「善を求めよ。悪を求めるな。」アモス書5章14節

Pastor Ino

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今回はアモス書からの2回目のメッセージです。前回は、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書4章12節)とのテーマで学びました。このみ言葉は、「わたしのもとに帰って来なかった。」とのフレーズの対比として用いられています。神様は様々な出来事を私たちの人生に許されて、私たちが立ち止まって、神を見上げる機会として用いようとされるのです。アモスは、様々な出来事が北イスラエルの民に起こったけれども、神のもとに帰ろうとしないと語りかけています。彼らはいろいろな苦しみや災害を経験しました。食料がない。雨が降らない。反対に大雨が降る。そして立ち枯れや黒穂病で作物がダメージを受ける。神は時にはあえて、様々な苦しみや災害をイスラエルの民に許されたのです。一つ一つは大変な災害や苦しみです。それでも神のもとに帰ってこなかったと、アモスはイスラエルの民に語りかけています。私は、予想もできない出来事に出会う時は、神に立ち帰ろうとの素直な信仰を持つ者でありたいと思っています。それは、どんな出来事も、神を信じる者にとっては無駄なことは無いからです。いつでも、どんな状況下でも、神に会う備えをする者でありたいです。参照ローマ8章28節。

私たちの人生のゴールは、神と共に生きること、そして天国の祝福に預かることです。「私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)」「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも餓えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)」そのようなパウロの信仰にならって、私たちもゴールをしっかり見ながら、試練や困難を乗り越える者でありたいと願います。

もう一度、アモス書の時代背景を説明します。アモスは、北イスラエルも、南ユダも経済的に大いに繁栄した時代に活躍した預言者です。ソロモン王の後にユダの民は2つの国に分かれます。北イスラエルと南ユダですが、北イスラエルの王は、人々がエルサレムに登り神を礼拝しようとする、その習慣を止めさせるために、北イスラエルの2つの町に、金の子牛を作り、新たな礼拝場を設けました。その一つの町がベテルです。彼らは、誠の神の教えから離れ、偶像を礼拝する国となってしまったのです。そのような時、南ユダの南部にあるテコアに住む農夫であったアモスに神はメッセージをゆだね、北イスラエルに派遣されたのです。アモス書7章14節で、アモスはベテルの祭司アマツヤにこう答えています。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。」と。誠の神は、農夫であったアモスを召し、北イスラエルの民を救おうとされたのです。たとえ国は繫栄しても、真の神から離れてしまったイスラエルの民にアモスは、あなたの神に会う備えをせよと語りかけるのです。

今日は5章の内容に入ります。最初に5章の結論を述べます。5章27節で、「わたしはあなたがたをダマスコのかなたへ捕え移すと、その名を万軍の神、主という方が仰せられる。」とあります。北イスラエルは神に裁かれ、捕囚とされる。5章でそのことが明らかにされています。しかし、たとえそうであっても、「主を求めて生きよ(6)」と、語りかけるのです。 5章の2節には、「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。」とあります。確かに北イスラエルはアッシリアによって倒されます。その理由として、7節で、「彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。」とあります。社会的な正義、神様の基準に沿った正義を北イスラエルの民は失ってしまったのです。そしてそれは、金の子牛を礼拝するような偶像礼拝にその一端があるのですが、それだけではなく、貧しい者を踏みつけている、そのような彼らの歩みが指摘されています。正義を失い、貧しい者を虐げ、偶像礼拝で心を満たそうとしているのです。

さて、皆さんはクリスチャンとしてどのような人生観を持っておられるのでしょう。私にとって天国の約束は何よりも大切です。キリストを信じることを通して罪の赦しが与えられ、私は天の住民とされていると信じています。これが私の根底にある希望です。その視点から物事を見て、神に喜ばれる生き方を選んで行こうと私は考えます。きっと皆さんもそうでしょう。アモスは、14節で「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。」と語りかけています。続けて15節では、「悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。」とあるのです。

私は、信仰者は一時的な裁きの先にも希望を見出して生きる者であると思っています。確かに北イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされました。しかし彼らには、回復の時が必ず訪れるのです。そのことをアモスは 、9章の中で民に語りかけています。信仰者は大きな失敗からも、学ぶことができるのです。皆さん、イスラエルの民になって考えてみましょう。まず金の子牛を礼拝することをやめるのです。5章5節に、「ベテルを求めるな。」とありますが、これは金の子牛を礼拝することをやめるようにとの言葉です。金の子牛ではなく、創造主である神を礼拝するのです。 8節には、「すばる座や、オリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主。」とあります。天地創造の神様は、朝と夜を備え、海水を蒸発させ、雨として私たちの大地を潤しておられるのです。実に美しい秩序と循環です。そのような天地創造の神様を私たちは礼拝するのです。また13節では、「それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。」とあります。賢い者は現実をよく見て、今の自分の行いを振り返ることができます。今は語るべき時なのか、そうでないのか、賢い者は神の時を待つことができます。そして神が喜ばれる生き方を選ぶのです。悪を憎み、善を愛し、正しいさばきを行う生き方です。

また24節では、「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」とあります。神の視点に立って何が正しいのか、特にモーセの十戒の視点に立って何が正しいのか判断して生きるのです。状況はどんなに悪くても、たとえ国が一時的に滅んだとしても、それでも神への信仰を持つ者は希望を持って、神の解放の時を待つことができます。アモスはそのような生き方を教えているのです。皆さんも家庭の問題や社会の問題、また個人の問題で苦しむこともあるでしょう。しかし希望を持って生きることができます。誠の神を信じる者にとって、いつか神にお会いできる。それは幸いな希望です。神の御子イエス・キリストにお会いできる幸いな日がいつか訪れるのです。その希望を持って生きる者でありたいと思うのです。もう一度、私たちのゴールは何なのか、その視点を忘れずに生きていこうではありませんか。よくやったね。あなたの人生は私にとって喜びだったよと、神が私たちに語りかけてくださる。そんな人生を選んでいこうではありませんか。14節をもう一度お読みします。「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。」

日本でも、アメリカでも、またその他多くの国々でも新しいリーダーが選ばれています。彼らが悪を憎み、善を愛し、正しい裁きを行うことができるように祈っていこうではありませんか。そして、一人一人のリーダーが、神を愛し、民を愛するように。また貧しい者を大切にできるように祈っていこうではありませんか。そして、加えて、それぞれの国のリーダーが公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流すことができるように(24節)、祈って行こうではありませんか。
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