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ヤコブ5章12節には、「何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、はいをはい、いいえをいいえとしなさい。」と書かれています。主が来られるまで、決して高ぶらないで、信仰者として謙遜な歩み、またへりくだりの歩みをするようにとまずチャレンジしています。もちろんすべての誓いが悪いわけではありません。結婚式の誓約は生涯をかけて守っていくものです。ここで、誓わないようにとの勧めは、イエスが山上の垂訓の中でも語られていることです。マタイ5章33-37節に、イエスの言葉が紹介されています。当時のユダヤ人は自分の言葉に重みを持たせるために主の御名によって誓うことがあったようです。しかし、誓いを破る時には、私は神に誓ったのではなく、ほかの物に誓ったのですとの言い訳が一般的であったようです。しかしイエスは彼らに向かい、はいははいで、いいえはいいえで十分ですよ、と語りかけておられます。自分の言葉に責任を持つ、軽率な誓いはしない、自分のことばに神の御名を用いた権威付けなど、本当に必要なのかと、ここで私たちに問いかけています。良く私も絶対そうよ、との言葉を耳にすることがあります。しかし、絶対は神様だけのもので、100%の絶対は人間社会のなかでは存在するのかなと思うこともあります。ヤコブはそんな私たちに、自分の言葉に権威付けはいりませんよ。神様ご自身があなたの人生を握っておられるのですよと指摘しているように私は考えています。
13-14節には、祈りなさい、賛美しなさい、祈ってもらいなさい、と信仰者の日常生活に合わせて具体的な勧めをヤコブは書いています。13節で、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と書かれています。苦しんでいるとの言葉は10節の苦難と同義語で、あらゆる種類の不幸や災難を指しています。不幸や災難を前にして私たちはただ祈るだけです。それも、信仰者として、ロマ書8章28節の、神はすべてを最善にしてくださるとの約束を信じて。まず祈るという新しい習慣を身に付けて行きましょう。人に助けを求める前に、神に目を向けて祈る習慣を身に着けて行きたいです。祈りは、4章8節にあるように、神に近づく私たちの特権でもあります。祈りを通して、「神はあなたがたに近づいてくださいます。」との約束をいただくこともできるのです。続いて、「喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」と書かれています。喜ぶ、賛美する、そして感謝する、これらの習慣も身に着けた信仰者でありたいと願っています。参照コロサイ書3:16。
14節には、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」と書かれています。病気の癒しのための祈りが書かれています。しかしこれは教会での祈りの力の現れでもあります。当時は、オリーブ油は薬として使われていましたし、(参照ルカ10:34)、油は神の臨在の象徴でもありました。また、初代教会では、癒しの働きが顕著で、癒しの賜物を持つ方々が多く長老に選ばれたようです。このような背景がこの聖句には隠れています。今でも教会に癒しの賜物を持つ信仰者を、時に神は起こしてくださっています。15節にあるように、「信仰による祈りは、病む人を回復させます。」との約束は今でも真実であると私は信じています。病む人とのギリシャ語は、一般的に弱っている人を指す言葉です。祈りが教会の交わりの中でなされる時に、神の顕著な働きを祈りを通して私たちは目撃することがあるのです。私たちは、弱っている人が強められるようにと祈るとともに、罪の赦しのためにも祈ります。互いのために祈る時、16節にあるように、その時に心の回復やいやしが起こり、義人の祈りは働くと、大きな力があるとのこの聖句の約束を経験するのではないでしょうか。
19節からは、真理から迷い出た者を連れ戻す働きについて言及しています。迷い出た一匹の羊のために愛を注いでくださるイエスがおられるのです。そのようなイエスの愛を手本として、迷い出た仲間に愛を注いでいく姿勢を忘れてはいけないと思っています。主が戻ってこられるまで、耐え忍びなさい、と私たちはチャレンジされています。謙遜な心を忘れてはいけません。主を信頼して、祈りや感謝を表すことを忘れずに生きて行こうではありませんか。教会での回復の業を目撃する信仰者でありたいと願っています。
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