、少なくとも、彼がいたのでその会堂が建ったことは間違いありません。
・ではこの百人隊長は金も力もあった、だからユダヤ人の長老たちが、彼を尊敬していたのかというと・・そのようなことは無いと思われます。
誇り高いユダヤ人たち心は、そんなことで人を尊敬する人たちではないからです・・。
・つまりこの百人隊長が尊敬されていたのは、この人の人柄故であったに違いありません。
・この百人隊長が、多くの人から尊敬されていた優れた人格者であったことは・・次のことでもわかります・・。
・この百人隊長には、僕(しもべ)がいました。僕といいますのは・・奴隷のことです。現代的にいえば、雇人と言ったらよいでしょう。
・この時に、その僕の中でも最も頼りにしていた僕が病気にかかり、死にかけていた・・。そこで、彼はイエスさまに使いを送ったのでした・・。
・そうです。この隊長が、イエス様の所に長老たちを送り、熱心に、来てくださるようにお願いしたのは、自分の為ではなかったのです。彼の所にいた一人の奴隷の為だったのです。
⑤3節を見ますと・・「しもべを助けにきてくださるように」と書かれてあります。
このことを、アラム語では、「マラナ・タ」と言います。
・「マラナ・タ」と聞くと、多くの方があの有名な讃美歌を思い出す方がおられると思います。
・このとき、百人隊長の使いでやって来たユダヤ人の長老たちも、この百人隊長の願いを聞き留めてくださるようにと、彼らは彼ららしく、ユダヤ人の長老らしい言い方で一生懸命頼むのでした。
・これを受け、主イエスは、この長老たちと一緒に、この百人隊長の家に向かいます。
・ところがです。彼ら一行がその家に近づいたときに・・今度は、その百人隊長の友人たちがこの一行の所にやってきてこう言うのでした。→「わざわざおいでくださいませんように。」
・ある方はこう思うかもしれません。「なんだこの人は、いったいどっちなんだ。来てくださいと言っておきながら、彼の家に近づくと、今度はおいで下さいませんようにと言わせている。いったいどっちなんだ。イエスさまに来てほしいのか来てほしくないのか・・」
・そうです。一見この百人隊長の言っていることは矛盾しているように感じます。
しかし、これは、全然、矛盾ではなかったのでした。
○そういえば、漁師をしていたペテロが初めてイエスさまにお会いしたとき・・・あのときもそうでした。 あの時、ペテロは、「このような汚れた者に近づかないでください」と言った後に、なんと彼はそのイエスさまについていったのでした・・・。
・どっちなんだ。イエスさまに近づきたかったのか、それとも離れたかったのか・・そんな風に思いそうになります。これこそペテロの誠実さ、純真さが証されている‥私はそう思います。
・このペテロの場合も、この百人隊長の場合も・・同じです。
・彼らは、一点の曇りもない、神の御ひとり子である、主イエス・キリストと向き合う時に・・自分の罪深さ、自分の汚れを思わずにはいられなかったのでした。
・イエスさまに直接お会いするなんて、とんでもない。私はそのような資格はまったくない者なのですから・・」彼はそう思ったのでした。
・それにしても、普通の人なら、何という失礼な男なのだ」と思うところです・・
しかし意外にも、イエスさまはこうおっしゃったのでした。
→:9「あなたがたに言いますが・・このような立派な信仰はイスラエルの中にも、見たことがありません。」
⑥いったいこの百人隊長のどこがそんなに立派な信仰だというのでしょうか・・・。
・7節の所でこ百人隊長はこう言っています。
「お言葉をいただかせてください。そうすれば、私の僕は、必ずいやされます。」
・そうです。彼は、イエスさまのおことばだけを求めたのでした。お言葉があれば、それで十分。 彼はそう考えていたのです。
・当時の信仰者たちは、病気の者が癒されるためには、薬も必要、治療費も必要、また人々の励ましも必要、それから長老の祈りの支援も必要そのように考えていたと想像できます。
しかし彼はそういう風には考えていなかったのでした。 彼は「救い主であるイエスさまのお言葉」それこそが決定的なことだとそう思っていたのです。
・なぜ、彼がそういう風に考えているのかについて、彼自身がここで説明しています。
8節 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに「行け」と言えばゆきますし、別の者に「来い」と言えば来ます。また、しもべに「これをせよ」と言えば、そのとおりにいたします。
・つまりこの人は、「主イエス・キリストの権威の下にいるということは決定的な事なのです。」
そう言っているわけです。
・この彼の言葉を聞いた時、イエスさまはとても驚かれたのでした。
そしてあの発言が飛び出したのでした。→「あなたがたに言いますが、このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。・・」
⑦この百人隊長の言っている、神さまの偉大な権威、この権威から来る愛によって、私たち一人一人は愛されている、これが聖書の中心的メッセージなのですね。
・「わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右手で、あなたを守る。」とイザヤ41:10にはっきり書いてあります。
・そうです。私たちは、このように語っておられる、その神さまに愛されていることを信じている一人一人なのです。
・今朝、そのことをもう一度心に深く刻みたいと思います・・。