イエスの力と優先順位(マルコの福音書1:29-2:17)

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今日の宣教メッセージを準備している時に、ある二人のラビの話に行き当たりました。ラビというのはユダヤ教の律法学者のことです。一人はHoniラビ、もう一人はHanina Ben Dosaラビです。

Honiラビはイエスの百年前に生きていた人で、雨乞いの祈りをしたことが有名です。ある時、彼の祈りがすぐに聞かれなかった時があって、その時、彼は地面に円を描いて、雨が降るまではこの円から動きませんよと、神に祈りました。すると直後に雨が降ったそうです。

もう一人のHanina Ben Dosaラビは、イエスの死から数十年経たった頃の人です。彼は病の人のために祈ることで知られていました。言い伝えによると、彼は、その病人が生きるか、亡くなってしまうかを予知する能力があったそうです。イエスと同じように、このラビたちはイスラエルのガリラヤ出身でした。彼らは奇蹟を行った祈りの人として、人々の記憶に刻まれています。

今日の聖書の箇所で強調したい点は、当時の奇蹟を行った人たちとイエスがいかに違うかです。また、イエスがご自分の使命というものをはっきりと持っていたことも注目すべき点です。それではマルコの福音書1章29節から45節と、2章1節から17節を読みます。この箇所を二つの大きなテーマ、一つはイエスの力、もう一つはイエスの優先順位という観点で考えていきたいと思います。まず、お祈りします。

(マルコの福音書1:29-45、2:1-17を読む)

イエスの力

この聖書箇所では、病と悪霊に打ち勝つイエスの力を見ることができます。最初のポイントは、イエスは病と悪霊を超える力を持っていたということです。イエスが人を癒す時、その癒しは即座で、そして明らかなのはお気付きかと思います。でもイエスが癒しの祈りを全くしていないことに、皆さんお気付きですか。四つの福音書の全ての記述において、イエスは単に命令しているだけです。「起きなさい」とか「清くなれ」とか。するとその人は癒されます。これは、その時代にユダヤで癒しを行う人々とイエスが違う点の一つです。他のユダヤ人の癒しを行う人は、癒しを求めて神に祈りました。何故なら、癒しの力は神のものであって、自分自身のものではないことをわかっていたからです。そして時に、神は癒しを与えないこともあります。

マルコ1章35節に見られるように、イエスの祈りは決して癒しを求める祈りではありません。後でイエスの祈りについて話したいと思いますが、今、ここで強調したいのは、癒しと悪霊を追い払うイエスの力は唯一無二のイエスだけものだということです。

ユダヤ人がイエスの力を目の当たりにして、イエスのメッセージを聞いた時、何が起こったでしょうか。ユダヤ人たちは興味津々で、盛り上がり、イエスにどうしても会いたいと思う人も出てきました。それはイエスの癒しを求めてだけではありません。

ユダヤ人は、イエスの癒しと宣教の中に、はるか昔からの神の約束のしるしを見たのです。イエスの時代の何百年も前に、神はバビロン捕囚によって、イスラエルの民が国外に連行されることを許されました。このバビロン捕囚を通して、神は、罪を犯したイスラエルの民を懲らしめたのです。イエスの時代には、イスラエルの民はイスラエルに戻っていましたが、未だに国外に追放されていると感じていました。それは、イスラエルの民がローマ帝国の支配下で抑圧を受けていたからです。そして、多くの預言に基づいて、イスラエルの神がいつか王として戻って来て、国外追放を終わらせ、王国が再建されると、イスラエルの民は信じていました。更に預言では、神は民の罪を許し、民を癒すと言われていました。例えば、預言者イザヤは、「強くあれ。恐れるな。…復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。そのとき目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。…」(イザヤ35:4-6)

ですから、イエスが癒しを行い、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と語った時に、皆の耳は反応して、ぴーんと立ったわけです。神はついに戻って来るのか?神はローマ人をやっつけて、イスラエルを再建して、かつての栄光を取り戻してくださるのか?

しかし、イエスは、皆が考えていたようには、イスラエルの民を救うつもりはありませんでした。イエスは、自分の本当の使命をご存知だったからです。

イエスの優先順位

これが今日の2番目のテーマにつながります。イエスの優先順位についてです。マルコ1章35節にあるように、イエスはたくさんの人々を夜まで癒した後、どこにもいなくなってしまいました。

弟子たちはきっとパニックになったことでしょう。結局、彼らは静かな場所で天の父に祈っているイエスを見つけました。「皆あなたを探していたのですよ。」と弟子たちはイエスに言いました。つまり彼らは、「イエス様、あなたにはするべきことがたくさんあるんですよ。人々はあなたを必要としています。もう、何故そんなにゆっくりと歩くんですか!?」と思っているのです。

1章38節にあるように、イエスが「さあ、近くのどこか他の場所へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出てきたのだから。」とおっしゃった時の弟子たちの顔を想像してみてください。イエスはご自分の優先順位について明確でした。もう一つの選択肢がどんなによいものであったとしても、イエスはご自分の使命からそれるようなことは決してなさらなかったのです。

イエスは全ての人々に憐みをお持ちでしたが、強いられて、彼らの必要全てに答えたわけではありませんでした。

イエスにとって、一番になすべきことは、全ての人の痛みを和らげることではありませんでした。むしろ、イエスにとって何よりなすべきことは、神の御国の福音を人々に知らせることでした。イエスのあらゆる癒しは神の御国の一面にすぎません。そして私たち全ての人々にとって、必要である最も深い癒しの形は、体に対するものではありません。

私たちが究極的に必要とする癒しは、私たちの心の病に対する癒しです。罪は私たちの心を毒で汚し、私たちを神から引き離します。イスラエルのように、私たちは神に背(そむ)きました。神は戻って来る時に、民の罪を許し、その罪を思い出さないとイザヤは預言しました。(イザヤ43:25) 神は私たちのもとに戻って来てくださり、私たちも神のもとへ立ち返ります。追放は終わり、真の意味で私たちは家に帰ることができるのです。

ですから、マルコ2章でイエスが中風(ちゅうぶ)の人、しびれなど体に麻痺のある人にただ、「体の麻痺が癒されるように」ではなく、「子よ、あなたの罪は許されました。」とイエスは言われました。そしてマルコ2章17節にあるように、「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」とイエスはパリサイ人に言われました。パリサイ人は、当時さげすまれていた人々と時間を共に過ごすイエスを批判しました。イエスの答えは、「私はまさにさげすまれた人々と時間を共にするために来たのです。」という趣旨のものでした。

この発言にもまして、パリサイ人が許せなかったのは、「あなたの罪は許された。」とイエスが言ったことです。マルコ2章7節に、パリサイ人は「…神おひとりのほか、だれが罪を許すことができよう」と心の中で怒(いか)ったとあります。パリサイ人は確かに正しいと思います。イエスは神と同じレベルにご自分を置いていましたから。パリサイ人は、神が人間の姿をとってこの世界においでになるとは思ってもいなかったようです。もしくは、単にイエスが立派な宗教家のイメージに合わなかったために、パリサイ人はイエスを受け入れようとしなかったのかもしれません。

人間は神のことを理解しようとする時、単純でわかりやすい捉え方になりがちだと思います。私たちが想定していることや人間の物差しによって、私たちは神をコントロールして、箱の中に収めようとしているのではないでしょうか。でも、神はいつでもその箱を突き破って、私たちを驚かせます。

例えば、福音書では、イエスの勝利の瞬間は、金の冠が与えられ、皇帝の玉座に座る時ではありませんでした。代わりにイエスは、いばらの冠をかぶり、十字架の上で死なれました。イザヤは、神が戻って来る時、救い主は人類の罪のために苦しむと預言しました。(イザヤ53:5)イエスは神に対する私たちの背(そむ)きの代償を払ってくださり、神からの追放を終わらせてくださいました。私たちがイエスに従い、十字架でイエスが買い取ってくださった罪の許しを受け取る時に、神は私たちを愛する子どもとして、神の国に招いてくださるのです。

王の子どもとして、王である神を愛し、隣人(となりびと)を自分自身のように愛していく時、神の国の優先順位をこの世で実現するとはどういうことかを、私たちは更に深く学んでいくのです。

この福音を伝えること、そしてイエスの死と復活を通して、福音を実現させることが、イエスの使命だったのです。

適用

さて、ここまで学んだイエスの力と優先順位を、どのように適用すればよいでしょうか。この2点について、考えを述べていきます。

まず、イエスの力についてです。私たちは、他の人や自分自身の回復のために祈るべきです。使徒の働きでは、イエスの弟子たちによる癒しの奇蹟を見ることができます。弟子たちは、いつもイエスの御名によって祈りました。でもこれは魔法の公式ではありません。弟子たちは、力は自分ものではなく、イエスの御手にあるという自覚をもって祈りました。人が回復するかそうでないかは、いつも神の主権的な判断であって、その判断の理由は、必ずしも私たちがわかるところではありません。「何故、神は私を苦しみにあわせるのか」と思いめぐらすこともあるかもしれません。大切なのは、神の国は来たけれども、まだ完了していない、移行中の段階に私たちがいることを心に留めておくことです。ですから、私たちの世界では、病や死は依然として現実のものです。

それで、私たちは神に「御国がきますように」と祈ります。神の新しい天と地では、復活した体が与えられ、完全な癒しが待っています。黙示録21章4節には、「…もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。…」とあります。

その時が来るまでは、神は私の命令をきくべきだなどと、神に要求するのは止めて、癒しを求めて祈りましょう。神は自動販売機ではありません。そして祈りは、自動販売機に入れる小銭とは違います。祈りを自動販売機の小銭のように入れたら、一定の成果が保証されるというものではないのです。

イエスさえ、父なる神に祈りました。「私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。」と。このようなイエスの祈りは、イエスの優先順位は何かを私たちに教えてくれます。

これが第二の点につながります。私たちは神の優先順位が何か学ぶべきです。時に私たちは、神がこの世で何をなさりたいのか誤解し、神の御心と私たち自身の願いを混同してしまうことがあります。私たちを幸せにすることが神の仕事であるかのように、私たちは神に接しているかもしれません。

「神様、私たちの家族を祝福してください。私の息子が試験に受かるように助けてください。私の事業を祝福してください。」と祈ることは間違いではありません。でも、いつもそういう祈りだったら、神は本当に私たちの王なのか、それとも、アラジンと魔法のランプのお話に出てくる、何でも願いをかなえてくれるジーニーなのか、自らに問わなければなりません。

でも、もし神が私たちの王であるなら、神の愛するしもべとして、私たちは神の優先順位に従って生きます。私たちは神の優先順位が何なのか、理解する必要があります。神に仕えることができるような人間になるために、私たちは神に形作っていただく必要があります。

イエスは私たちの模範です。今日の聖書の箇所で、イエスは一人になって父なる神と時間を過ごすことを選びました。イエスは父なる神の業(わざ)を為し、父なる神の御言葉のみを話すことを目指しました。もし、私たちがイエスの模範に従いたいのなら、私たちも父なる神と親しい関係を持っていなくてはいけないと思います。そうでなければ、神ではなくて、他から聞こえる声や社会からのプレッシャーが、私たちの人生を方向付けてしまうでしょう。

イエスが教えてくださったように祈ることを学んでいきましょう。「父なる神様、御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。」

マタイ6章にあるように「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」 父なる神は、あなたが生きるために必要なものをご存知であることを信じましょう。(マタイ6:32-33)

ここまでのところをまとめます。聖書が示す、神の優先順位は何でしょうか。それは、神の国を戻し、この世界を新しくすることです。神の国とは何ですか。簡単に言えば、神の国は、サタンや人間ではなく、神が支配するところです。造られたものを礼拝するのではなく、神を礼拝するところ。神の国は、死ではなく、命を見つけられるところ。憎しみではなく、愛が、壊れているのではなく完全があるところ。これらのことは、神の恵みによってのみ可能で、真に持続します。

結び

自分を振り返るために、最後にいくつかの質問で終わりたいと思います。

  1. 神の国、神の優先順位、神の価値をより深く理解するために、祈りや聖書を読むことに時間を使っていますか。
  2. あなたの人生は、神の価値を反映していますか。
  3. 人生がうまくいくように、快適になることだけを求めて祈っていませんか。どのような新しい方法で祈ることを学べばよいでしょうか。

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