「よき知らせをあなたに」(ルカ1章1-4節)

Pastor Kitazawa

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➀きょうから皆さんと一緒に読んでゆきますこのルカの福音書には、冒頭のところに何やら手紙文のような前文がついております。

・ある方は「こんな、前文などは、飛ばしてもいいのではないか・・そうお考えになられたかもしれません・・」

・しかし、ここにも、神さまからの大事なメッセージが隠されているということに、私たちは気が付かなければなりません。

・キリスト者であり、使徒パウロの親友であり、医者であったルカは、この福音書、つまり、「神さまからの喜びの知らせ」を、一人の人宛に届けようとしました。それは、「テオピロ」という人物でした。

・このテオピロという人が、どういう人であるのか・・このことを調べてみますと・・この人は、どうやら「コンスル」日本語では執政官(しつせいかん)という、ローマ帝国の行政の最高責任者の地位にあった二人にうちの一人であったようなのです。

・使徒の働きの最初の所にも、この「テオピロ」という名前が出て来ます。つまりテオピロというこの人は、帝国最高位の高官の一人であり、ルカのパトロンであった人物だったようです。

・なぜそんな、社会的地位の高い人をルカは知っていたのか?
その点はあまりよくわかってはいません。

・もしかすると・・、医者であったルカはこの高い地位のお偉方を治療してあげたことがあったのかもしれません。 しかし、そういういきさつについては、この際あまり大事なことではないと思います。

・そういうことより、注目すべきは・・ルカというキリスト者が、一人の個人に向けて、喜びの知らせの手紙を書いていった、ここに注目すべきだと思います。

・ある聖書学者は・・、テオピロというのは、ギリシャ語で「神の友」という意味があるから、ルカは一人の個人に手紙を書いたというよりも、神の友である私たち全体に良き知らせを記していったのではないか・・そのように解説しているのですが・・
私は、そういう解釈には少し無理があると思っています。

・ルカはやはり、この文面通り、一人の人に、何とか福音が届けられるようにと熱い思いを持って語っていった、そう解釈するのが自然だと思います。

・つまり、この「喜びの知らせ」は・・全世界の人を相手に語っている・・不特定多数の数多くの人たちに丁度一つのニュースのように語られている・・そういう類のものではなくて・・
・一人の人を相手に、熱い熱い思いをもって語られている・・つまり福音書は、神さまから一人一人に語られている、言わば、神さまから一人の人への愛の手紙であった・・

・私は、この前文はそういうことを表している所でもある・・そう思うのです。

➁もうだいぶ前になりましたけれども・・愛知の教会におりました時のクリスマスの夕拝のことでした。

・その日は、会堂にいっぱいの人が集まっていて、見慣れない顔の方もたくさんおられました。

・特に、近くにある名古屋芸大の学生が誘い合って、このクリスマス礼拝にいっぱい集まって来ていたのでした。

・礼拝が終わり・・ 教会の青年会の女性が、私を呼び止め、一人の人を私に紹介してくれました。
 「この子は・・後輩です。芸大の学生です。 きょう、初めて教会に来てくれたんです。」
 「彼女のお父さんは、お寺の僧侶をしておられるんです。」

・それを聞いた私はとても嬉しくなって思わずこう言いました。 「本当によく来てくださいましたね・・」「どうでしたか?教会の礼拝はどんな感じを受けましたか?・・」

・すると、その女子学生は、少し小さい声で・このように言われたのでした。
 「教会に来て、一つ発見しました。」

・私は、「お寺さんのお嬢さんが、教会に来て、何かを発見した」と聞きましたので、即座にこう聞き返しました。「それは何ですか?」

・すると少し間があって・・その女子学生はこう言われたのでした・・。
「そうですね・・お寺での話は・・そこにいる、みんなに話している、そういう感じですが・・」

 「教会でのお話は・・何か、私に話してくる・・そこが全然違うなと思いました・・。」
 
・私は・・「お寺に出かけて行って、真面目にお坊さんのお話を聞いた」という経験がないものですから・・  

・「ああ・・そうなんだ、そう感じるんだ・・」そう思い・・このときの、この女子学生の言葉がとても印象深く心に残ったのでした。

○そうです。この方が感じたように・・ 聖書の、神さまからのメッセージは・・まさに、私たちの・・その一人、一人に、語ってくる・・そういうものではないでしょうか・・。

・つまり、聖書の神さまからの御言葉は・・他でもない、あなたへの個人的な手紙・・いわば、神さまからあなたへの個人的なラブレターであるわけです。

・ルカの福音書の冒頭の前文は、そのことを私たちに教えている・・私はそう思うのです。

③さて・・この前文の最後に、ルカはこう書きました。
「すでに、教えを受けられた事柄が、確実な事実であることを、よくわかっていただきたい」・・

・つまり、ルカは、こう言っているわけです。
「これから私が、記していくことは・・神秘的な話・・いわゆる、創作神話などではありません・・・そういう非現実の話ではないのです・・」 「そうではなくて・・これは、歴史上の事実・・・現実の出来事を記しているのです。」・・こう言っているわけです。

・イエス・キリストの公生涯を伝えている福音書には4つの福音書があります。その一つであるマタイの福音書は・・神学的解説が随所に入ってきます。ヨハネの福音書も・・そうです。解説が入ります。(もっとも、そこがまた素晴らしいのですが・・)

・しかしルカは、そういうことを極力避けています。 医者であったルカの記述は、どこか、医者の書く病状記録・・カルテに似ていると思います。

・実際に起こった出来事を解説抜きでそのまま記していった・・これがルカの福音書の一つの特徴です。

・またルカは・・これから私が書いてゆくことは、人が修業を積んだり、哲学をしたりして、見出していったある境地について語っているのではないのです・・。彼はこのことを言っているのです。

・「私は、ただ、実際にあった事実を伝えます。 是非、このことをわかって、いただきたい・・」・・ルカは、この前文で、そう訴えているわけです。

④ルカは、「一人の人に伝えたかった・・」このことを思いますと・・私は、あの方・・主イエス・キリストのその姿を思い浮かべるのです・・。

・その日は祭りの日でした。 聖書はその祭りが何の祭りであったのかについて書いての記述はありません。(過ぎ越しの祭りであったというのが有力ですが・・)兎に角、人々はこの日を楽しみにしていたのです。

・多くの家庭ではいつもと違うごちそうが用意されていました。 町中のあちらこちらに・・楽しい笑い声、嬉しそうな歓声が響いていました。

・そのような町中を、主イエスはあるところに向かっておられました。 

・主イエスの行かれた所・・そこはベテスダという池でした。

・このベテスダという池には、五つの回廊が付いていて、そこには大勢の病人。盲人。足のなえた人。やせ衰えた者たちが臥せっているのでした。

・この人たちは、何をしていたのか、と言いますと・・ この池は間欠泉で・・時折、温泉が沸き上がり、その時、一番にこの池に飛び込むことができれば、それらの病は癒される、というデマがあったことから・・彼らは、わら尾を掴むような気持ちでそこに集まっていたのでした。
何というわびしい光景でしょうか・・。

・主は、そこで、38年もの長い間病気にかかり、そこに臥せっている人を見つけ、その人にこう語り掛けたのでした。 ・・「よくなりたいか・・」

・そうです。主イエス・キリストは・・世界中にこの人しかいないかのように、この人のところに向かい・・そして、この人を見つめ・・「起きて、床を取り上げて、歩きなさい」と命じるのでした。

・聖書は、「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」と伝えています。

⑤そこで私は、今・・この福音を記していった、このルカと同じ魂をもって、みなさんに申し上げたいのです。

・この後語られてゆく福音、つまり、よき知らせは・・けして、IBFの皆さん全体に知らせたいそういうお知らせではありません・・。そうではなくて・・神様が愛している、他でのない、あなたに、この喜びを知らせえお届けたいのです・・。

・あなたを愛する神さまは・・あなたが、まるで、世界に一人しかいないかのように・・・
 あなたお一人を見つめておられる・・そのようなお方だからです・・。

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