「みことばは、私の足のともしび、私の道の光です」ルカ10:38-42

Pastor Kitazawa

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
①新しい年がはじまりました。そして、今月は、その最初の月になります。

・このような年の初め月では、誰もが、「今年はどう生きてゆこうか・・或いは、今年はどのように生きてゆくべきだろうか・・」そういうことを考えさせられる時期ではないでしょうか・・。

・私は、昨年の暮れ、きょうの説教原稿を作成するにあたり、祈りながら、「そういう一年間の生き方を考えさせられる、その一月の礼拝では、聖書のどの個所を開いたらよいものだろうか・・」そのことを思いめぐらせておりました。

・そして、しばらくしてこの私の心に浮かんできましたのは・・私たちの主イエスが、あの、親しかったマルタという女性に語られたルカの福音書の10章の御言葉でした。

②そういうわけできょうの礼拝では、聖書のその個所を皆さんと開いて、そしてそこから、神さまからのメッセージを受け止めてゆきたい そう思っております。

・では先ず、ルカの10章38節~42節の所を英語で読んでいただきましょう。
→(通訳の方に朗読していただく)

・先ず38節見ると、このように書かれてあります。→「彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が、喜んで家にお迎えした。」

・この時代の旅。それは、今日(こんにち)の旅とは大きく違っていました。当時の、この地方の旅には、いつも多くの困難が伴っていたのです。

・旅人は、悪路を自分の足で歩くか、よくてもラクダやロバなどを使い、何日もかけて人々は旅を続けなければなりませんでした。

・そこには、強盗も出る。病気になったら病院などはない。もし途中で飲み水がなくなったりしますと直ぐに命を落す危険がありました。これが当時の人たちの「旅」だったのです。

・この38節で・・「旅を続けているうちに、イエスがある村に入られると・・」と語られていますのは・・「そういう厳しい旅をしてきた一行が、ある村に入ってゆくと・・」という意味が込められていることを忘れてはいけません。

・しかしその時、マルタという女性は、その疲れた彼らを喜んで家にお迎えしたのでした。これは・・イエスさまとその一行にとって、本当にありがたいことだったに違いありません。

・ところで、このマルタという女性の名前ですが・・この言葉の意味は「主人」でした。ですから、彼女はいわば「女主人」という名前だったわけです。

・そしてこのマルタという女性は文字通りその名前の通りの人であったようです。

・彼女はこの時も、人々を取り仕切って・・イエスさま一行をもてなすべく、最善を尽くそうと気合いが入っていたのです。

・ところがです。彼女の妹であったマリアは、マルタとはその思いがまったく違っていました。

・マリヤの関心は、イエスさまが何をお語りになるのか・・そのことだけにあったのでした。

・ですから、この時マリヤは、当時、会堂の教師たちから教えを受ける時の様に、イエスさまの足元に座り・・イエスさまの語っているその御言葉に一心不乱に耳を傾けていたのです。

・この様子を見たマルタはいたたまれなくなって、イエスさまにこう進言しました。
「主よ、妹が私だけにおもてなしをさせていることを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

・この時のマルタの気持ちは、ずっとずっと後の時代の私たちにも、手に取るように分かります。

③ところで・・この姉のマルタが、旅をしてきたイエスさま一行を「温かくもてなさなくては・・」と、これほどまでに強く思っていたその熱い思いは、いったい何処から来ていたのでしょうか・・。

・「そんなの決まっているでしょう。マルタはお世話好きだったのですよ。そういう性格だったのですよ。」そう思われる方が多いかと思います。

・勿論、私もそうだと思います。では、それだけのことだったのか・・といいますと・・私は、もう一つ理由があったのではないか・・そう思えてなりません。

・当時の宗教指導者は・・旅人を「もてなす」というのは、・・「隣人を愛する」その典型的な実践である、と教えていたようです。

・そしてそれは、この地方の人たちの考え方に深く影響を与えていて、それはもう一つの文化となっていたようです。

・当時、他国からやってきた人、或は自分たちの部族からはなれて遠くの地からやってきた人たちは、大変弱い立場にありました。

・しかし、当時の宗教指導者たちは、その弱い立場の人たちに温かいお世話をしてゆく・・この姿こそ正に愛の実践であると教えていたようです。

・確かに、このような教えは、聖書にも指摘されていることでもあります。

・現代社会でもそうだと思います。もし皆さんが、遠い外国に行くことになって・・、そこで生活を始めることになったとします。そうなりますと・・その国の国民ではないので、社会制度が適用されなかったり、時には病気にかかって多額の費用がかかったり、とても弱い立場に立たされます。

・そんな時に、皆さんが、その土地の人たちにいろいろと助けてもらう・・もてなしを受ける・・そういう経験なさったら・・皆さんはきっと、その親切にお世話してくださった方々のことを一生涯忘れないと思います・・・。

・そして、聖書の、旅人をもてなすことの薦めが、如何に大切な勧めであるのか・・、そのことを深く理解なさるに違いないと思います・・。

・ですからマルタがこの時、一生懸命に人々をお世話しようと考えたことは、とても尊い事であったのです。

④しかし、このような尊い思いの中にあったマルタに、主イエスはここで、あえてこのように語られるのでした。

・41節「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。」

・42節「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

・非常に日常的な、どこにでもある出来事の、その中の会話の中で、主イエスは人の生き方の基本。「人にとって本当に必要なものは何か・・人は何を求めて生きてゆくべきなのか・・」この根本的な問題の、その答えをここで語られたのでした・・。

・マルタだけではありません。よく考えますと・・私たちは、誰も、マルタのような弱さがあるのではないでしょうか・・。

・私たちはよく・・「あれも必要」、「これも必要」そういう思いになります。そしてそのことでたくさんの神経を使い、時間を使い、労力を使い・・人生を浪費してしまいます。

・では、そのような思いが強い人は周りの人たちから軽蔑されているのか、といいますと・・その逆だと思います。ダイナミックで・・やる気に満ちていて、むしろ人々の評価は高いことが多いと思います。

・しかし、「あれも必要、これも必要、そういう思いが強ければ強いほど、私たちは、ある危険に陥りやすいのではないでしょうか・・それは、私たちの生き方で・・「最も必要なことは何か、そのことがぼやけてしまう・・」この危険です。

・その私たちが陥りやすい弱さから、私たちを守るために、主イエスはここで、こう語られたのでした。→「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

⑤私は77年間生きてきたのですけれども‥この年になって、ようやく、ようやくです。このイエスさまの御言葉を受け入れることができるようになってきたように感じます。

・先日浜辺で散歩をしていました時、ふと、こんな風に思いました。「私たち夫婦は、相変わらず質素な生活を送っている・・それに、最近は、体力を使って楽器を演奏するというようなダイナミックなことが少なくなってきた・・」

・昔だったらこういう思いになりますと、必ず、「これはまずい!」と思いすぐに何かにがんばり始める私でしたけれども・・その時私はそんな焦った気持には全然なりませんでした。

・それどころかこのように思ったのでした。→「このまま、特に何もできなくても、質素な生活のままでも全然いい・・。強いて言えば・・最後まで自分で自分の服を着ることさえできれば、それ以外は、特にこれと言って必要なものは見当たらないなあ・・」

・つまり、私は、きょうのイエスさまのおしゃっておられる御言葉を理解し始めるのに、何と77年も掛かってしまったようなのです。信仰の成長が随分とゆっくりです。

⑥聖書に戻りますが・・ここで主イエス・キリストが「人がどうしても必要なことは一つです。」と言っておられるのは、具体的には、何を指しているのでしょうか・・

・文脈から見て、それは、マルタとは対照的であった妹のマリアの姿を指していることは明白です。

・そうです。妹のマリアは、主イエスの足元に座って、一心不乱に、その主の御言葉に聞き入っていたのでした。

・詩篇119篇105節にはこのように歌われています。→「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の足の光です。」

⑦新しい年が始まり、そして私たちは今、自然と、「今年はどのように生きてゆこうか・・」「どのように生きてゆくべきなのだろうか・・」そういう思考に導かれています。

・その時、きょうの御言葉は、きっと皆さんの思いが主に喜ばれる方向にむかってゆく、その助けになると思います。

・それでは・・、愛する皆さんの、今年の目標や、今年の志(こころざし)に、主の祝福がありますように・・伊野先生にお祈りしていただきましょう。

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