ニケア信条(第6回) 「聖なる、公同の、使徒的な教会」とは何か

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)
ここまで、ニケア信条が私たちの神の本質、すなわち父・子・聖霊についてどのように語っているかを見てきました。
ここからは、ニケア信条の中で最後に触れられている二つのテーマについて見ていきたいと思います。今日は「教会」について、そして来月は「来世」について「です。
それでは、お祈りして始めましょう。
【祈り・信条の朗読】

ニケア信条の中で、私たちはこのように告白します。
「私たちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を信じます。」
(スライド8に戻ってください。)

これは、新約聖書が教会の本質について教えていることを要約した一文となっています。しかし、この文を聞いて、いくつか疑問が浮かぶかもしれません。
クリスチャンがこれほど罪を犯しているのに、教会は本当に「聖なる」と言えるのか。「公同(カトリック)」や「使徒的」とはどういう意味なのか。そして、これほど多くの教派に分かれているのに、どうして「唯一の教会」と言えるのか。今日は、「聖なる」 「公同の」 「使徒的な」 「唯一の教会」、これら四つの言葉を取り上げて考えてみましょう。 

<罪深いが、聖なる>
まず、「聖なる」という言葉から始めましょう。興味深いことに、使徒パウロはコリントのクリスチャンたちを「聖徒」、あるいは「聖なる者たち」と呼んでいます(ギリシャ語では hagioi、Ⅰコリント1:2)。
しかし実際には、コリント教会の内部では深い分裂があった上に、性的な罪の問題も抱えていました。つまり、コリントの人々が道徳的に完全だったから「聖なる」と呼ばれたわけではありませんでした。彼らが「聖なる者」とされた理由は、神が彼らを召し、ご自分の目的のために取り分けられたからです。

聖書において、「聖なる」という言葉(ヘブライ語 kodesh)には、「神によって取り分けられること」という意味があります。実は、「聖なる」という言葉は「教会」という言葉とも関係しています。教会はギリシャ語で ekklesia と言い、「集まり」あるいは「召し出された者たち」という意味です。
聖書全体を通して、神は人々を召し出し、ご自分の目的のために取り分けておられます。たとえば神は、イスラエルの十二部族を選び、その十二部族が他の国々にとって光となり、人々がまことの神を知るようになることを望まれました。
しかしイスラエルがその使命に何度も失敗したとき、神は彼らを見捨てるのではなく、ご自身が来られました。それがイエス・キリストです。イエスは諸国民の光として来られました。旧約聖書において神がイスラエルの十二部族を召し出したように、新約聖書においてイエスは十二人の使徒を召し、神の国の福音を宣べ伝える使命のために彼らを取り分けました。

私たちが「聖なる者(聖徒)」と呼ばれるのは、私たちの行いが清いからではなく、神の働きが清いゆえなのです。父なる神が私たちを取り分け、御子イエスが罪から私たちを贖(あがな)い、聖霊が私たちを清めてくださいます。そして神は、イエスが再び来られる日まで、私たちをイエスに似た者へと変え続けてくださいます。ですから私たちクリスチャンは、確かに罪深い存在ですが、同時に聖なる者なのです。

<プロテスタントだが、カトリック(公同の)教会>
次に、「カトリック(公同)」という言葉について考えてみましょう。私たちプロテスタントが、ニケア信条や使徒信条を唱えるとき、自分たちを公同の(カトリック)教会」と呼ぶとは、どういう意味なのでしょうか。「カトリック」という言葉は、単純に言えば「普遍的な」「全体にわたる」という意味です。つまり、教会とはすべての時代の、すべての場所の、すべての人々のためのものであるということです。教会は、限られた人だけのクラブでも、秘密結社でもありません。

「カトリック」という言葉そのものは、聖書には出てきません。 しかしこの言葉は、教会の初期の時代から、使徒たちの教えに忠実で普遍的な教会を指す言葉として使われてきました。使徒たちから受け継がれた神のメッセージを忠実に教え、洗礼と聖餐の聖なる儀式を忠実に行っている教会であるなら、その教会は「カトリック、公同の教会」であるとプロテスタントでは信じられてきました。

教会が始まったときから、ペテロや他の弟子たちは、さまざまな部族、民族、言語を持つ人々を招き、神のメッセージを聞くように呼びかけました。
使徒の働き2章では、イエスの死と復活の後まもなく、聖霊が弟子たちに降(くだ)り、彼らは、さまざまな言語で神について語ることができるようになって、その日エルサレムで三千人もの人々がイエスを信じたと記されています。これが教会のために聖霊が為した最初の奇跡だったことは、実に興味深いのではないでしょうか。神は、弟子たちを空に飛ばしたり、レーザー光線を出させたりして、ご自分の力を示すこともできたでしょう。しかし神はそうされませんでした。代わりに、弟子たちとは言葉が違う人々にも神のメッセージが伝わるように、弟子たちに外国語を話す賜物を与えたのです。

ペテロのメッセージが終わるときに、聞いていた人々は尋ねました。「私たちはどうしたらよいのでしょうか。」(使徒2:37) ペテロは答えました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(使徒2:38)  洗礼は、彼らが教会に加えられたことを示す、目に見えるしるしとなりました。そのため、ニケア信条でも、聖なる公同の教会について触れた後に、自然な流れで洗礼について書かれています。「私たちは、罪の赦しのための唯一の洗礼を信じ告白します。」 
IBFでは、私たちは多くの国から来ていますが、洗礼によって、一つの家族の一員として結ばれています。

まとめると、プロテスタントも、自分たちを「公同の、カトリック教会」と呼ぶことができます。私たちはローマ・カトリック教会の一員ではありませんが、聖書の真理を忠実に守り続けている普遍的な教会の一員だからです。

<私たちは使徒的か?>
次に「使徒的」という言葉について考えてみましょう。教会が「使徒的」と呼ばれるのは、教会が使徒たちの教えの上に建てられているからです。ここでいう「使徒」とは、イエスご自身が特別な使命のために選んだ最初の十二人の弟子たち、そして聖書に登場する他の使徒たちを指しています。

使徒の働き2章では、エルサレムで3,000人がバプテスマを受けたこと、そしてその後のことが記されていて、使徒2章42節には、「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。
使徒パウロはエペソ人への手紙2章19〜20節で、信者たちは「…神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」と述べています。もし使徒たちの教えがなければ、私たちはイエスが本当にどのようなお方なのかを知ることができなかったでしょう。

また、ローマ・カトリック教会と東方正教会は、自分たちを「使徒的」であると考えています。彼らは、按手(あんしゅ/神の祝福を与えるために、人の頭に手を乗せる儀式)によって、司教から司教へと途切れることなく受け継がれてきた権威は、最初の使徒たちにまでさかのぼることができると信じています。彼らにとって、それが使徒的であることです。

では、プロテスタントはどうでしょうか。初期のプロテスタント、すなわち宗教改革者たちは、歴史や脈々と受け継がれてきた伝統の価値を否定したわけではありません。しかし宗教改革者たちは、真の教会のしるしは、司教が引き継がれることではなく、聖書の中で使徒の教えが保たれていることだと主張しました。司教であっても間違うことがあるからです。

宗教改革者たちは、「聖書のみが誤りのない権威である」と主張しました。彼らの標語の一つに ソラ・スクリプトゥラという言葉があります。これは「聖書のみ」という意味です。これは「聖書だけが唯一の権威である」という意味ではなく、「完全に信頼できる唯一の権威が聖書である」という意味です。教会の教え、信条、伝統といった権威も価値があり、ある意味で権威を持っているけれども、それらは常に聖書によって吟味されるべきだということです。

たとえば、ニケア信条を唱える伝統が、自分自身で聖書を読むことに取って代わることはありません。しかし信条は、聖書の内容を慎重に要約したものとして大変有益です。祈りをもって継続されてきた研究や、激しい神学論争の中で形作られてきた信条の言葉は、1,700年もの間、使徒の教えに根ざし続ける教会の助けとなってきました。
現代の福音派の中には、「聖書さえあればよい」と言う人もいます。この人たちは、教会の歴史なんて知る必要はないし、伝統にも従う必要はないと言います。中には、聖書以外のキリスト教の本を読む必要もないし、説教も聞かなくていいと言う人さえいます。
しかし聖霊は何世紀にもわたって、クリスチャンたちに語り続け、キリストに忠実であるよう今も尚、私たちを導いておられると私は信じています。ですから、神の共同体に属する信仰者たちの声、過去2千年にわたる信仰の先輩たちの声に耳を傾けることは大切なことではないでしょうか。そうしないと、私たちは孤立した状態の中で、聖書を誤って変な方向に解釈してしまう危険性があると思います。

「使徒的」という言葉に戻りましょう。近年、カリスマ派教会の中で「新使徒的改革」と呼ばれる運動が起こっています。神によって特別なリーダーシップを与えられたとされる現代の使徒や預言者が教会を導く動きです。
しかし、ニケア信条において「使徒的」であるとは、現代の使徒に導かれることではありません。むしろそれは、かつて最初の使徒たちに与えられた信仰にしっかりと根ざし、その信仰が聖書の中に保存され、歴代のクリスチャンによって忠実に告白され続けていることを意味するのです。
「唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会」という言葉が信条の中で何を意味しているのか、皆さんの理解が少しでも深まってくれたら嬉しいです。

<分かれていても、一つ>
もう一つの問いを考えましょう。これほど多くの教派に分かれているのに、どうしてクリスチャンは「唯一の教会」と呼ばれるのでしょうか。私が教えている英会話の生徒さんたちがキリスト教について質問してくるとき、多くの場合、まず知りたがるのはカトリックとプロテスタントの違いです。それを聞くと、日本でキリスト教について一番よく知られていることは、実は「分裂していること」なのではないかと思うことがあります。
しかし、ニケア信条が書かれたのは、宗教改革によってカトリックとプロテスタントが分かれる1000年以上も前のことです。それでも信条は、「唯一の教会」と告白しています。それは、聖書が繰り返し教会の一致について語り、信者たちは皆、一つの体の一部であると教えているからです。

たとえばパウロは、エペソ4章3〜5節でこう書いています。「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保ちなさい。体は一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」 またガラテヤ3章28節では、このように書かれています。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」
つまり、主が一人であるから、教会も一つなのです。

イエスご自身も、私たちが一致することの難しさをよくご存じでした。十字架にかかられる直前、イエスはヨハネ17章で、イエスを信じる者たちが「一つとなるように」と祈られました(ヨハネ17:22)。 ですから私たちも、イエスにならってクリスチャンの一致のために祈りましょう。一致とは、私たちの努力だけで達成できるものではなく、神から与えられる賜物であり、奇跡でもあるからです。

しかし、どんな犠牲を払ってでも一致すればよいというわけではありません。私たちは人々を説得することはできますが、無理に強制することはできません。
ルター派の神学者ピーター・マイデルリンの有名な言葉があります。「本質的なことでは一致を。本質でないことでは自由を。すべてのことにおいて愛を。」 
つまり、信仰の中心的な真理については一致し、二次的な問題については自由を認め、すべてのことを愛をもって行うということです。
クリスチャンはまず福音の真理を捨てることなく、共通している点に目を向けるべきだと、私は思います。もちろん、二次的な問題については意見が異なることもあるでしょう。
これこそ、ニケア信条が今も重要である理由の一つです。ニケア信条は、キリスト教信仰を形作る本質的な真理を示しています。ローマ・カトリック、東方正教会、そしてプロテスタントがこの信条を共に告白するとき、私たちは共通の信仰を分かち合っているのです。そして私たちはそこに焦点をあてて、喜び祝うべきなのです。

<共に集まることをやめてはけない>
最後に、もう一点お話しします。キリスト教は、個人的な信仰ではなく、生き方を分かち合う信仰です。そしてその生き方を分かち合う信仰は、信者たちが実際に集まることきに、最も実現されるものです。
ヘブル10章25節は、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い…」と私たちに勧めています。

新型コロナウィルスの感染拡大という危機の中で、オンライン礼拝は必要な祝福となりました。しかし、実際に同じ場所に集まることには、代えがたい価値があります。周りの人たちの声を聞きながら共に賛美を歌うこと、共に聖餐に預かること、顔を合わせて重荷を分かち合うこと、そして互いのために祈ること。クリスチャンライフは、画面の向こう側ではなく、共同体の中にあるように造られているのです。

同時に、私たちにはそれぞれ事情があることも知っています。教会に行くことに困難を感じる人もいます。過去に教会で傷ついたり、失望したりしたからです。「イエスのことは愛しているけれど、クリスチャンは好きになれない」と言う人の気持ちを、私たちは軽く扱うべきではありません。

教会は完全ではありません。しかし教会は、キリストご自身が建て、愛し、そしてご自分の命を捧げてくださった共同体です。教会は今も清められている道の途中にあります。その過程は、時に痛みを伴います。それは、罪深い状態から一晩で完全な罪のない状態へと変わるようなものでは決してありません。

教会とは、神がご自分の子どもたちを集め、養い、忍耐をもって成熟した者へと導いてくださる場所なのです。3世紀の司教、カルタゴのキプリアヌスはこのように書いています。「教会を母としない者は、神を父とすることはできない。」 それから1000年以上後に宗教改革者カルヴァンもこの言葉を引用し、目に見える教会は、御言葉と聖なる儀式を通して信者を育み育てる母親的な存在で、すべての信者にとってなくてはならない存在であることを強調しました。

Zoomで礼拝に参加している兄弟姉妹の皆さん、今はもうコロナ感染による緊急事態の時ではないので、できれば、また顔を合わせてお会いできることを願っています。
義務感からではなく、より豊かな信仰の歩みを求めて、ぜひ共に集まってほしいと思います。そして、使徒2章にある初代教会の信者たちのように、使徒たちの教えに励み、交わりを大切にし、パンを裂き、祈りに専念する、そのような歩みを共にしていきましょう。

<結び>
教会は決して完全ではありません。しかし教会は、キリストが愛しておられる花嫁です。
そしてキリストは、教会を完全な美しさへと導く御業を必ず成し遂げてくださるお方です。

それでは祈りましょう。
全能の神様
あなたは、使徒と預言者を土台として教会を建て上げ、キリスト・イエスご自身をその礎としてくださいました。
どうか私たちを、使徒の教えによって御霊の一致のうちに結び合わせ、あなたに受け入れられる聖なる宮としてくださいますように。
神、聖霊と共にとこしえに世を治める私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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