「水を汲みに来た一人のサマリアの女」ヨハネ4章3―23節

Pr.Kitazawa

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
➀新約聖書の福音書といわれる書は4つありますが・・どの福音書も、その中間部分には、主イエス・キリストと、様々な人たちとの出会いの記事が載っております。

・では、このイエスさまとの出会いを果たしていった人たちは、どのような人たちであったのか、ですが・・この人たちは、特別な特権階級にあった人たちではありませんでした。

・唯一例外は、十字架に向かって事が進んでゆきました時、主イエスは、当時の有力者たちと面会することになった場面がありますが・・ その際のイエスさまと有力者たちの面会は、形だけのものでありました。

・そうです。主イエス・キリストが、魂を込めて、神の愛と、まことの救いについて語ってゆかれた人たち、その人たちは、私たちと何ら変わらない、どこにでもいる庶民であったのです。

・では、主イエスは、会う人会う人に、無節操に語って行かれたのかといいますと・・そうではありませんでした。

・この人々と主イエスとの出会いの記事を丁寧に見てゆきますと・・イエスさまが向き合っていった人たちには、共通したあるものを感じます。

・心を開き、イエス・キリストのいのちの御言葉を信じ受け入れていった人たちの、共通した、あるもの・・それは、「己の傷に心を痛めつつ、尚懸命に生きていた人たち」、つまり「心の飢え乾きを覚えつつも、なんとか懸命に生きていた人たち」でありました。

・つまり彼らは、どの人もみな、「神さまの救いを求める心」を内に秘めていた人たちであった、私はそう感じるのです。

➁しばらくルカの福音書を見てきたのですが・・きょうは、ヨハネの福音書を開いてゆきたいと思っていますが・・きょうの聖書個所に出てくる一人の女性も、正にそういう思いを抱いていた一人でありました。

・ヨハネの福音書4章3節と4節をご覧ください。→ 「イエス一行は、南のユダヤを去って、再び北のガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」

・イエス・キリスト、そして、その弟子たち一行は、この時、南のユダヤ地方から、北のガリラヤ地方に行こうとしていました・・。

・この時の様子を、弟子のヨハネはこのように伝えています。「しかし・・ サマリアを通って、ゆかなければならなかった・・」

・多くの聖書学者や伝道者たちはこの不思議な説明に注目しました。

・当時、南のユダヤ地方の人たちが、北のガリラヤ地方に移動ずる場合、不思議な事に、ほとんどの人が、その途中にあるサマリア地方を通らないようにしていました。

・なぜ人々は、サマリア地方に行かないようにしていたのかといいますと・・それは、そこを通って、堕落したサマリア人と接すれば、その堕落が・・自分たちにも及んでくるに違いない、そのように考えていたからでした・・。

・このように、当時のイスラエルの人たちには、このサマリア人への強い差別意識があったのでした。「汚れた者と付き合うと、汚れた者になってしまう。汚れた者に近づかない、これは信仰者にとって大事な事なのだ。」こういう意識です。

③では、現代の私たちキリスト者は、これに似た考え方はけしてしないのでしょうか・・。

・私は、50年以上前の古き時代の教会の雰囲気を経験してきた年配者の一人ですが・・その時代の教会では、いろいろな見えない禁止事項があったと記憶しています。

・酒やたばこは勿論だめ・・テレビも・・新聞も・・映画も・・贅沢も・・派手な服を着ることも・・そういう世的なものにはなるべく近づかない方がよい・・そういうことを強調していた先輩の方々が教会に結構おられたと記憶しています。

・つまり、世を嫌えば嫌うだけ、信仰的だという考え方です。ほかでもない、この私自身もそういう思いが当時あった一人だったと思います。

・そういうことを思い返しますと・・このヨハネの福音書の4章で、2000年前、多くの人がサマリアには行くな・・サマリア人と付き合うな・・汚れてしまう、と多くの人が強調していたことを、私たち日本の教会はあまり批判できないのではないでしょうか・・

・ところがです。私たちの主イエス・キリスト、この方は、まったくそのような思いをお持ちではなかったのでありました。それどころか、主イエスは、正反対の方であった、と聖書ははっきり伝えているわけです。

・この方は、たとえ、人々が拒んでいる・・そのサマリアの地に住んでいる人々の所に、むしろ、向かってゆく・・そういう方であった・・このように聖書は記しているのです。

・有名なヨハネ3章16節ではこのようにも語らえています。
「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに・・世を・・愛された・」

・主イエス・キリストは、世を避け、世を排除される方ではありませんで・・世に生きている、その人々を愛してゆかれた、そのような方であったのです。

・私たちは、この汚れた世に、汚れた社会のその中で生きています。 そうしますと・・どんなに己を律することの能力が高い方であっても、その影響を受けてゆくのではないでしょうか・・。

・ある人は、その社会、汚れた家庭に囲まれて、その汚れの重荷を負わなくてはならない、弱い弱い立場の方もおられます。

・イエスさまがこのスカルの井戸で出会ったこの女性は、正に、この世の汚れに押しつぶされそうになりつつも、何とかそこから脱しようと呻きつつ生きていた、そういう女性であったのでした。

・私たちの主イエス・キリストは、このような人を忌み嫌う方ではなく、そのような方のところに向かってゆく、そういうお方であった・・このことを私たちはしっかりと覚えておかなければならないと思います。

・ですから、この方にお使えするキリスト者は・・これも汚れている、あれも汚れている、と言って、世の汚れを嫌っているだけの人になるのでなく・・むしろ、汚れに呻いている一人一人に近づき、神さまのその赦しの確かさを宣べ伝えてゆく・・そういう方向性をもった一人一人でありたいと思います。

④この先を見てゆきましょう。6節を読んでみます。
「そこにはヤコブの井戸という名の井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らにただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。」

・この「大六の時」といいますのは直訳です。第六の時とは、現代の時間では昼の12時頃のことです。

・砂漠にあるこの井戸は、暑さの為、真昼の時間には、ほとんど誰もやって来きません。しかしこの昼の12時頃、この女性は・・人目を避けるようにしてこの井戸に水を汲みにやって来たのでした。

・つまり、この彼女は、ユダヤの人たちからだけでなく・・この地元、サマリア人たちからも後ろ指を指されていたようです。

・この後、この女性はイエスさまの問いかけにいろいろと答えてゆきますが・・何と言いましょうか・・残念なことに、この女性の応答はことごとく的のはずれた応答でありました。

・しかしこの、実にものわかりのわるいこの女性を主イエスは見捨てませんでした。

・考えてみますと・・ものわかりがよいはずもありません。当時は貧しい家庭に産まれた女性が教育を受ける機会などありませんでした。ですから、彼女は、イエスさまからいのちの水の話を聞いても、それを比喩とは分からずに、飲む水としか理解できなかったのです。

・また、この先のところを読んでゆきますとわかりますが・・ 彼女、実は、沢山の負い目をもちながら生きていたのでした。

・ご存じのように、古代イスラエルの社会は、超封建時代であり、極端な男中心の社会でした。ですから貧しい家庭に産まれた女性が一人で生きてゆくのは非常に困難でした。

・勿論、彼女は彼女なりに一生懸命生きてきたのだと思いますが・・結局、彼女は、男たちを頼ることになり、その結果、彼女は、その都度、たくさんの傷を負ってきたのでした。

・私は、この時代背景を思い、そしてこの女性が、この時、どのような思いでこの井戸に水を汲みに来ていたのか・・そのことを想像しますと・・本当にかわいそうで、胸が詰まるような気持ちになります。

・そうです。イエス・キリストは・・・このような人の所にこそ、ゆかねばならなかったのです。

➄ある時、クリスチャン作家の三浦綾子さんの、そのエッセーを読んでおりましたら・・彼女がこのように言っておられるところを見つけました。

・「このサマリアの女性は、私だ。 私は、このサマリアの女とそっくりだ。」

・あの時、私は名古屋で、三浦綾子読書会の奉仕をしていましたので、綾子さんが、如何に聡明で、如何に清潔な方であるか、私なりに知っておりましたので、この彼女の発言「私はサマリアの女にそっくりだ」とのご発言には本当に驚いたのでした。

・皆さんはどちらの側に立っておられるでしょうか・・「私はこのような人とは違う・・私は、汚れを嫌い、清められた人生を目指してきょうも歩んでいる・・私は、彼女のような世界とは反対側に立っている・・そうおっしゃるのでしょうか・・。」

・それとも、綾子さんの様に・・「このサマリアの女性は、私だ・・私は正にこのような人間なのです。ですから、イエスさまの哀れみと御言葉を必要としている者なのです。」 そう告白して、汚れたサマリアの女の側に立たれるお一人として生きてゆかれるのでしょうか・。

・そうです。 我らの主イエス・キリストは・・「お前は汚れている! お前はふしだらだ!お前は清められなければならない!」と、人々から、有形無形のさばきをの目を注がれてきた、そのような人を、けして、けして、お見捨てにはならないです。

・ここでイエスさまはこの女性に有名な「いのちの水のメッセージ」をなさいました。しかしこの女性の反応は・・残念ながら、実に、もどかしいものでした・・。

・しかしイエスさまは、その、すぐにずれてしまうこの人を、それでも尚、見捨てることはなさらずに、尚も、根気よく「わたしの言っている水というのは、いつも飲んでいるその水ではなく、心の中に昏々と湧き上がってきて、けして枯れることのない・・真のいのちの希望のことなのです。」と、諭すように語ってゆかれるのでした。

・そうです。 このように、イエスさまがこの女性を見つめていたのは・・この女性の、この時の反応を見るためではありませんでした。 

・イエスさまは・・この女性の心の奥底にある、その悲しみ・・呻き・・そのことを見つめておられたのでした。

・最後にこの時主イエス・キリストが語られたその御言葉を皆さんにもお届けしたいと思います。

→「わたしが与える水は、その人の内で、泉となり・・永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

タイトルとURLをコピーしました