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最初に、イエスは群衆に向かって言われる。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」(35―37節)と。ここでキーとなる言葉は、今日のテーマである、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる、という言葉である。ヘブライ語ではこの詩篇110篇1節は、(唯一の神である)ヤーウェが、私の主に言われたとなっている。ダビデ自身が、聖霊によって、キリストをわたしの主と呼ばれたという事実である。イエスは続けて語られる。「どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」と。この言葉は、イエスこそ、受肉されたメシアであって、メシアがダビデの子であると同時に、神の子であることを指し示している。さあ、お気づきであろうか。このメシアは、新しい時代をもたらせようとしている。ダビデもその日を預言しておられた。新しい時代、新約の時代は、旧約の律法を守ることによって救われるのではない。救い主を信じることによって救われて行く、そのような新しい時代が彼らの近くに到来しようとしているのである。
次に、イエスは、「律法学者たちには気をつけなさい。」(38)と、律法学者たちの行動の間違いを指摘し始める。ここでは、彼らの2つの姿勢を指摘している。まず、自分たちの権威にこだわっている姿勢である。「彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、とある。長い衣とは、学者や富む者がその威厳を示すために着たものである。自分たちは特別な者であることを人々にアピールするために着て、自分たちの権威を見せびらかせようとしている。会堂の上席や、宴会の上席が大好きであることも、自分たちの虚栄心と尊大な態度の現れである。次に、「やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。」とある。やもめの家を食いつぶすとは、専門の法律家の地位を利用して、富めるやもめの訴えを処理し、その財産をかすめることを意味する。彼らの祈りは、見えを飾るために長くなるようである。ここで、もう一度確認したい。行いによる救いを求める者は、このような生き方に自然となってしまうものである。当時、旧約聖書に書かれていない多くの規定を、「言い伝え」として教え、思い荷を群衆に負わせていた者たちが、律法学者であり、パリサイ人であった。時間のある方は、マタイ15章を開いて見てほしい。負えない重荷からの解放をイエスは私たちに与えてくださっている。マタイ11章28-30節には、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とある。キリストを信じて生きる人生は、重荷からの解放であり、虚栄心からも解放された人生である。キリストの愛を日々受け取って生きる人生があることに、あなたにも気づいていただきたいと思う。
3番目に、ひとりの貧しいやもめを通して、献金の姿勢が問われている。「多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。」と書かれている。レプタ銅貨2枚とは、今のお金で200円くらいである。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われる。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」と。献金は、お金の額ではない。献金の価値は、すべてを神にゆだねた生き方がしめされていることにある。困難な中でも、神は私を守ってくださる。そして、支えてくださるとの私たちの信仰や感謝が献金の根底にある。そのような思いを持って、私も精一杯、神様への感謝をささげて行きたいと願う。私の賛美で、また、祈りで、そして献金をもって神に感謝を表す生き方を全うして行きたいと心から願っている。
今日のテーマは、「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる」である。私たちもキリストを主と呼んで、キリストを心の真中に迎えて行こうではないか。キリストと生きる人生は決して重荷をになう人生ではない。むしろ、重荷から解放され、聖霊の助けをいただいて生きる人生である。律法主義からも解放され、キリストの恵みにとどまって生きる人生であると、私は信じている。