「主イエスの悲しみ」ヨハネ6:27-35

Pastor Kitazawa

(音声メッセージは礼拝後にアップする予定です。)

①きょう皆さんとご一緒に開きます聖書の個所は、ヨハネの福音書6章です。

・ここは、有名な「五千人の給食」と言われている出来事が記されている個所です。

・キリスト教会が成立してから間もない時代。(この時代の教会のことを「初代教会時代」と言いますが・・)その初代教会の人たちは、この「五千人の給食の記事」を大変愛し、多く人がこの出来事を心の支えにしていたようです。

・この出来事が4つの福音書全部に載っているということからもそのことがわかります。

・ではなぜこの出来事が、初代教会時代の人たちの大きな励ましとなっていたのでしょうか・・

・それは、初代教会の人たちが置かれていた厳しい時代背景、そして、その時代に生きていた人たちの様々な困難を考えますと・・彼らの気持ちがとても分かるような気が致します。

・食事をすることさえままならない時代であればあるほど、人々は・・生きることはすなわち食べること、そう思うようになりやすい、これは自然なことだと思います。

・確かに、生き物である私たちにとって、食べものがあること、そして、健康であることは、最も基本的な欲求です。

・また信仰者にとって、神さまから食べ物が与えられること、健康が与えられることが、神さまのご臨在を覚えること・・そういう感じ方は、けして間違ってはいないと思います。

・では、はたして、この五千人の給食と言われてきたこの聖書の記事は・・人々が、救い主イエス・キリストによって、パンと魚が与えられ、そのことで人々が神さまの御臨在を覚え・・人々が大喜びしていったというめでたい出来事を伝えている、それだけの個所なのでしょうか・・

・確かにこの聖書個所は、人々の喜びの出来事を伝えていますが、しかし・・落ち着いて、もう一歩深く、この聖書個所を読みかえしゆきますと・・この個所には、人々がパンを与えられ、大歓声を上げていったというそのことだけが語られているのではないということが見えてきます。

・そうです。ヨハネの福音書6章は、実は、この時、その人々の大喜びをするその反応を見たイエスさまは、深い悲しみを覚えられて、その人々のいるその場から静かに退いて行かれた・・そういうイエスさまの悲しみが語られているそういう聖書個所になっているのです。

➁ではイエスさまは、いったい何を悲しまれていたというのでしょうか・・

・まずは、この出来事を簡単に振り返ってみましょう。そして、その後にイエスさまが何を悲しまれたのかについて考えゆきたいと思います。

・主イエスを慕って集まって来た群衆は、この時、男だけでも約5千人と書かれてありますから・・、つまり約一万人の人々が今ここに集まっていたのでしたが・・時が経ち、その群衆に今夕刻が迫っていました。

・はじめ主は、弟子のピリポがこの群衆をどのように導いてゆくのかご覧になっておられましたがしかしピリポも他の弟子たちもただ焦るばかりで、何もできませんでした。

・その時です、一人の少年が弟子のアンデレの所に、二匹の魚と五つのパンを持って現れたのです。

・その二匹と魚を五つのパンを見たアンデレは、これだけでは何の役にも立たないと思ったのですが、一応そのことを主に伝えます。

・すると主イエスは、先ず、人々を座らせ・・少年から渡された五つの大麦のパンを裂き、感謝の祈りをささげた後、二匹の魚もおなじようにして、座っている人々に分け与えたのでした。

・ところが・・ここにいた群衆は次第に、驚きと歓喜に包まれてゆきます。

・それは・・彼らがパンを十分食べたのですけれども・・そのパンは尚も余ったからでした。そして余ったパンを集めたところ何と12の籠いっぱいになったのでした。

・何が起こったのでしょう・・

・私が先ず注目しますのは・・このパンと魚は、名もない少年がささげたパンと魚であったということです。

・五つの大麦のパンと二匹の魚は、おそらく彼のお弁当であったのでしょう。

・彼のささげたこのパンは、大麦のパンでした。大麦のパンといいますのは、小麦で作られたパンと違って、普通は貧しい奴隷の食べるパンでした。ですから、おそらくこの少年は奴隷であったと思われます。

・なぜ、奴隷であったこの少年が、この貴重な、自分の命をようやくつないでゆくそのパンをささげようと思ったのでしょうか・・。この彼の優しさ、この彼の献身的なそして純真な心に私は先ず感動させられます。

・イエスさまも感動されたに違いありません。主は、この少年の尊い献げものを祝福された後人々に配るのでした。

・そうです。この少年が差し出したパンと魚、これは、大金持ちや大祭司の様に裕福で、社会的力を有し、食べる物があり余っている者が差し出したパンと魚ではありませんでした。

・神さまの奇跡の御業は、この名もない少年の、小さな、しかし、真実のささげものによってなされたものだったのです。

③この御業に与った人々は大変喜びます。喜んだというより大熱狂したのでした。彼らはきっと心の中でこう叫んだと思います。「ハレルヤ!」「そうだ、この方こそ我らの救い主だ!いや、この方こそ我らの王になるべき方だ!」

・では、その群衆の歓声を受けて、イエスさまはどうされたのでしょうか・・人々と一緒に、喜び合い、神さまをほめたたえ・・みんなでハレルヤコーラスを歌い始めた・・そんな感じになったのでしょうか・・全然違いました。

・6章15節を見ますとこう記されています。「イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れてゆこうとしているのを知り、再び一人で山に退かれた。」

・主イエスがその場から退かれ、主(ぬし)のいない群衆となった彼らはどうしたのかと言いますと・・イエスさまの捜索活動を始めるのでした。

・ある者は舟に乗り主イエスを探しに湖に漕ぎ出します。舟に乗れなかった者たちは何と徒歩でガリラヤ湖の反対側まで歩いて向こう岸迄行き、そこでついにイエスさまを見つけるのでした。すごい熱意です。

・この熱心な群衆に、イエスさまはこの時、何をおっしゃったのでしょう・・「お疲れ様・・あなたがたのその熱心さにわたしは感動しました。すばらしい!」そのようなことをおっしゃったのかと思いきや・・イエスさまの口からは意外な言葉が語られたのです。

・26節「あなた方がわたしを探しているのは・・しるしを見たからではなく・・パンを食べて満腹したからです。」

・考えてみますと、この主イエスの御言葉は、何と鋭く、また、何と悲しい御言葉でしょうか・・

・イエスさまはこうおしゃっておられるわけです。「あなた方が熱心にわたしを探してここまで来たのは、わたしが救い主であるというそのしるしを見出したからというのではありません。残念なことに、あなたがたはパンを食べ満腹したからでした・・そしてその満腹した喜びとその勢いで、このわたしを、王様にしようと考えたのです。」

・続いて、イエスさまは、悲しみつつ人々にこのように語ります。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために、働きなさい。」

・すると人々は、「では、我々は、何をすべきでしょうか」と主イエスに聞き返します。

・主の答えはこうでした。29節「神が遣わした者・・(つまり、主イエス・キリストご自身のことですね。)そのわたしを・・信じること、それが神の業です。」

④話が聖書から一旦離れますが・・
70才を過ぎたころ、私は医者から「腎臓の数値があまりよくありませんね」と言われました。これは私にとって大きなショックでした。

・若かりし日、腎臓の専門医の先生から、腎臓の病気になるとほとんどの人が直らないので気を付けてくださいね」と言われたことがあったからです。

・ですから、「肝臓の数値がよくありませんね」と聞かされた時私は「ああ、しばらくすると投石することになるのかもしれないなあ・・厳しい晩年だなあ・・」そう思ったのです。

・またしばらくすると、今度は両ひざを痛めて階段が登りにくくなってしまいました。このこともショックでした。

・蓮田で整形外科医をされていた世沢先生が、「そうなったひざは、ほとんど治ることはないのですね」とおっしゃっておられたからです。

・ところがです。74才の時に別の病気で、入院騒ぎとなり・・皆さんに祈っていただいたり・・懸命の生活改善に取り組んだ結果、今、何と何と、その病がおさまっただけでなく・・治ることのほとんどないと言われていた腎臓も、両ひざも完治してしまったのでした。

・私は、「これは、正に神さまの御業だ」そう思っています。神さまに大感謝しております。しかしです。・・治りそうもない病気が癒されたという経験が私の信仰の、その基、信仰の基礎になっているのか・・と言いますと・・それは違います。

・主イエス。キリストは29節でこうおしゃっておられるからです。「神が遣わされた者を(つまり、救い主イエス・キリストのことですねこの方を信じること・・それが神の業です。」

・この聖書の訳をもう少し捕捉しますと・・ここで主イエスはこのように言っておられるわけです。「食べ物が与えられ身体の命がつながったということも、治らないと思った病が完治した、ということも、確かに神さまの御業です。大いに喜ぶべきことです。しかしそれらのことは、信仰の基(もとい)信仰の基礎にすべきことではないのです。」

・信仰の基(もとい)、それは・・<神さまに愛されているということを、あなたが、本当に信じることができた、そのことなのです。>そして、それこそが・・神さまがあなたにしてくださった御業なのです。

⑤ルカの福音書18:17でイエスさまはこのように言われたことがありました。「まことに、あなた方に言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。

・そうです。イエスさまが語っておられる、信じるということ・・それは正に、今生まれたばかりの赤ちゃんが、自分を生んでくれた、そのお母さんを信じて、そのお母さんに吸い付いてゆく、あの赤ちゃんのその心をもって、神さまに愛されているということを信じていくことなのです。

・「いい大人が赤ちゃんのような純真な心をもって信じる、そのようなことはできないのではないか・・」そうおっしゃる方がおられるかもしれません・・。

・しかしイエスさまは・・あなたが生まれたばかりの赤ちゃんのような心をもって、神さまに愛されているということを信じることができるのは・・そこに、神さまの御業があるからこそです。このようにおっしゃっておられるわけです。

・熱狂的になってイエスさまを追いかけてきた群衆は、この時、どんな表情でイエスさまのお言葉を聞いていたのでしょうか・・

・イエスさまは、その彼らに、念を押すようにこのようにおっしゃったのでした。35節以降、「わたしがいのちのパンです。」

・あなたがたはパンを与えられて、これは神の業だと歓声を上げました。確かにその通りです。勿論あの五千人の給食も神さまの御業です。しかしパンは私たちの体を支える物です。パンはパンです。パンはパン以上ではありません。食べ物は真のいのちのためのものではありません。

・いのちのパン・・それは、あなた方が食べたパンや魚ではありません。
真のいのちに至るパンは、わたしです。わたしを日々食べ、わたしのいのちをその体に取り込んでゆく者は、真のいのちに至るのです。このようにイエスさまは言われたのでした。

・「神さまに愛されている!」皆さんの、その信じる心を、今週も神さまが励まし強くしてくださることを期待しつつ、一歩一歩前進してゆきたいと思います。

・では、伊野先生にお祈りしていただきましょう。

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