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今日はホセア書6章に入ります。今日のテーマは、主に立ち返って生きることです。人生を失敗したままで生きることは空しいです。しかし、主に立ち返り、そして、豊かな実を結ぶ人生があるのです。そのことを学んでいきたいです。まず、6章1節から3節までを読んでみます。「さぁ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は2日の後、私たちを生き返らせ、3日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は、暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」今日は、この箇所を取り上げます。本当に美しい神の招きが描かれています。それでは、これらの文章の動詞を選んで、もう一度読んでみます。
主に立ち返ろう。主は包んでくださる。主は、私たちを生き返らせ、私たちを立ち上がらせる。私たちは御前に生きるのだ。私たちは知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は確かに現れ、私たちのところに来てくださり、後の雨のように、地を潤される。なんと肯定的で豊かで、愛に満ちた表現かなと、私は感動を覚えて読みます。私たちの神は私たちを癒し、包んでくださるお方です。私たちの人生に豊かな実りを与えてくださる方です。そのような思いが生き生きと伝わってきます。この箇所も神の無条件の愛を教えています。そして、その愛で神は私たちを招いておられるのです。
この呼びかけの前に北イスラエルの現状とその過ちを、4章と5章でホセアは生き生きと指摘しています。それではそれらをいくつか見てみましょう。4章1節の後半には、「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。」とあります。2節には、「ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。」とあります。北イスラエルの民は、真の神から離れて、子牛の偶像を拝み、バアルの偶像を礼拝する、そのような民に堕落をしてしまったのです。その結果混乱が社会を覆っています。その混乱の大きな原因は何でしょう。それは、祭司が神のみこころを教えることができなくなったからです。4節には、「だれもとがめてはならない。だれも責めてはならない。しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる。」とあります。5節にはあなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。」とあります。一般の民の中から勝手に祭司が選ばれ、北イスラエルでは神の律法が教えられなくなったのです。参照第一列王記12:31。そこに大きな混乱が生じてきたのです。聖書を信じない祭司たち、またバアルを礼拝する預言者たちが民を堕落に導いてしまったのです。そのことをホセアは最初に指摘します。これらの祭司の目的は、神に仕えることではなく、自らの利益のために生き、お金に仕えることであったのです(8節)。6節には、「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」とあります。民が混乱に陥っています。また5節の後半には、「わたしはあなたの母を滅ぼす。」とあります。あなたの母とは北イスラエルの国を指しています。民も国も滅んで行くのです。実はそれはアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされ、民が捕囚とされることを預言しています。9節には、「だから、民も祭司も同じようになる。わたしはその行いに報い、そのわざの仕返しをする。」とあります。アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされること、そして民は捕囚とされること、これらは神の刑罰です。わたしはその行いに報い、そのわざの仕返しをするとは、彼らの滅びの預言です。本当に残念です。
11節では、「ぶどう酒と新しいぶどう酒は思慮を失わせる。」とあります。これは、偶像の祭儀の中で飲むぶどう酒を指しています。そのぶどう酒は彼らの思いを鈍らせます。そして12節の前半には、「わたしの民は木に伺いを立て、その枝は彼らに事を告げる。」とあります。木や枝は偶像を指しています。その偶像に人生を支配されている民や祭司の姿が鮮明に描かれています。神の律法を教えることのできない祭司と、偶像により頼んで生きようとする民衆の姿が描かれています。14節の後半には、「悟りのない民は踏みつけられる。」とあります。民も祭司も神の教えから離れてしまい、偶像に跪いている、そのような状況が明らかにされています。そんな中でもホセアは、15節で、ユダに罪を犯させてはならないとの警告をします。「イスラエルよ。あなたは姦淫をしても、ユダに罪を犯さしてはならない。」とあるからです。そして「ギルガルに行ってはならない。ベテ・アベンに上ってはならない。『主は生きておられる。』と言って誓ってはならない。」と続いています。ギルガルやベテ・アベンは、南ユダ国の国境近くにあった北イスラエルの町の名前です。ユダの民はかろうじて主への信仰を守り通しています。そのために彼らに近づいて、彼らを堕落の道に誘ってはならないと命じているのです。ユダの民を愛するがゆえの警告です。
5章では神に帰ろうとしないイスラエルの姿が明らかにされています。5章4節には、「彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。」とあります。そして6節では、どんなに熱心になっていけにえをささげても、主を見つけることはないとあり、「主は彼らを離れ去ったのだ。」とあります。そして、5章13節には、「エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリアに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。」とあります。北イスラエルの民はアッシリアに和睦を求めますが、逆にアッシリアによって滅ぼされると言う悲しい現実に直面するのです。そして14節の後半には、「だれも助け出す者はいない。」とあります。北イスラエルはアッシリアとの和平を求めますが、彼らは神に見捨てられ、孤立し、捕囚とされて行く、そのような厳しい裁きの現実が預言されています。
15節には、「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。」とあります。私のところに戻っていようとは、神は天の御住まいに戻られることを意味します。しかし、北イスラエルの民は一度神の臨在を失い、アッシリアに捕囚とされて、その後にもう一度自分たちのアイデンティティーを求め始めるのです。神は一時的に彼らから離れますが、イスラエルの民は、苦しみながら、その苦しみを通して神を捜し求めるようになるのです。
そしてそのような背景の中で今日の箇所6章が出て参ります。もう一度読んでみます。「さぁ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は2日の後、私たちを生き返らせ、3日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」ちょうどイエス・キリストが人類の罪を背負って十字架に着き、墓に収められ、3日目によみがえられたように、新しい回復がイスラエルに臨みます。続いて、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は、暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」とあります。神の恵みから離れてしまったイスラエルの民にとっても、回復の時は必ず来るのです。神に目を向けて神の祝福にあずかる、そのような時が必ず訪れるのです。大雨も後の雨も豊かな収穫をもたらすために必要なのです。
私はこの日本に生まれて、高校生の時に教会に導かれ、後にアメリカで学ぶ機会が与えられ、キリスト教の文化に触れ、キリスト教の信仰を持つことができて、本当に良かったと思っています。かつての日本は天皇を神とし、アジアの国々に戦争を仕掛けて、大きな犠牲をアジアにもたらしました。毎年8月には、その終戦記念日を迎えます。終戦記念日は一人一人が過去の悲しい歴史を振り返る時です。私たち日本人は、だれでも謙虚になって歴史を振り返り、高慢になり、加害者となった時があったことを反省しなければならないと思っています。悲しいことにその反省の心を持たない日本人も最近は増えているようです。私たちクリスチャンは歴史をしっかりと見つめて、自らの罪、また私たちの親世代が犯した過去の罪を悔い改め、神の赦しをいただき、新たな人生を歩むことができます。世界の指導者も時には間違いをします。今でも、悲しい出来事が世界の多くの所で起こっています。しかし、罪を認め、悔い改め、新たなスタートをすることを、その指導者達も選ぶことができるはずです。神は無条件な愛で私たち一人一人を愛しておられるからです。そして、神に立ち返りなさいと呼びかけておられます。私たち一人一人、神の恵みの中で、いやされ、神の愛に包んでいただき、立ち上がって、神の祝福に預かる者であってほしいと願います。世界の指導者のためにも祈りを捧げてまいりましょう。私たち信仰者の一人一人、誰であっても、主に立ち返って、豊かな収穫に預かることができるのですから。
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