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皆さんおはようございます。前回のメッセージで、マルコの福音書の最初の節にある、「福音」という言葉が、救い主なるイエス、そして王なるイエスを理解する助けとなるとお話ししました。今日はマルコの福音書1章を掘り下げていきたいと思います。
(マルコの福音書1:1~15)
先駆者 バプテスマのヨハネ
福音書はイエスについて書かれたものですが、2節からマルコがバプテスマのヨハネについて語っていることは大変興味深いことです。
イエスのいとこであるバプテスマのヨハネは、人気のある説教者でした。しかしヨハネは、「もし私を偉大と思うなら、イエスの言うことをよく聞きなさい」と言いました。ヨハネがイエスに洗礼を授けた時、イエスの権威を認める天からの声がしました。イエスは単なるヨハネのいとこではありませんでした。イエスこそ神の一人子、約束の救い主でした。
マルコは、ヨハネの言葉、そしてヨハネがイエスに洗礼を授けた場面を記し、次の点をしっかりと読者に伝えようとしました。
それはまず、イエスがどなたなのかを示すことによって、何故イエスのメッセージに耳を傾けるべきかという点です。 また、イエスがただの信心深い人ではなかったことを強調しています。更に、イエスは新しい教えを説く説教者として現れたのではなく、旧約の教えを成就するために来たことを読者に伝えようとしました。
それでは、イエスは何を言い、何をしたのでしょうか。マルコ1章14節~15節には「・・・イエスは、ガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」と書かれています。
この箇所でマルコはイエスの教えの大事な部分を一言でまとめています。それは「悔い改めて、福音を信じなさい」です。
いくつか言葉を取り上げてひも解いていきたいと思います。まず「悔い改める」という言葉から説明します。
悔い改めは心も伴う
悔い改めについて3つお話します。
まず、イエスの教えは真新しいものではありませんでした。ヨハネは悔い改めと罪の許しを説いていました。悔い改めの考えは今日、人々にそれほど好まれる考えではありませんが、イエスの教えでとても大切な要素でした。イエスのメッセージは、「心配しなくて大丈夫、ハッピーにいきましょう」というものではありませんでした。イエスが十字架につけられ、蘇られ、天に昇られた後、弟子たちが繰り返し教えたことは、イエスに従うには罪を悔い改めなければならないということでした。
第二に、悔い改めない人々は主を受け入れることができないということです。もし主の敵ならば、主と争うことになり、主を喜んで受け入れることはできません。悔い改めない人は、「神のことは支持しない。立ち去れ!」とか「我々は神を必要としない。そもそも神とは誰か」などと言うでしょう。こうなると主の道をまっすぐに整えるどころか、でこぼこ道になってしまいます。バプテスマのヨハネがこの世に送られたのは、イエスが来た時にイスラエルの人々が彼らの神を受け入れることができるようにするためです。その準備には、イスラエルの人々が罪を告白することも入っていました。洗礼という行為を通して、心が変えられたことを目に見える形で言い表し、新たな気持ちで喜びを持って神の言葉を受け入れると表明するのです。
第三に、悔い改めは心と結びついていなくてはなりません。悔い改めは後悔の思いとか、悪い行いを止めることだと考えられがちです。確かにそれは正しいのですが、マルコが書いたギリシャ語での「悔い改め」は本来、「心や考えを変えること」を意味します。変えなければならないのは外側の態度だけではなく、その態度に至らせた根本となる考えを変えることです。私たちは悪い習慣を止めようとしてどれだけ失敗したでしょうか。それは私たちが木の枝を切っていただけで、根っこを切っていなかったからです。
イブの罪の始まりには、神に反抗しようという意識はありませんでした。イブは悪魔にそそのかされ、一見純粋に見える思いから罪を犯してしまいました。しばしば、私たちの罪は、明らかに罪だといえるものではありません。何故なら、例えば、「これさえ手に入れられれば、私は幸せになれる」というような、一見すれば悪気のない純粋な思いから罪が始まることがあるからです。
イエスの時代におけるパリサイ人の罪も、最初は神に喜んでもらいたいという、よい思いからだったかもしれません。一見、最も信心深い同胞のユダヤ人をイエスが非難したのは興味深いですね。イエスはパリサイ人の信仰深さを非難したのではありません。そうではなく、パリサイ人の信仰深さは間違った方向を向いてしまっていると言っていたのです。パリサイ人は大切ではない規則に縛られ、神の御心を理解していなかったからです。
ですから、間違った方向に進んでいると教えてくれる聖霊が必要です。詩編139篇23-24節には「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。
そして私たちの神は優しいお方だということを覚えておきましょう。恐れてはいけません。いたずらをした子どものお尻をたたこうと神は待ち構えているのではありません。神はあなたを抱きしめ、あなたがもっと満ち足りた人生を生きていくにはどうしたらよいか教えようとしておられます。
間違った方向から正しい方向に向きを変えることが悔い改めだと言うクリスチャンもいます。正しい方向とは何でしょうか。イエスは言いました。「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と。このイエスの言葉によれば、正しい方向に進むことは、「福音を信じること」です。
御国という福音
イエスの言う「福音」はどういう意味だったのでしょうか。実は間違いなく、今日、クリスチャンが使っている「福音」とは違うものでした。私たちが現在使っている「福音」の定義は、「神の一人子イエスが、あなたの罪のために十字架に架かり死なれ、3日目に蘇り、神と共に永遠に治める。イエスをあなたの主として、そして救い主として信じるなら、永遠の命が与えられる。」というものです。しかし、マルコ1章15節の「福音」は違います。何故なら、イエスが自分の死と蘇りについて教えているのは、マルコの福音書8章31節に記されているように、後の方になってからなのです。ですから1章でイエスが言う「福音」は、神の王国、御国の知らせと考えられます。
王国には、王がいて、王が支配する民と領土があります。私たちが最初にある種の王国を見るのは創世記です。そこでは、アダムとイブが神の支配の下で生きていました。しかし、二人は王なる神に逆らったため、この王国はだめになってしまいました。次に王国が登場するのは古代イスラエル王国の時代です。イスラエルの民はアダムとイブの罪を繰り返し犯し、外国勢力に領土を奪われてしまいました。しかし、神はイスラエルの民をあきらめませんでした。神は預言者たちを送って、王国を建て直す救い主がやって来ると預言させました。
イエスは、自分こそがそれらの預言の成就であると教えました。イエスこそが救い主なる王であり、神の王国をもたらすと。マルコ1章では、それは間接的に記されています。しかし、例えばルカの福音者4章など他の箇所で、イエスははっきりと自らを救い主と宣言しています。
イエスの時代に、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。しかし、多くのユダヤ人たちは、救い主が来て彼らの王国とプライドを建て直してくれるという望みを抱いていました。イエスの言葉を聞いた時に、多くのユダヤ人たちは「やっと神はローマ人をやっつけてくれる」と思ったことでしょう。
しかし、それは間違いでした。何故なら、神の王国は実際の国ではなく、霊的なものだったからです。イエスは死の前に、そのことをはっきりと言いました。ヨハネ18章36節「イエスは答えられた。『わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。』」
イエスは、ローマ人からイスラエルの民を解放するために来たのではなく、もっと大きな敵、私たちの心を支配する罪から解放するために来てくださいました。外側の問題から解放するためではなく、この世の問題の根源となる内側の心の問題から私たちを自由にするために、イエスは来てくださいました。これこそ福音です。何故なら、私たちにとって、人間が執り行う政府がよければそれで十分ではないからです。
私たちはよく国や政府に文句を言います。この世のシステムは腐っていて、壊れています。結局、多くのリーダーにがっかりさせられます。だからこそイエスのメッセージはよい知らせなのです。まず、このよい知らせは、この世界には問題があり、誰かがそれを修復しなければならないと言います。第二に、神がそれらの問題を解決しようとしておられると言います。実際、神の働きはもう始まっています。神ご自身が解決なのです。私たちを失望させないリーダーはただお一人、イエスです。完璧な王。初めの王。イエスの愛に満ちた支配の下で、私たちは本来あるべき、真の生き方をすることができます。
神の国とはどんな国なのでしょうか。神の国で尊ばれるのは、いかに成功するかではなく、いかに人に尽くすかです。法律ではなく、愛です。自給自足ではなく、コミュニティです。神の国に入るのは自由な意志によるものであって、そこでは人々に何かを強制させることはありません。人種や性別、社会的地位、経済的地位、知性、性格などを問わず、全ての人々に開かれています。この王国では、仕事や身体的能力、社会への貢献度などで、市民としての価値は変わりません。あなたは愛する息子、娘であると神は大切にしてくださるので、あなたは尊い存在です。神の世界はこの世とどう違うか、いくらでも話し続けられます。でもここで言わせてください。これこそよい知らせではないですか。
結び
悔い改めて福音を信じるとは一言で言うどういうことでしょうか。 今日の私たちにとってはこういうことだと思います。「あなたの考えを変える備えをしなさい。あなたの心を整えて、神の言葉に耳をすましなさい。信じましょう。神は近くにおられ、あなたに話したいと願っておられることを。」
この世の王国であろうと、ささやかで快適な場所であろうと、満たされる思いや平安な心を自分の力では見つけることはできません。矛盾しているようですが、本当の自由は、知恵と愛に富む神に全てを明け渡すことによって見つかるものです。私たちは自分で全てを解決しようとしなくても、全部自分で頑張らなくてもよいのです。これはよい知らせではないですか。
イエスの言葉に耳を傾けましょう。イエスは御国をもたらします。イエスの御国はこの世が与えるものとは比べものにならないほど素晴らしいものです。
長くクリスチャンである人も福音を完全には理解していないかもしれません。例えば、神が私たちを愛してくださっていること、自分の価値を自分で証明する必要がないことも福音ではないでしょうか。残念ながら私たちは、しばしば無意識に神の御国ではなく、この世のやり方に従ってしまっています。あなたの人生のあらゆる面において、イエスが王となってくださるように祈りましょう。イエスの力があなたの人生のあらゆること、あらゆる考え、あらゆる願いに触れてくださるように願います。
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