↓メッセージが聞けます。(日曜礼拝録音)
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○きょうの聖書個所は、以前、礼拝で取り上げたことがあります。
・しかし前回だけでは、この個所にあるその大事なメッセージの、その半分もお伝えできていないのではないか・・私にはそういう思いがあります。
・そこできょうは少し角度を変えながら、もう一度この個所から主イエス・キリストのその愛のとてつもない深さについてご一緒に学んでゆきたら・・そう思っております。
➀さて、イエスさまのその時代、ユダヤの街にはパリサイ人と呼ばれていた人たちがおりました。
・この「パリサイ人」と言いますのは、日本人とかアメリカ人というような、国の所属を表している言葉ではありません。 これはいわばあだ名(nick name)でした。
・パリサイとは「分離」「わけへだてする」という意味です。
・つまり、彼らは、人々に「正しい信仰者というのは、この世と分離していなければならない!」
このようにいつも主張していた人たちであったところからこのようなあだ名が付いたのでした。
・この日、そのパリサイ人の一人であったシモンという男が、なぜか主イエスを自分の家に招いたのでありました。
・パリサイ人たちは、神の愛とその赦しを説いていたイエスさまのことを日頃苦々しく思っていたはずですが、このパリサイ人であるシモンは、なぜかイエスさまを自分の家に招いたのでした。その動機はなぞです。
・しかし主イエスは、このシモンの招きに応じて彼の家にやってきたのです。そして食卓に着いたのでした。
・食卓に着いたといっても・・今皆さんがお座りになっておられる、そのような形で着席したわけではありませんでした。
・当時の人たちは・・足を横に投げ出し、片腕を支えに体を横にしたような形で食卓に着く・・これが正式な座り方だったようです。
➁するとそこに、一人の女性が泣きながら入ってきました。そして主イエスの御足のそばに立ち、持ってきた石膏の壺を開け、香油を塗ろうとしたのですが・・彼女は流れ出る涙が止まらず、またその涙が主イエスの御足にぽたぽたと落ちたので、彼女はその涙を自分の髪の毛で拭いながら、主イエスの御足に香油を塗っていったのでした。
・この様子を、シモンは、実にパリサイ人らしく、鋭い眼差しで見ておりました。
・そして彼は、心ひそかにこう思ったのです。「なぜこのような汚れた女にこのようなことを平気させているのか・・この女がどんな女であるのか知っているはずだ・・売春婦をやっている女ではないか・・イエスよ、なぜこの女を排除しないのか!」
・このシモンの心の内を察した主イエスは、先ず彼に短い譬え話を語ります。
・それはこのような譬え話でした。
「一人の人が、2500万円程の大金を借りていた。 もう一人の人は25万円程借りていた。 しかしこの二人とも返すことが出来ずにいて困っていた・・。これをかわいそうに思った金貸しは、その二人の借金を無かったことにしてあげた・・」
・この譬え話を語った後に主イエスはシモンにこう聞きました。
「さてこの後、この二人のどちらの方がよりこの金貸しに感謝し、金貸しを愛することになるでしょうか・・」
・普通イエスさまが語られたた譬え話は、そのほとんどが「なぞかけ」でした。ですからその答えは簡単ではありませんでした。ところがこの譬え話はなぞかけにはなっていませんでした。
・ですからこの時のシモンの答えも予想通りのものでした。彼はこう答えます。
→「それは、後の者です。」
③このシモンの答えを聞いた主イエスは、この後彼にこう問いかけます。
→ 「この女を見ましたか?」
・一瞬、彼はとても驚いたと思います。 「えっ?この不潔な女ですか? この女のどこを見ればいいというのですか?」 そういう気持ちになったと思います。
・この主イエスの問いかけを、現代の言い方に代えてみますとこいう問いかけになります。
「あなたはこの女の人を見ましたか? この人をよく見れば、この人の内側に、・・あなたにはけっしてない、真実の心を見つけることができるではないでしょうか・・」
・この主イエスの問いかけですが・・よくよく考えてみますと、この問いかけはシモンだけになされているものではなくて・・これは同時に現代の私たち一人一人への問いかけでもあるのではないか・・私はそう思うのです。
・「この女を見ましたか?」「この女の真実の心があなたにはわかりますか?」この問いかけです。
・この時この女性は大量の涙を流しつづけ、その涙はなかなか止まりませんでした。
なぜこれほどまで彼女の涙は止まらなかったのでしょうか・・。
・みなさんはどのように思われるでしょうか・・。私は、この彼女の大量の涙には、深い訳があったに違いない、そう思うのです。
・それは先ず、積もり積もった彼女の後悔の念から出ていた涙であったと思います。
・当時、このような女性たちは、やむを得ずこのような生活に沈んでいた場合がほとんどであったようです。 この時代のユダヤの社会は・・貧乏の家庭に産まれたら最後、ほとんどの者が一生貧乏でなければならない、そういうひどい封建社会であったようです。
・また、極端な男社会でしたので・・万が一、父親や夫が病気や事故や戦争などで亡くなって、しまった場合、その家族の女性たちは非常にきびしい立場に追い込まれてくのでした。
・また、そこに飢餓が加わったりれば、もう日々の食べるにも困り・・追い詰められた女性は我が子と共に土を食べて、結局死んでゆくか‥母親が売春婦となって子どもを育ててゆくか・・そんな究極の決断をしなければならないことになってしまう・・そういう人たちも少なくなかったようです。
・しかし、身を売って生きてゆく・・これは人間として、また神さまに従おうとする者にとって余りに不本意な生き方であったと思います。彼女の涙が止まらないのもうなずけます。
・しかし、彼女の大量の涙が止まらないその理由はそれだけではなかったのでした。
・後悔と負い目が日々大きくなってゆくそのような苦しい毎日を送っていたこの女性はある時、主イエス・キリストの宣教を聞く機会があったのでしょう。
・そして、彼女は「この方こそ、罪と死のその絶望から私たちを救い出してくださる方である」ということがわかり、その福音を心から信じたのでしょう。
・そしてある日、彼女はこの救い主イエスがシモンの家にやってくることを知ったのでした。
・この時、彼女はなぜか香油を持参してきました。 そして、その香油を惜しげもなく主イエスの御足にそそいでゆくのでした。
・この後の主イエスの説明によると・・彼女は、主イエスこそ、自分たちの罪の赦しと、自分たちのまことのいのちの希望のために身代わりの死を遂げてゆく贖い主であるということを悟っていたようです。
・香油を塗るというこの行為は、愛する者が亡くなってしまったその遺体にする行為でした。
・そうです。これほどまでに、おびただしい涙を彼女が流しつづけていたのは・・十字架で死んでゆかれるこの方と間もなくお別れしなければならないその悲しみ・・また、自分の罪を受け止め、赦し・・自分を悔い改めへと導いてくださったその計り知れない愛への感謝・・これらの思いが折り重なって・・彼女の胸の内に何かのかたまりのようになって詰まっていたからにほかなりません。
・ですから彼女の涙は流れても流れても止まらなかったのでした・・。
④ここで話は一気に旧約聖書時代に飛びますが・・旧約聖書にサムエルという人物が出て来ます。
・このサムエルという人は、イスラエルの民の歴史において大変重要な役割りを担った人物でした。彼は当時最も頼られていた預言者であり、キングメーカーでもありました。
・このサムエルが、初代王サウル王の、次の王を決めなければならないその時、彼は、長老たちにこのように語ったということが聖書に記されています。
・Ⅰサムエル16:7です。
「主は・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
・神さまの御心を非常に深く理解していた天才サムエルは、ここで、長老たちに先ず
→「神さまは、人が見ているようには見ておられない。」
・そう語った後に、彼は、神さまがどこを見ているのかについてこのように語りました。
・神は、人々が観ている、その人のうわべではなく・・その人の心・・その人の心にある真実を見つめておられるのです。
⑤そうです。主イエス・キリストは、この時、正にそういう視点をもってこの女性を見つめておられたのでした。
・そして、目の前にいたシモンにこう聞いたのです。 「この女の人のその心の内を見なさい。」
・この人の心には真実と、神を愛するその力が満ちている・・あなたはそのことに気が付きませんか・・」と聞いたのでした。
・そういうわけで、主イエスは47節の所でこう宣言しておられます。 :47→
「わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは・・彼女がよけい愛したからです。しかし・・少ししか赦さない者は、少ししか愛しません。」
・そしてイエスさまは彼女にこうも宣言するのでした。50節「あなたのそのすばらしい信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
・みなさんは、この二つの主イエスの宣言をどのように受け止めておられるのでしょうか・・。
⑤牧師をさせていただいていると、時々、すばらしい質問をされることがあります。
・愛知県で牧師をしていた頃の事です。ある方からこのような質問をいただいたことがありました。
「先生、私、お祈りの時、いつも、<愛する神さま>と言ってお祈りを始めるのですけれども・・本当の所・・私は神さまを愛しているのかあやしいのです。
でも、神さまを本当に愛している方がとても羨ましいのです。先生、どうしたら、神さまを本当に愛する人になれるでしょうか・・」 このようなご質問でした。
・答えに困った私は、ふと、きょうの聖書個所に出てきた情勢の事を思い出して、このように言ってその場を取り繕いました。→「ルカ7章36節からの所に出て来る女の人ことを学ぶといいのではないでしょうか・・」
・しかしあの後、私は、「そういう答えで本当によかったのかな」という思いが残って、その日は何か落ち着きませんでした。
・しかし次の日になってもう一度きょうのこの個所をゆっくり読み返してみました時、「本当にそうだな。あの答えで良かったなあ・・」そう思ったのでした。
・そうです。きょうのこの聖書個所は、主イエスのそのまなざしの温かさ、またその優しさがあふれ出ている個所ですが・・そうであるだけでなく、この個所は、私たちがその主を愛してゆくための、その愛の源(みなもと)について教えられている個所でもあるのです。
・今週もこの主の優しいまなざしの中にあって、きょうの聖書個所に出てきた女性を私たちの大事な教師として・・私たちも、精一杯神さまを愛し、また、神さまが愛しておられる隣人を愛して行きたい・・そのように思うのです。
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