「御名のために、私たちを退けないでください。」(エレミヤ14章21節)

Pastor Ino

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今回は、エレミヤ書から9回目のメッセージです。前回は、「あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。」(エレミヤ13章16節)とのテーマで語りました。私たちは神の約束を忘れて、問題だけを見ることが多いです。しかし、神の約束を堅く握り、神の恵みを振りかえってみましょう。キリストを信じる者は罪の赦しをいただき、永遠の命が与えられるのです。キリストは天に私たちの住まいを用意してくださる方です。これは信仰者に与えられている神の約束です。イスラエルの民は、聖なる国民、祭司の王国となる神の約束を忘れ、知らず知らずに高慢になり、神の恵みから離れて行ったのです。私たちは神の約束を堅く握り、主に栄光あれと力強く告白する民でありたいと願っています。何があっても神に栄光をお返ししていく、それが私たちの人生ではないでしょうか。

本日は、「主よ。御名のために、私たちを退けないでください。」との言葉を取り上げます。この言葉は、エレミヤの祈りの一部であり、彼の嘆きと懇願の祈りの一部です。14章は、日照りが、神の裁きとして臨む事から始まって参ります。日照りが起こる、それゆえに民は水を確保することができなくなります。日照のように、エルサレムに神の裁きが望むことが表現されています。いくつか取り上げてみます。2節には、「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。」とあります。日照のゆえに人々の活動が制限され、エルサレムは嘆き悲しむのです。また3節には、「その貴人たちは、召使を、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る。彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。」と書かれています。日照りのゆえに必要な水の確保さえできなくなるのです。そのように神の裁きがエルサレムに臨んで参ります。

そのような困難な中、7節から9節にかけてエレミヤの祈りが書かれています。7節には、「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。私たちの背信ははなはだしく、私たちはあなたに罪を犯しました。」とあります。エレミヤは神の正しい裁きを受け入れています。しかし、裁きを受け入れても、神の助けを祈ります。エレミヤは9節の後半で、「主よ。あなたは私たちの真中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。」と祈ります。その前の8節では、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と神に語りかけています。神の厳しい裁きを受け入れながらも、小さな希望を持ち続けて祈っています。しかし、神の答えは明白です。

10節には、「この民について、主はこう仰せられる。このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」とあります。南ユダの民は、神から離れて偶像の神々に足を運ぶようになってしまったのです。神の答えは、彼らの咎を覚えて、その罪を罰するとの答えです。さらに11節で、「主はさらに、私に仰せられた。この民のために幸を祈ってはならない。」とあります。人生にはいろんな時があります。幸いを味わう時も、悲しみを味わうこともあるのです。今は幸いを求める時ではないとの答えです。エレミヤは続いて神に問いかけます。13節で、「ああ、神、主よ。預言者たちは、あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなた方に与える。と人々に言っているではありませんか。」と、偽預言者の言葉を引用しています。いつの時代にもこのような偽りの預言者が存在するのです。神は15節で、「それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、と表現しています。

今の世界の現状を見るときに、クリスチャンである私たちは、み言葉に照らしてこの世界を直視し、判断する必要があると思います。モーセの十戒の言葉は特に大切です。神の思いはこのモーセの十戒によく表れているからです。神を愛すること、また隣人を愛すること、これらの視点に立って私たちも世界を見るべきであると思います。偽りや盗みや殺人、これらは神が明白に禁じていることです。最近思いがけず、韓国で起こった統一教会の問題が明らかにされています。先祖の崇拝や霊感商法など、聖書は固く禁じていることです。彼らは偽りの救い主を信じ、霊感商法による金集めなど、多くの問題を起こしてきた宗教団体です。私たちクリスチャンは、真実を見る目を必要としています。今回1人の牧師が参議院の選挙に受かりましたが、上に立つ政治家のために私たちは聖書の視点に立って、祈り続ける者でありたいと願います。

17節には、「あなたは彼らに、この言葉を言え。」とあり、エレミヤは神の視点から、自らの言葉として民に語りかけます。「私の目は夜も昼も涙を流して、やむことがない。私の民の娘、おとめの打たれた傷は大きく、いやしがたい、ひどい打ち傷。」と。今も世界を見る時に、このような言葉を私たちは語らざるを得ない、そのような時があるのです。アジアにおいてもヨーロッパにおいても争いが起こり、私の目は夜も昼も涙を流して止むことがない、と表現する現場が多く起こっています。

もう一度、エレミヤが置かれた状況を確認してみましょう。神との契約を破った南ユダはバビロンによって滅ぼされるのです。その理由は民が契約を破ったからです。神の裁きを止める事はできません。その現実を受け止めて、それでも神に祈り続けるエレミヤがいます。19節から22節まで、それがエレミヤの嘆きと懇願の祈りとなっています。19節には、「あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンをきらわれたのですか。なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、なんと恐怖しかありません。」と書かれています。実に厳しい現実です、その現実を受け入れて、エレミヤは祈るのです。20節では、「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。」と祈っています。この祈りは、南ユダの罪深い現実を自らのこととして受け入れたエレミヤの祈りです。「私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。」とあるように、エレミヤも自分のこととして、この祈りを捧げています。私たちも人を批判する祈りから、自分の弱さも認めて、神に助けを求める祈りを始めていきたいと思います。21節には、「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」と祈っています。エレミヤにとっても、エルサレムは神の栄光の御座がある場所なのです。神の御座、また神との契約を覚える、その祈りは、私たちも捧げるべき祈りです。私たちクリスチャンは、キリストにあって罪赦され、神の前に立ち、神を礼拝する者となりました。賛美や聖書の御言葉に触れ、神の思い、神の愛、神の赦し、それらの神の恵みに触れるのです。そして、御名のために、私たちを退けないでください。キリストとの新たな契約に私も留まることができるようにと、祈る者でありたいと願います

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