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今日はマルコの福音書13章から、再び来られるイエスを待つというテーマでお話しします。
待つと言えば、最近、私はビザの更新で、嬉しくはない待つ経験をしました。ビザはいつもは4週間から8週間で更新できるのですが、今回は5か月もかかりました。持っていたビザの有効期限が切れて2か月もたって、ようやく新しいビザを受け取ることができました。本当に長く大変な待つ経験となりましたが、無事に届き、本当にほっとしています。このビザによって、これからまた3年間、日本に住めることを神に感謝します。
聖書には、再び来られるイエスを待つことは長く厳しいものかもしれないと書かれています。信者にとってイエスの再臨は喜ばしいことですが、まずその前に非常に恐ろしいことが必ず起こると書かれています。
マルコ13章には、イエスの再臨の前の最後の時のことなどについて、たくさんの預言が書かれています。これらの預言が実際にすでに起こったかどうか、クリスチャンの間でもいろいろな見方があります。今日はこれらの預言の解釈ではなくて、再臨のイエスを待っている間に、私たちが為すべきことについて、イエスは何と言っているのか、このことについて話したいと思います。聖書箇所を読む前に祈りましょう。
(マルコの福音書13章を読む)
再び来られるイエスを待っている間、私たちはどのように生きるべきでしょうか。この章でイエスは「気を付けていなさい」と三度言っています。どのように私たちは注意し、心を備えておけばよいのでしょうか。まず、心構えとして、良いことだけではなく、悪いことも起こることを覚えておきましょう。第二に、再臨のイエスを待つ間、イエスから与えられた仕事をするということです。
【崩壊、惑わし、災害、差別など悪いことが起こるかもしれない】
この章では、崩壊や惑わし、災害や差別のような悪いことが起こると書かれています。イエスは、悪いことについて書かれている預言や教えを通して、世界の状況の悪化に対して心を備えておくように言っています。
<宮の崩壊> (2節)
まず、宮が破壊されます。イエスは、これから起こるエルサレムの崩壊に対して、信者に心を備えておいてほしかったのです。
2節のイエスの言葉通り、それからたった40年後のAD70年に、エルサレムの宮はローマによって破壊されてしまいました。宮は単なる建物ではありませんでした。それはユダヤ人の宗教とアイデンティティの中心でした。ですから宮が破壊されたことは、ユダヤ人にとっては大惨事といえることでした。宮だけでなく、エルサレムの大部分が破壊され、多くの人々が殺され、奴隷にされました。
<偽メシアと偽預言者による惑わし>(5節~)
次に惑わしが起こります。ウィキペデアには、過去100年間に自分はメシアだとかイエスだと主張した人たちの長い一覧表が載っています。偽メシアや偽預言者が現れるから気を付けなさいと、イエスは言います。5節にあるように、奇蹟を行う偽預言者も出てくるので、クリスチャンも惑わされてしまうかもしれません。
イエスは、再臨はサプライズであることを強調しました。しかし間違いなくイエスは戻って来るのであって、明確で明白なことなのです。
26節に「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです。」と書いてあるように。私の妻のおじいさんは、このことで興味深いことを言っていました。何十年も前におじいさんがテレビを初めて見た時、こう思ったそうです。「ああ、こうやってイエスがお戻りになるのを皆が一斉に見ることができるんだ」と。
<災害と戦争>(7節~)
さて、7節、8節には自然災害や戦争を予期しなければならないと書かれています。「これらは産みの苦しみの初めである」とイエスは言います。
女性のお産の痛みは赤ちゃんの誕生の前に起こります。イエスの再臨で頂点に達するまで、この世では苦しみが増し、ますます悪化していくでしょう。イエスが再び来られて、全てが正しくされ、全ての痛みや苦しみは終わるのです。
<クリスチャンへの差別や迫害>(9節~)
最後にクリスチャンへの差別や迫害があると9節から13節に書かれています。差別や迫害で非難を受けるとしても、心配することはありません。その時何を言うべきかは、聖霊が教えてくれるからです。使徒の働きには、ペテロとパウロが逮捕された時、聖霊の力によって堅く信仰に立った彼らが、大胆に信仰を宣べ伝えたことが書かれています。
以上、挙げてきたことは、とても怖いですが、イエスが「案じるにはおよびません」と言っていたのを忘れずに覚えておきましょう。聖霊は私たちと共におられ、助けてくださいます。伊野牧師が前回ダニエル書からメッセージしてくださったように、私たちはクリスチャンとして試練に遭うことを予期していなければいけません。でもそれを心配しなくてもいいのです。何故なら、本当に困った時いつでも神の恵みが私たちに与えられているからです。たとえ神が試練から常に助け出してくださらないとしても、神は、困難の真っただ中にある私たちといつも共にいてくださり、強めてくださるお方です。
<主からの仕事をしましょう:福音を語り、耐え忍びましょう>
イエスの再臨を待つ時に、私たちは受け身になったり、油断していてはいけません。私たちはイエスから与えられた仕事を果たしていかなくてはなりません。
34節から36節にあるように、私たちは主人が家をあける時にいろいろな仕事を割り当てられる、しもべのようです。
この仕事とは何でしょうか。全員が全く同じ仕事というわけではないでしょう。何故なら神は私たち一人一人を違う人間として造り、それぞれに異なる人生、環境を与えてくださっているわけですから。ただ、私たちは皆、イエスの福音を伝え、信仰を忍耐強く持ち続けていくよう求められています。これこそ私たちが主人から与えられている仕事の一部です。
10節には「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」と書かれています。私たち皆が、説教壇のところで話す人にならなければいけないということではありません。教会の建物だけが、人々がイエスのことを聞く場所ではないのです。住んでいるところ、職場、学校でも、私たちを通して人々はイエスのことを聞くことができます。また言葉で伝えられなくても、隣人を愛する生き方を通して、私たちは神の愛や神の真実を伝えることができます。
イエスのことや信仰について話すことは簡単ではありません。いつか、それはもっと難しくなるかもしれません。今はクリスチャンは日本で迫害されていませんが、状況が変わることだってあり得ます。もしもそのようなことが起こっても、13節の「また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」というみことばを思い出しましょう。信仰を持って耐え忍びましょう。途中であきらめてはいけません。
信仰を持ってただ耐え忍び、ただ神に忠実であること自体が大切な仕事です。クリスチャンとして、学生として、また働いていたり、様々な環境の中で、皆さんは何か人生でちゃんと達成してきたことってあるのかなと思っているかもしれません。でも、あなたの忠実さ自体が神にとって尊いものなのです。このことを覚えて励ましを受けてください。神への奉仕をたゆまず続けていること、そして神に従って生きていること、それらを神は褒めてくださいます。
神は私たちの主であると同時にお父さんでもあります。あなたは単に雇われている人ではありません。あなたは神の子どもなのです。成功とか、ノルマを果たすというようなことを、完全な愛を持っておられる私たちの父は求めてはおられません。父なる神が望んでおられるのは、私たちが神と共に生きて、神を愛し、神に似た者へと人格を成長させていくことなのです。
<待つことについての4つの考え>
ここまでをまとめます。再び戻ってこられるイエスを待つ時に、私たちが通らねばならない困難があるかもしれませんが、それを驚かずに覚えておきましょう。それほど困難ではない時も、主が私たちに与える仕事に対して受け身になったり、自己満足してしまわないように気を付けましょう。それはつまり、福音を周りの人たちに伝え、辛抱強く最後まで信仰を持ち続けるということです。私たちは聖霊の助けによって、それを為すことができます。
待つことに関して4つ、考えを述べたいと思います。
第一に、自分が何を待ち望んでいるかをわかっていれば、待つことはたやすいということです。例えばディズニーランドでは2時間くらい待つものだと知っていれば、アトラクションのために2時間待つことは容易ですね。未来にどういうことが起こるかをイエスが教えてくださっている、つまり私たちには困難もあるけれども、イエスの助けも与えられるとイエスが教えてくださっているので、途中で投げ出してしまう可能性は多分低いでしょう。
第二に、ご褒美を楽しみにしていれば、待つことは簡単だということです。人々は何故、あるラーメン屋さんに45分も並ぶのでしょうか。何故ならご褒美を楽しみにしているからです。そのラーメンへの思いがよだれを誘い、心はドキドキわくわくしますね。
何故クリスチャンが何世紀にもわたる迫害に耐えてこられたのか、それは一つには、苦しみが褒美に価すると確信していたからです。私たちは、主の御手から喜びや救い、永遠の命、全く新しい天と地での新たな命を受け取ります。今も将来も、私たちはご褒美をいただけるのです。そしてイエスは私たちに向かってこう言ってくださるでしょう。「よくやった、よい忠実なしもべだ」と。
第三に、一緒に待つ人がいると、待つことは簡単ですね。待つことは運動に似ています。一緒にする友だちがいると、続けやすいですね。ですから人々はお金を払ってパーソナルトレーナーを雇います。一人では無理だとわかっているからです。イエスの忠実なしもべでいることは簡単ではありません。ですから私たちは聖霊が必要ですし、信仰を共にする兄弟姉妹互いを必要としています。それで私たちは今日集まっているのですよね。
第四に、待つことで私たちは、よりよい人間になることができます。ビザのことで心配だった時に、「神さま、何で私はこんな目にあっているのですか。」と神に文句を言いました。その時、私は娘がマクドナルドのハッピーセットをもらいに、また行きたいと言ってきたことを思い出しました。私は、マクドナルドに行くのをもう1週間待ってほしいと娘に頼みました。娘は、少し前にマクドナルドで新しいおもちゃとアイスクリームをもらっていたからです。いつも娘の要求を受け入れていたら、娘は甘やかされて、忍耐力を身につけることはできません。ところで、いつも新しい物や体によくないジャンクフードを欲しがるのは、子どもだけではありませんね。大概の大人も大きな違いはありませんね。
親として、娘をしつけるのは私の責任です。聖書はこのトレーニングをdiscipline、日本語では「しつけ」とか「懲らしめ」とか訳されています。この言葉はへブル12章9節から11節に出てきます。「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
またローマ5章3節から5節にはこうあります。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
神に何か行動してほしい、神に何かしてほしい、待つことを終わらせてほしいと、望む方がいるなら、心を強く持ってほしいと思います。もしこれ以上待つことはとてもできないと思うなら、更なる助けや励ましを与えてくださるように、神に祈ってみてください。そして、ここにいる兄弟姉妹があなたのために祈ることができます。
最後に祈りましょう。
私たちの王なる神さま、あの週の最初の日、あなたのひとり子イエス・キリストが蘇えられたことで、あなたは罪を打ち砕き、死を退け、永遠の命の希望を私たちに与えてくださいました。この勝利によって私たちの全ての日々を贖ってください。私たちの罪をお許しください。恐れを消し去ってください。大胆にあなたをほめたたえ、あなたの御心を行う者とさせてください。そして偉大なる最後の日の御国の完成を待ち望むことができるように、私たちを導いてください。主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン
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