「彼は地に倒れて」使徒9:1-9

Pastor Kitazawa

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➀イエス・キリストの弟子であり、医師でもあったルカという人は・・イエスの公生涯について記していった後、今度は、残された弟子たちが、聖霊なる神に導かれつつ、世界宣教に身を投じていった、その様子を書き記してゆきました。 これが、「使徒の働き」という書です。

・きょうは、その書の9章の所に焦点を当てて、そこに書かれてある、神さまからのメッセージを 皆さんとご一緒に読み取ってゆきたいと思います。

・ここには、「サウロ」という人物が出てきます。

・このサウロという名前は、ヘブル語の名前、つまり、へブル人ユダヤの呼び方です。
ギリシャ語名は「パウロス」です。 

・ですから日本語の聖書は、このパウロスという呼び方から訳された「パウロ」となっています。

・そうです。ここに出て来るサウロとは、皆さんが既によくご存じの、後に弟子の仲間となり、初代教会の指導者となって大活躍していった、あの使徒パウロのことです。

・彼はパリサイ派の、裕福な、そして、厳格な家庭に生まれて、いわばユダヤ人のエリートとして育ち、当時考えられる最高の教育を受けてきた一人でありました。

・また彼は、ユダヤ人でありながらも、ローマ市民権をも取得しておりました。

・ですから、彼は、エリートであり、大変な博学であっただけでなく、当時最強の国家であったローマ帝国の、その市民権をも有していた国際人でもあったのです。

・そういうわけで、このサウロは、若くして既に将来のイスラエルの民のエースとして期待されていて、ユダヤ教徒としての宗教的権威、ローマ人としての政治的権威の両方の立場に立っていたので、彼のこの国でのその影響力は絶大であったのです。

・では、この時期のイスラエルの民は、どんな社会情勢に中に置かれていたのでしょうか・・。

・実は、この時代、この国は、微妙な政治的状況にあったのです。

・この辺一帯は、ローマ帝国に支配されていまして・・自治権は、一応、住民であるユダヤ人に任されていたのですが・・それは表向きでした。

・実際は、この国はローマ帝国に支配されていたので、ここにはその軍隊が駐留していましたし、ローマから派遣されてきたその長官の許可なくして、国の行く末を決めるような大きな決定はできなかったのです。

・ですから、誇り高いユダヤ人には、当然ながら不満がたまっておりました。

・また、丁度この時期に・・「イエスこそ我らの救い主、その救い主イエス・キリストを私たちは殺してしまったのだった。そうだ、私たちは、この過ちを認め、神の御前に心から悔い改めなければならないのです。」そう叫ぶ、キリスト者と言われる人たちが現れて・・その主張が多くの民衆の胸につき刺さり、人々の心は、激しく揺らされていたのです。

・このような不安定要因に、危機感を覚えていた次期エースと期待されていたサウロは動きます。ユダヤ教の伝統、ユダヤ民族の誇りを重んじるサウロは、先ず、このキリスト者たちへの弾圧をはじめるのでした。

・そうです。キリスト者への最初の迫害は、他でもない、このサウロによって始められたのでした。

・この時代的背景を、頭の片隅に置きながら、きょうの個所を読んでゆきますと・・その出来事のあらましがより良く見えてくると思います。

➁さて、きょう開いております使徒の働き9章という所は、その最初の迫害者となっていったサウロという男が、ダマスコ、一般の言い方ですとダマスカス、これはシリヤの首都ですが・・この地にやって来た時の出来事が書かれております。

・それは、ダマスカスの街に入る寸前で起こりました。

・突然、天からの鋭い光が彼を照らし・・彼は、その光の余りの強さに、地に倒れてしまいます。

・そしてその時、彼はこのような声を聞いたのでした。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか!」

・サウロは、この強い光によって、地に倒れ・・その光の衝撃により、目は開いていても、
何も見えない目となり・・自分では何もできず・・彼は、人々に手を引かれて、ようやく
ダマスカスの街に入ることができたのでした。

・皆さん。この時のサウロの様子を想像してみてください。

・ここまでのサウロは、強い影響力で、この地方の権力たちを使って、キリスト者たちを蹴散らしてきたのです・・

・彼は、己の様々な能力・・若さ・・血筋・・実行力・・雄弁さ・・学歴・・地位・・そういう様々な力をフルに使い、自己実現にまい進してきたのです。彼はそういう強い人間でした。

・しかし、今、神に打たれ、地に倒れ込んでしまった後のサウロの姿は一変したのでした。

・目は開いていてもものが見えず・・どっちに行ったらよいのか自分ではまったくわからず・・動くこともできず・・ようやく、人々に手を引かれて、おぼつかない足取りで、その街に入っていくことしかできなかったのでした。

・そうです。彼は、この時、単に地に倒されただけでなく、いままで誇っていた、そのプライドを一瞬にして失い・・彼の魂は、今、粉々に砕かれてしまったのでした。 

・つまり、彼は、人々を威圧する、様々な鎧(よろい)を着こんでいたのですが・・この時彼は、その鎧をすべて失い、どこにでもいる、弱弱しい一人の人間となってしまったのでありました。 

・よほどの衝撃だったのでしょう。彼はこの後3日の間、目が見えず、飲み食いもできなかったのでした。

・しかし、これは、神さまの哀れみであり、恵みでありました。
詩篇34:18にはこのような御言葉語られています。
 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ。 たましいの砕かれた者を救われる。」

③この後、神さまは、このサウロに新しく生きてゆくために、温かい手を差し伸べてゆきます。
 
・神さまは、この街に住んでいたキリスト者のアナニヤという人格者を用いて、サウロが、あらゆる面で回復してゆくように導かれてゆくのでした。

・いやこれは、回復というよりも、再生・・或いは、新しく生き返る・・新生と言うべきだと思います。

・この時の様子を、聖書はこのように伝えています。
 →「サウロの目からウロコのような物が落ちて、目が見えるようになった。
   彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」

・皆さんはどこかで、「目からうろこが落ちた」このような表現を聞いたことがあると思いますが・・これは、きょうの、この聖書個所から来た言い方なのです。

④聖書はここで、サウロのこの経験を通して、私たちに、二つのことを語っています。

・その第一の事は、「己の罪について」です。 「己の罪のその深さについて」です。

・罪という言葉を聞きますと、多くの人は・・悪い事、犯罪、そういうことを連想してしまいます。しかし、サウロがここで語っているのは・・自分が悪いことをしてしまったとか、自分には悪いところもある・・そういうこと語っているのではありません。

・サウロは、そういう怪しい、いかにも悪の道に歩きやすい、そういうやくざっぽい人間では、まったくありませんでした。 彼は正反対の人間でした。

・彼は、人一倍まじめで、超優等生で・・人一倍教養があり・・ついでに、この時代重んじられた家柄や血筋も完璧で・・同時に、彼は国際人としても認められていた、いわば立派な生き方をしている、そういう人間の一人だったのです。

・また彼には、これが正しいと思えば、その考えをすぐに実行してゆく能力も、その精神力も、充分ありました。つまり、彼はいわゆる、崩れやすい人間、乱れやすい人間でもなかったのです。

・しかし・・もしかすると・・彼の様に、あらゆる能力を豊かに持ち、周りの人々を圧倒するほど様々な力のある人間は・・対、神さまに対して、己の罪を自覚するということに関しては、逆に、見えにくかったのかもしれません。 

・人間的力に富み過ぎていて・・自分が、実は、神さまに敵対している、神さまを悲しませている、そういう自分なのだ、という己の罪の自覚を持つことには、乏しかったのかもしれません。

・その間、彼は何をしていたのか‥といいますと・・「もっと神に忠実でなければ!もっと、もっと!」そう己の心に気合を入れて日々突き進んでいたのでした。

・ですから、彼は、主イエス・キリストこそ我らの救い主、そう叫んでいたキリスト者たちがいる、と聞くと・・そこに行く、男であろうと、女であろうと捕まえて、牢屋に送り込んでいたのでした。そうすることが、神さまを喜ばせることであると強く思っていたからです。

・そして、結局、彼は、相変わらず・・己の罪と向き合わず・・、つまり、神さまの本当の思いを知ることもなく・・この日を迎えていたのでした。

⑤ダマスカス郊外にいて、神さまに打たれ、地に倒れたことは先ほどお話しした通りですが・・

・彼が、己の罪ということに気が付きはじめ・・その己の罪の、余りに大きいこと・・そしてその罪がもたらした咎は、正に取り返しのつかないほどの事であった、と気づきはじめたのは、その後のことでした。

・それは、彼が皆に手を引かれて、街に収容され、目の見えないままにベットの上に置かれた、その後のことだったと思います。

・ものも見えず・・何かを食べることもできず・・真っ暗闇の中に置かれたサウロは何を思っていたのでしょうか・・

・おそらく、この時、彼の頭の中では、あの神さまの御声が何回も何回も響き渡っていたのではないでしょうか・・→「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか!」

・そして、おそらく、彼は、自分が迫害してきた多くの人たちのことを思い出していたのだと思います。 特に、最初に殺してしまった、あのステパノのことを思い出していたに違いありません。

・このステパノというキリスト者は、当時のユダヤの人々に、イエスこそ救い主であることを語り、人間の罪について語り、人々にその罪からの悔い改めを迫せまった、そういう人でした。

・すると、それを聞いた群衆は、何者かに先導されるかのように、このステパノを町の外に連れ出し、そしてその場で彼を石打ちの刑にして殺してしまったのでした。 

・この時の様子は使徒の働き7:54-60にこのように書かれています。
 短い所ですので、読んでみます。 → 朗読

・話を今日の聖書個所に戻しますが・・真っ暗闇のベットの上に置かれたサウロの頭の中には、このステパノが死んでゆくその出来事が何回も何回も再生されていたに違いありません。

・ステパノは、誰の手によって殺されたのか・・・確かに、直接石を投げて彼を殺したのは‥そこにいた群衆たちでした。

・しかし、この時、その群衆は、このサウロに、そのお墨付きをとったのでした。
つまり、「ステパノという男は、即刻、石打ちの刑に処するべき」 群衆は、サウロから出ている、この暗黙の指示(サイン)を確認し、自分たちの上着をサウロの前に置き、それぞれが石を持ち、ステパノに向かって殺到したのでした。

・では、ステパノは、殺されるとき、「サウロ、覚えおけ!殺せと命じたはお前なんだぞ!」
 「いいか、覚えておけ!」そんなことを言い残して死んで逝ったのか、と言いますと・・
全然違いました。

・ステパノが死んだ時の様子はこのようでした。
 この時彼はこうお祈りをします。→ 「主イエスよ。わたしの霊をお受けください。」  
そして、その後・・彼はひざまずいて、大声で・・こう叫んだのでした。
→「主よ。この罪を彼らに追わせないでください。」

・ダマスカスの一室で、このステパノの死様を何回も思い起こすことになったサウロは・・
この、己の罪深さに心の激痛を覚え・・神様の御前に、その己の罪を心から認め・・回心し・・ここで、イエス・キリスト、この方にお仕えする決心したのでした。

⑥きょうの聖書個所にあるサウロの告白には、もう一つ大事なことが語られています。
彼が、ここで・・「私は、主イエスに語り掛けられた」と告白していることです。

・彼は主に、このように語られます。→4節「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」

○この私は、サウロのように、主イエス・キリストから直接声を掛けられた、という経験は
ありません。しかし、今、主が、この私を確かに見つめておられる、そして、私の胸に、強く語り掛けていられる・・そういう経験は何回もしてきました。

・私の経験は、さておき・・それはいつかお話しするとして・・

・ダマスカス途上で、サウロは・・主イエス・キリストからこう語られました。
→「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか・・」 

・そうです。何と、何と、サウロは直接主イエスに語り掛けられたのでした。 そして、彼は、この方に、粉々に砕かれていったのでした。

・彼は幸せだったと思います。

⑦ある日、主イエス・キリストは、弟子たちにこう語られたことがありました。
「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」 

・これは主イエス・キリストの御言葉を余りに直訳的にしているので、かえってわかりにくい感じがしますが・・。

・この御言葉の意味はこういうことです。 

・「心の中に何もなく、空っぽ・・その人は不幸な人などのではけしてありません。 
神さまによって、心の中に、プライドとか、人生設計とか・・自尊心とか・・自分への自信・・そういうものを取り去られた人は、不幸せな人ではありません。
天の御国はその人たちのものだからです。

・そうです。サウロは正に、そのような人となったのでした。 強い自分を作り上げてきたサウロは、心の中にあるものを全部取り去られ・・主のしもべ使徒パウロとなったのでした。

・この時の、この主イエス・キリストの、その同じまなざしが・・、ここにいる私たち一人一人にもそそがれている・・それはどんなに幸いなことありましょうか・・

・この主のまなざしをもう一度思い起こし、砕かれた一人一人として・・新しい一週間を始めていきたいと思います。

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