三位一体と二ケア信条 (第1):唯一の神それとも三つの位格(いかく)?

(音声メッセージは第一礼拝後にアップする予定です。)

私たちの信仰の中で最も大きな神秘の一つが、三位一体です。三位一体を理解するのも、説明するのも簡単ではありません。私たちは「唯一の神を信じています」と言いますが、同時に「神は父と子と聖霊という三つの位格である」とも言います。では、神は一人なのか、それとも三人なのか。どうすれば「一つの神」でありながら「三つの位格」であると説明できるのでしょうか?シンプルに「私たちは唯一の神を信じています。以上」と言ってはいけないのでしょうか。

今日の私のメッセージの目的は、三位一体を完全に納得できるように説明することではありません。私自身にとっても、限られた人間の経験では三位一体を理解するのは難しく、また限られた人間の言葉で語るのも容易ではありません。

今日は、三位一体がどのように表現されて、まとめられてきたか、その一つをお伝えしたいと思います。それが「ニケア信条」です。

皆さんの多くは「使徒信条」に親しんでいると思います。私たちは毎月、聖餐(せいさん)式の前にこの信条を唱えていますね。西暦325年に制定されたニケア信条は、使徒信条と似ていますが、より詳しく書かれており、より多くの教派で用いられています。ニケア信条は、教会史の初期に神学者たちによって、イエスが神であることが疑問視された際、一体イエスはどなたなのかを明確にするために記されました。

二ケア信条は、使徒信条と共に、クリスチャンの信仰が書かれている宣言文の中で、最も古い文書の一つです。実は今年2025年は、ニケア信条が制定されてから1700周年にあたります。

この記念の年であることが、私がニケア信条について語る一つの理由です。
しかし、それ以上に大きな理由は、三位一体という教えがキリスト教にとって欠かせない信仰であり、ニケア信条が何世紀にもわたって、三位一体の内容を要約するものとして用いられてきたからです。

ニケア信条がどのように「父」「子」「聖霊」の存在と本質を要約しているかについて、今日から何回かに分けて、お話していこうと思います。

今日のメッセージでは、2つのことをお話しします。

まず第一に、ニケア信条がどのようにして作られたのか、その歴史について、
そして第二に、なぜニケア信条(および他の信条)が、21世紀を生きる私たちクリスチャンにとって今も重要であるのかについて、お話したいと思います。

今後のメッセージでは、「父なる神」「御子キリスト」「聖霊」それぞれの存在について、詳しく語っていく予定です。多分、三位一体のそれぞれの位格について、1回ずつに分けて、お話ししていこうと思っています。

それではまずお祈りします。お祈りの後、皆さんで立って、ニケア信条を一緒に唱えたいと思います。

<ニケア信条> (日本基督教団 改革長老教会協議会 教会研究所訳)

わたしたちは、唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。
わたしたちは、唯一の主、神の独り子、イエス・キリストを信じます。

主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました。

主は、わたしたち人間のため、またわたしたちの救いのために、天より降り、聖霊によって、おとめマリアより肉体を取って、人となり、わたしたちのためにポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って、三日目によみがえり、天に昇られました。

そして天の父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。

その御国は終わることがありません。
わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました。
わたしたちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます。

わたしたちは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を、信じ告白します。

わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を待ち望みます。

アーメン

<神はどうして一つでありながら三つなのか?>

まず少し歴史を振り返ってみましょう。キリスト教が始まったころから、クリスチャンたちはイエスを神として礼拝していました。たとえば、復活したイエスに出会った使徒トマスは、「先生」や「師」ではなく、「わが主、わが神よ」(ヨハネ20章28節)と言いました。

これは多くのユダヤ人にとって衝撃的なことでした。なぜなら、ユダヤ教は厳格な一神教だからです。モーセの時代から、「神は唯一である」と信じてきたからです。

ユダヤ人である初期のクリスチャンたちは、イエスは神であると信じながら、「神は唯一である」とも信じていました。彼らは、父なる神は完全な神、御子なるイエスも完全な神、聖霊も完全な神だと信じていました。けれども、そう聞くと、神が三人いるように思えます。では、どうして神は一つでありながら三つなのでしょうか。

この深い謎に向き合い、信仰に忠実にこの真理を語ろうとしたのが初期の神学者たちです。

その中の一人が、2世紀のテルトゥリアヌスという神学者で、彼が「三位一体」という言葉を作りました。彼はこう教えました。「神は一つの本質を持つ三つの位格である。三者はそれぞれ神であり、区別されているが、一つの神である。」

テルトゥリアヌスはこの謎を完全に説明したわけではありませんが、今も教会で用いられる有益な言葉を残しました。

一方で、別の神学者たちは、のちに「異端」とされる考えを唱えました。例えば、3世紀のサベリウスという人は、「神は一人だが、三つの形を使い分けるだけだ」と教えました。まるで俳優が三つの仮面を付け替えるように、時には父、時には子、時には聖霊の役を演じる――という考えです。しかしこの考えでは、聖書の中にある、父と子と聖霊の間の関係性が消えてしまいます。

そして4世紀には、アリウスという神学者が現れました。当時、皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認したばかりの時代です。アリウスはエジプトのアレクサンドリアにいた牧師で、父なる神の偉大さを守りたいと考えていました。彼はこう思ったのです。「イエスが完全に神だとしたら、神が弱くなってしまうのではないか。だってイエスは苦しみ、疲れ、死んだのだから。」

それでアリウスは、「御子(イエス)は父なる神と同等ではない。御子は崇められるべき、いと高き方ではあるが、父なる神によって造られた方にすぎない。人間より上だが、神ではない。」と教えました。

そして「御子が存在しなかった時があった」と言ったのです。アリウスはこの教えを広めるために賛美歌まで作り、人々はアレクサンドリアの街中でそれを歌いました。

けれども、アリウスの教えは聖書の真理と食い違っています。今日は深く掘り下げませんけれども、とにかくアリウスは「御子は造られたすべてのものより先に生まれた方です。」と書かれたコロサイ1章15節だけに注目し、キリストは神だとする他の多くの聖書箇所を無視してしまいました。

異端とは、多くの場合、聖書の一部だけを強調して、全体のバランスを失うことから生まれます。異端はよい目的や意図から始まることがありますが、福音の真髄、中心から人々を離れさせてしまいます。アリウスは「父なる神の偉大さを守りたい」という良い意図から出発しましたが、結果的に「御子イエスの真理」を犠牲にしてしまいました。

<ニケア公会議とコンスタンティヌス帝に対する誤解>

アリウスの教えはローマ帝国全体に広まり、信徒たちの間に混乱と分裂をもたらしました。平和と一致を望んだ皇帝コンスタンティヌスは、この問題を話し合うために司教たちを招集しました。

紀元325年、300人を超える司教たちがニケアという町に集まりました。

彼らの目的は、新しい教えを作ることではなく、聖書にすでに示されている真理を明確にすることでした。激しい議論の末、司教たちはアリウスの教えを退け、「御子(キリスト)はまことの神である」と結論づけました。

その信仰の告白が、今日まで教会で告白されているニケア信条のもとになったのです。その56年後、「聖霊も完全な神である」ことも加えられました。

ところが、一部の本や映画では、「コンスタンティヌス帝がニケア公会議を利用してキリスト教を作った」とか、「彼が聖書の内容を決め、イエスを神にした」と語られることがあります。しかし、これはよくある誤解であり、事実ではありません。理由は三つあります。

第一に、コンスタンティヌス帝自身はむしろアリウスやその支持者たちに好意的でした。彼の息子のコンスタンティウス帝は、後になってアリウスの教えを広めようとしました。つまり、皇帝たちの政治がいつも「イエスは完全な神であり完全な人である」という信仰を支持していたわけではないのです。

第二に、新約聖書の書物は、ニケア公会議よりずっと前から教会で聖書として認められていました。ですから、この会議は聖書の内容を決める場ではありませんでした。

そして第三に、ニケヤ会議が「イエスを神にした」わけではありません。キリストが神であることは、教会史の最初の頃からすでに信じられ、イエスは神として礼拝されていました。ニケア会議の司教たちは、イエスの弟子たちから受け継いだ信仰を守り抜いたと言えます。

<ニケア信条が今日も大切な三つの理由>

さて、ここまでは歴史をお話しました。では、次に私たちはなぜ今もニケア信条を大切にする必要があるのでしょうか。

理由は三つあります。一つには、この信条は、私たちに正しい信仰を教えてくれます。二つ目には、誤った教えから私たちを守ってくれます。三つ目には、さまざまな背景を持つキリスト者たちを一つに結び合わせてくれます。

1)正しい信仰を教えるもの

まず、ニケア信条は常に「信仰を教える手段」として用いられてきました。これは聖書に基く基本的な教えを要約したものです。ニケア信条は何世紀にもわたって、初期の教会で洗礼を受ける準備をしている人々に信仰を教えるために使われていました。長年信者である私たちにとっても、この信条は重要な役割を果たしています。私たちに「神がどのようなお方であるか」を示してくれるからです。「どうして毎週、信条を唱える必要があるんだろうか?もう知っている基本的なことばかりじゃないか。子どもの日曜学校レベルの内容だよ」と思う人もいるかもしれません。

けれども、私の答えはこうです──それを「基本的すぎる」と感じるのは、まさに何度も繰り返し聞いているからです。そして、その繰り返しによって、私たちは「キリスト教の根本的な信仰」と「そうでないもの」とを識別できるようになっているのです。

私たちは、礼拝のスタイルについて意見が分かれることは構いませんが、「神の本質」について意見が分かれるのは深刻な問題です。

もし私たちが「もう基本的すぎて、皆知ってるよ」と言って信条を唱えるのをやめ、福音の基礎を教えなくなったらどうなるでしょうか。100年後、いや10年後の教会はどうなっているでしょうか。

ラテン語に「lex credendi, lex orandi, lex vivendi」という言葉があります。これは、「何を信じているかが礼拝の形を決め、どのように礼拝するかが私たちの生き方を形づくる」という意味です。

たとえば、自分自身や自分の感情にだけ焦点を当てた賛美歌での礼拝と、神ご自身や神のご性質、神のみわざに焦点を当てた賛美歌での礼拝だったら、私たちへの影響は違ったものになるのではないでしょうか。

礼拝の目的は、単に自分の気持ちを神に表す時間だけでもないし、また神の臨在を感じることだけでもありません。礼拝によって私たちの生き方そのものが形作られること、それも礼拝の目的です。だからこそ、多くの教派で、使徒信条やニケア信条を礼拝の中で定期的に唱えるのです。これらを繰り返し唱えることによって、時間をかけて私たちの「信仰の核心」が形づくられ、強められていきます。

ところで、アメリカ人の作家で牧師でもあるユージン・ピーターソンが書いた心温まる話を紹介します。

彼の教会に来ていた女性信者の夫は無神論者でした。夫は妻に付き添って礼拝に来るものの、長い間、礼拝中ずっと黙ったままでした。しかし、少しずつ変化が起きました。ある日曜、ユージンはその男性が使徒信条の最初の言葉──「我らは唯一の神を信ず」──を小声でつぶやいているのに気づきました。数週間後には、さらに多くの部分を声に出して言うようになり、ついには使徒信条全体を最初から最後まで唱えるようになりました。ある日ユージンが彼に尋ねました。「使徒信条の言葉を本当に信じているのですか?」すると彼は答えました。「はい。信じています。そして、洗礼を受ける準備ができたと思います。」この男性は使徒信条を通して、キリスト教の核心的な信仰をすぐに理解することができたのです。

2)神学的誤りから私たちを守るもの

ニケア信条や使徒信条が役立つ第二の理由は、神学的な誤りから私たちを守ってくれることです。山道のガードレールのように、信条は私たちが「異端」という崖から転落しないように守ってくれます。ニケア信条は、特に二つの重大な誤り――アリウス派とサベリウス派――から私たちを守ってくれます。

  • アリウス派は、「御子(キリスト)は完全な神ではない」と主張します。現代の例で言えば、エホバの証人のようなグループ、またはイエスを偉大な教師としては尊敬するが、神ではないとする人々がこれにあたります。ですが、もしイエスが完全な神でないなら、私たちを救うことはできません。この点については、今後の宣教メッセージでさらに詳しくお話ししたいと思います。
  • 一方でサベリウス派は、父・子・聖霊の間には実際の区別はないという考えです。現代の例では、ワンネス・ペンテコステ派などがあります。また、「三位一体は化学記号のH₂Oのようなものだ」と言う人もいます。H₂Oは、水・氷・蒸気の三つの形を持っています。この「水のたとえ」を使って神を説明するクリスチャンも多いですが、実はそれはサベリウス派的な考え方なのです。というのも、神がただ「形を変えている」だけなら、それは三つの位格ではなく、一人の神が三つの形をとっているだけになります。そうすると、父・子・聖霊のあいだに本当の愛や交わりが存在しなくなり、聖書が明らかにしている神の本質的な部分が失われてしまうのです。

もし私たちが聖書の神についての教えを無視したり誤解したりすると、まったく別の神を礼拝してしまう危険があります。そして、聖書の神を礼拝していないなら、それは私たちの救いにも影響を及ぼします。
ニケア信条は、「栄光と威厳において等しい、三つの位格における唯一の神」という、聖書の神を正確かつ慎重な言葉で表しています。

3)時代と教派を超えてクリスチャンを結びつけるもの 

最後に、ニケア信条は、何世紀にもわたる歴史と多様な伝統を超えて、クリスチャンを結びつける役割を果たします。

教派の違いがしばしばキリスト者の一致を脅かしますが、この信条にある共通の信仰によって私たちを一つにします。ニケア信条を告白するグループには、ローマ・カトリック、東方正教会、英国国教会、ルター派、長老派、メソジストなど、数多くの教派があります。小さな事柄では意見の違いがあっても、同じ信条を告白しているのです。

私たちがニケア信条を唱えるとき、私たちは一人ではありません。全世界の兄弟姉妹たち、そして1700年の歴史を通じて信仰を受け継いできた人々と共に立っているのです。
このように信条を唱えることは、過去の信仰者たちとつながる一つの方法でもあります。今日の多くの福音派教会が抱える弱点の一つは、キリスト教の長い歴史についての知識に欠けていること、その長い歴史と自分たちとを結びつける視点が乏しいことです。私たちはクリスチャンとして、自分たちの信仰の歴史を知ることが大切なのです。

 <結論>

まとめると、ニケア信条(および他の信条)は、私たちにキリスト教の核となる信仰を教え、誤りから守り、時代と教派を超えて信者たちを結びつけてくれます。
信条は私たちを歴史に根づかせ、聖書の真理にしっかりとつなぎとめます。それは、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊はどのような方かも含めて、福音を忠実にまとめたものです。

もし父なる神が御子を遣わされなかったなら、罪の贖(あがな)いはありません。もし御子が完全な神であり完全な人でなかったなら、救いも義も成り立ちません。もし聖霊なる神がおられなければ、クリスチャンに新しい命はありません。これらのことについて、今後さらに深く掘り下げていきたいと思います。

これらの教えは決して簡単ではありません。もし誰かが新しい宗教を作ろうとしたら、「三位一体」などという教えは考えつかないでしょう。もっとシンプルな教えにするのではないでしょうか。 それでも、これこそが何世紀にもわたって、私たちに受け継がれてきた信仰なのです。

キリスト教の信仰には、常に深く考えるべきこと、問い続けること、新しく学ぶこと、そして最後まで神秘として残るものがあるのではないでしょうか。

祈り

全能の神よ、
あなたは、栄光に満ちた威光と完全な愛をもって、
唯一の神として 三位一体というかたちで
ご自身の永遠の存在を教会に示してくださいました。

どうか私たちがこの信仰の告白において
堅く立ち続ける恵みをお与えください。
また、父と子と聖霊なるあなたを
絶えず礼拝する者とならせてください。

あなたは、今も、そして永遠に、
唯一の神として生き、支配しておられます。

イエスさまのお名前によってお祈りします。
アーメン 

 

 

 

 

 

 

 

 

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