ほむべき方の子、キリスト「わたしは、それです。」(マルコ14:62)

Pastor Ino
↓メッセージが聞けます:
今回は、「わたしは、それです。」(マルコ14:62)からのメッセージです。十字架を前にして、イエスは簡単な裁判を受けることになる。イエスに対する偽証をした者が多かったが、一致しなかったと書かれている。大祭司は、イエスに尋ねて言う。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と。その答えが、今日のメッセージのテーマである。今日のメッセージを通して、私たちもイエスをキリストとして信じるのか、それとも、イエスを嘘つきとするのか、その決断を迫られることとなる。ご一緒にイエスを救い主と信じ、この救い主を心の中心に迎えて生きる人生を送る者とさせて頂きたいと願っています。
マルコ14章43-72節を読んでいただきたい。
ゲッセマネの祈りに続いて、イエスは当時のリーダーたちによって差し向けられた群衆により、逮捕されてしまう。愛する弟子の一人、ユダの口づけの合図によって、イエスは捕らえれてしまう。そして、弟子たちみながイエスを見捨てて、逃げてしまう。そんな悲しい現実がおこる。イエスは、自分の苦難は聖書の預言の成就であることを知っておられて、「わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」(49節)と語られている。イエスの弟子たち同様に、わたしたち信仰者も、時に自分たちの信仰を否定するような厳しい現実に直面することもある。第二次世界大戦時の日本のクリスチャンも大変な状況に直面した。肉体的な迫害を受けた者も多い。今でも他宗教の文化を持つ日本では、自分の信仰や信念を否定しなければならないような状況に直面することもある。私たちもそんな状況に立たされる時、イエスは弱い自分たちを知っておられ、変わらずに愛しておられることに気づいて行きたいと思う。弟子たちも復活されたイエスによって赦され、励まされ、育てられて行ったことに気付いていきたいと願う。マルコは、51節である青年の経験を記録している。この青年をこの福音書を書いたマルコであると理解する者もいる。しかし、マルコであると断定する内容は記録されていない。この青年は、「素肌に亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。」と書かれている。イエスのために何かしてあげたいと願ったこの青年も何もできずに、自分の亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げたとある。もし、この青年がマルコであったら、私(マルコ)も含めて、弟子たちみなが、突然の恐れの中に入れられたのです。でもこんな私もよき証人となれたのです。教会の交わりによって私(マルコ)は、育てられたのです、とのメッセージがこの中に読み取ることもできるのではと、私は思う。
逮捕に続いて、簡単な裁判が夜遅く、また、翌日早く行われる。53節には、「彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まってきた。」55,56節には、「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。」と書かれている。その中で、一つの偽証が取り上げられている。
それは、ヨハネ2章19―22節に書かれている内容である。イエスは、宮きよめをしたときに、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と語ったことを覚えておられるだろうか。その時、「イエスはご自身のからだの神殿のことを言われたのである。」とある。22節には、「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスのいわれたことばとを信じた。」とある。弟子たちでさえ、復活のイエスに会うまで、理解できなかった言葉である。この言葉を、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言う。「わたしたちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる。』と言うのを聞きました。」と。あたかも、イエスが神殿を実際に壊そうとしているように。そうであっても、私は、そのように言うことが、死刑に値する内容なのか疑問をいだかざるをえない。しかしながら、イエスの言葉によって、クリスチャンは、エルサレムの神殿にもう縛られていないことがわかる。礼拝はどこででもできる。イエスが3日目によみがえったことで、イエスを信じる礼拝者の群れが世界中に広がることになる。新約の時代が始まったのだ。弟子たちもそのことが理解できた時は、復活のイエスにお会いしてからである。
さて、偽証が一致しない現実に、大祭司は、本質的な質問をする必要にせまられる。その質問こそ、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」(61節)である。ほむべき方とは、神に向かって語られる言葉であり、キリストとは、救い主、メシアを意味する言葉である。この大祭司は、あなたは、メシアですかと問いかけることとなる。イエスの答えは、「わたしは、それです。」と答え、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたは見るはずです。」と加えられている。詩篇110篇1節とダニエル書7章13節の言葉が引用されている。ここで、イエスは、人の子は栄光をもって審判者として再臨することが述べられている。その言葉にこの大祭司はどのように応答したのであろうか。残念ながら、イエスこそ救い主であることを大祭司も長老たちも理解しようとはしない。ただ、イエスを死刑にするために、その証拠をつかむことのみに彼らの思いは縛られている。63、64節には、「すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いていった。『これでもまた、証人が必要でしょうか。』あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。」と。すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。と書かれている。このイエスは救い主であるのか、それとも大ウソつきなのか、私たちも、同様に決断する必要にせまられている。真実はイエスは救い主なのか、そうではないか、2つに1つである。レビ記24章16節に、「主の御名を冒とくする者は必ず殺されなければならない。」と書かれている。そのことを根拠に、イエスは神を冒とくする者と理解し、死刑に値すると決断したようである。イエスへの裁判は、聞く耳を持たない者が、イエスを死刑にするためになしたものと言えようと、私は思う。しかしながら、イエスの使命は、人類の罪の贖いをすることである。十字架に着けられたイエスは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)とまず、祈られる。次回はイエスの十字架をとりあげるが、私たちも、弟子たちもこの祈りによって、神に赦されている存在であることに気づいていただきたいと思う。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」とテモテへの手紙第一2章5,6節に書かれている。イエスはキリストとして、唯一の仲介者となってくださったことを共に感謝していきたいと願っています。
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